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第七章

58:……悔しいなら俺と肩を並べる作品を作ってみろ、か

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 ノミを握る右手を見ると、小指の付け根から手首にかけてうっすらと傷が走っている。
かなり薄くなりかけえていて目立たないが、体温が上がるとその部分だけ細く白い線となって浮き上がる。
 アンジェロはフィレンチェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ教会大聖堂に囲いを作り、その中で五メートルを超える大理石で若い青年の像を彫っていた。
 旧約聖書サムエル記に登場するペリシテ人ゴリアテに、石を掴んで今まさに投げようとしている羊飼いのゴリアテだ。
 ダビデは様々な彫刻家や絵描きに題材にされてきた。だが、兵士にも満たない少年という記述が旧約聖書にあるので、幼い少年の姿が定番だった。
 最も有名なのが、ゴリアテの首を切り落とした直後の、裸でブーツ姿のダビデを彫ったドナッテロ。そして、若き日のレオナルドをモデルにしたベロッキオ作のダビデ像も名作だ。
 だが、アンジェロはゴリアテを倒してホッと一息ついた少年ではなく、ゴリアテと戦うダビデの緊迫を描きたかった。
 ダビデは、少年でなければならないという先入観の排除。
 ダビデ対ゴリアテの戦いが始まろうとしている瞬間の表し方。
 その発想を授けたのは、たった数か月だけ時を過ごした悪い大人だ。
 あの時から十二年の月日が流れていた。
 フィレンチェに引き渡されロレンツォの大葬に参加した。レリーフを霊廟に無事納めたが、そのあたりの記憶はぽっかり抜け落ちている。
 ミラノの滞在すら、夢を見ていたような気分だった。
 アンジェロは完成間近の緊張感漲る若い青年のダビデを見上げた。
 現実感を持てなくても、悪い大人の影響はこうやって作品にしっかりと反映されている。
「……悔しいなら俺と肩を並べる作品を作ってみろ、か」
 レオナルドといえば、先入観の排除と瞬間にこだわった最後の晩餐を描きあげ、絵描きとしてゆるぎない地位に上り詰めていた。記念騎馬像は戰のために大砲を作るためのブロンズが必要で完全な製作はできなかったが、それでも巨大な模型を完成させていた。
 肩を並べるどころか、大きく水をあけられている状態だ。
「オレ、馬鹿みたいだ。いつまでもこだわって。あっちは絵描き。オレは彫刻家。勝負のしようがない」
 いつも、考えはここに行く着く。
 堂々巡りをして、最後には、怒りと虚しさと、そして切ない気持ちに心が占拠される。
「ミケランジェロさーん!」
 囲いの板がトントンと叩かれた。雇っている職人の声だ。
「何だよ! もうすぐ仕上がるから誰も取り次ぐなって言ったろ!」
 ダビデ像の完成は間もなくだ。フィレンチェ政庁舎に飾られる予定のこの像を見に、ひっきりなしに役人がやってくる。気が散ってしょうがないから、こうやって囲いを作ったのだ。
「ソデリーニ終身行政長官の代理の方です。もう、囲いの手前まで……」
 ソデリーニは、ミラノからフィレンチェに引き渡される際、迎えに来てくれた男だ。今ではすっかり出世し、行政長官に任命されている。
 彼は今、フィレンチェ政庁舎の大会議場、通称五百人の間の壁の一面をアンジェロに描かせようとしていた。だが、何度、足を運ばれても断るつもりでいた。ダビデ像の製作は、三年を超えていたので、少し休みが欲しい。
 入っていいと許可していないのに囲いが一枚どかされた。茶色い巻き毛の若い男が入って来て、ダビデを見上げ「ワーオ、何この筋肉」と笑う。
 アンジェロは仰天した。
「サライッ!?」
「やあ、アンジェロ、久しぶり」
 まるで、先日会ったかのような親しさで、サライは微笑みかけてくる。
 あの頃、小悪魔風だったサライは、背が伸びてますます美しい青年になっていた。
「……あ。うん」
 声を失った時みたいに、言葉が上手く出て来ない。
 一体何しにやって来たのだろう?
「どんな男になったのかなと思ったら、相変わらず、ぼさっとしているね。それに、酷い格好だ」
 サライは、中途半端に伸びた髪をくくり、汚れたチェニック姿のアンジェロを頭からつま先まで見て言う。
 十二年経っても、サライは相変わらず口が悪い。
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