【完結】飛び立つ鳥の行く末は

遊佐ミチル

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第七章

61:お前、馬鹿にしやがって

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 腕が疲れたのかレオナルドが、小さく息をついて描く手を止める。ようやく、背後の人の気配に気付き振り返った。
「……お前、いつからそこに」
 アンジェロは目を合わせられず、自分の足元を見ながら言った。
「入り口のところにいたら、松脂持って行け、新人って言われちゃって。あ、あの、オレ、邪魔しちゃ悪いから、帰る」
 感謝や、今まで会えなくて寂しかったこと。自分だけ蚊帳の外にされて少し怒っていることなど、言いたいことはたくさんのあるのに、再び会えたということだけで胸がいっぱいになってしまった。
 もう、息も上手くできない。
 踵を返しかけると、「見ていかないのか?」と声が背中にぶつかって来た。
 アンジェロは立ちどまって、振り返らずに言う。
「い、いいの?」
「職人はもういない。これからは俺一人の時間だ。遠慮するな」
 アンジェロがレオナルドの所に戻ると、彼はすでにまた壁に向かって絵筆を走らせていた。
 後ろ姿に「会いたかった」と叫びたかった。けれど、十二年前と同じく声が出て来ない。言葉がきゅっと喉に詰まって、アンジェロを苦しめる。だから、見つめるのに背一杯だった。
 アンジェロは、絵を良く眺めるために、床に座った。
「対面の壁の依頼を受けるために下見にやってきたのか? ソデリーニは、お前にカッシーナの戦いを依頼したいと言っていたぞ」
 カッシーナの戦いは、一三六四年、フィレンチェがピサを奪還したときのものだ。
「レオさんのお題は?」
「俺はアンギリアーニの戦いだ」
 一四四十年、ミラノと戦ったフィレンチェがトスカーナのアンギリアーニで勝利する華々しい戰だ。戦旗を奪いあう兵士の姿は、絵だけではなく、小説や舞台でもよく使われる。
「オレもそっちがいいなあ」
 ぽろっと本音を漏らすと、レオナルドが振り返らずに笑った。
「確かに、アンギリアーニの戦いの方が派手だが、カッシーナの戦いも見どころは満載だ。俺だったら、アルノ川のほとりで水浴びをしている兵士が、敵の突然の襲撃に慌てふためいている様子を描くな。まだ水に浸かっている者、体を拭いている者、すでに服を着て急かしている者……」
「瞬間を描くんだね」
「ああ」
 レオナルドは振り返って頷く。
 だが、そこで会話は途切れてしまった。十二年というブランクがあっても美術談議はできるのに、普通の話ができない。
「マエストロ。お食事です」
 そこにフィレンチェ政庁舎の職員がやってきた。トレーには、蝋燭が灯された燭台、パンやチーズが乗せられている。
 レオナルドは夜、遅くまでここで仕事をするつもりらしい。
 邪魔をしては悪いと後ろ髪を引かれる思いで腰を上げる。
「どっかの屋台で食うつもりなら、ここで食っていけ」
「いいの?」
「ああ。その代わり、これを飲むのを手伝えよ」
 レオナルドは五百人の間の隅に行き鞄からワインの瓶を取り出した。
「最後の晩餐を描き上げた礼に、イル・モーロからワイン畑を貰ったんだが、」
 アンジェロにグラスを持たせ注いだレオナルドは言葉を区切り、飲むように勧めた。
 口に含むと、ツンと酸っぱい。そして、後味は酸っぱい。
「不味っ」
 思わず口に出すと、レオナルドが笑い始めた。
「土がよくねえのか、水はけの問題なのか、一向にいい葡萄が収穫されん。これは昨年のだが、最悪の出来だ。まあ、作ったのは俺だから、こうやって責任を取って飲んでいる」
 アンジェロは、クスクスと笑い出す。
 天才レオナルド、万能人レオナルドと呼ばれる人が、一体何をやっているだろう。
「お前、馬鹿にしやがって」
 グラスを置たレオナルドが、首に腕を回してきた。一瞬で二人の距離が近くなる。
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