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第六章
50:君はまだ、マエストロの弟子なんだよ?
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「勝手にモデルにしたからな」
「だってさ、聞いたアンジェロ?」
サライが問いかけても、アンジェロはチラッと振り向いて軽く頷いただけで興味を示さない。目は暗く、酒場で出会った頃を思い出させる。
こんな調子で別れを迎えるのは嫌だ。
断腸の思いで手放すのだから、腑抜けのままでは困る。
レオナルドは立ち上がって主寝室へと向かった。「アンジェロ、サライ。こっちに来い」
呼ぶとサライはすぐにやって来たが、アンジェロはまだ窓辺にいる。それにサライが気付いて呼びに行った。
「アンジェロ。マエストロが呼んでいる。まだ、フィレンチェに着いていないんだから、君はまだ、マエストロの弟子なんだよ?」
サライに諭されて、アンジェロは伏し目がちに主寝室にやってきた。
レオナルドは、素描帳から描き上がった十二使徒とキリストを一枚一枚寝台の上に置いていく。
「以前、お前らに、最後の晩餐は低いテーブルから横長の背の高いテーブルに構図が変化しているって話はしたよな?」
レオナルドは、寝台の真ん中にキリストの素描を、ユダ以外の十二使徒を並べてみる。
キリストの右、すぐ傍で眠っているヨハネ、さらに隣にペドロ。左には大ヤコブ。トマス。そして、アンジェロがモデルのフィリポ。そして、彼らと対面にユダを置く。
「これで、最後の晩餐の構図は出来上がったようなものじゃない?」
「俺は、キリストにこの中に裏切り者がいると告げられて驚く十二使徒の瞬間が描きたいんだ。だから、しっくりこない。何故なら、」
レオナルドは口で説明しようとして、考えを変えた。
「お前らちょっと抱き合ってみろ」と命令する。
「アンジェロと僕が?」
無表情だったアンジェロもさすがにおろおろとした。だが、レオナルドは引かない。
「ジョットの最後の晩餐は、ヨハネがキリストにもたれて眠っている。まだ若いヨハネは起きてられない遅い時間っていう解釈なんだろう。それに、ヨハネはキリストに一番愛された弟子だからくっついて描かれるのが定説だ。けれど、最後の晩餐に、ヨハネの動きは不自然すぎないか? キリストが重要なことを告げようとしているのに」
「言われてみれば確かに変。だけど、キリストとくっついていないと誰がヨハネなのか、見ている者は分からないよ」
レオナルドは首を振る。
「それも先入観の一つだ。教会は、信者が一目見てわかる絵を描いてくれと絵描きに必ず言う。だから、十二使徒の動きが決まりきった、そして不自然なものになる。実際の十二使徒は最後の晩餐の時、ユダが一人だけ離れて食事をとっていたわけではあるまい。他の使徒に混ざって食べていたはずだ」
レオナルドは、ユダの素描を他の使徒と一緒にしてしまう。
「そして、ヨハネは」
そう言った後、レオナルドはアンジェロの顔を見た。彼が芸術の守護者ロレンツォ・ディ・メディチに目を掛けられた男なら、レオナルドが言おうとしていることは、もう分かっているだろう。
アンジェロはサライを引き剥がし、手のひらで肩を押した。
「何すんだよ、アンジェロ」
弟弟子の行動が予想外だったのか、サライは寝台に仰向けになったまま驚いている。
レオナルドは、まっさらな素描帳の頁に素早くサライの表情を描いていく。
「そうだ、その表情だ、サライ!キリストにこの中に裏切り者がいるって言われたら、十二使徒は天地がひっくり返ったかと思うほど驚く。きっとヨハネはキリストにくっついて眠っている余裕はなくなる。他の使徒だって、どうしようもなく不安になる。自分の隣りの男が裏切り者じゃないかと。いや、キリストは自分を疑っているんじゃないかと」
興奮して一気にまくしたてると、アンジェロが頷いて、自分の傍から十二使徒の素描を離し始めた。出エジプト記に書かれた、割れた海を歩くモーセのように、十二使徒の人波が割れ、キリストの存在が際立つ。
「ああ、その通りだ、アンジェロ」
頭の中で思っていたことを、何も告げなくてもアンジェロが示してくれた。
レオナルドは嬉しかった。
だが、アンジェロは寂しそうに笑っている。その表情は、記念騎馬像の模型を勝手に仕上げてしまった時の笑みとそっくりだった。
またやってしまったと後悔しているのだろう。
違うんだ、俺は通じ合えてこんなにも嬉しいんだ。
そう伝えたい。
だが、言葉が出て来ない。
アンジェロみたいに声が出なくなったわけではないのに、きちんと説明してやれない。
好きだから手放す、と。
お互いに黙りこくっていると、横からサライが「アンジェロ! そら、仕返しだ」と飛びかかっていく。
大柄なアンジェロもさすがに至近距離でサライに飛びかかれて受け止めきれず、寝台に倒れた。その衝撃で、せっかく並べた十二使徒の素描画、散らばって床に落ちる。
「お前ら、ガキか」
呆れた振りをして紙を拾っていると、サライがアンジェロの上で体を起こした。
寝台を見ると、アンジェロは目の上に片腕を乗せていた。目尻から、涙が一筋零れる。
「どうして、泣くんだよ? 今は楽しくて笑うところだろ?」
サライはアンジェロに言い聞かすように、体を揺さぶる。
「今夜のこと、忘れるなよ、絶対に!」
小さくアンジェロが頷いた。
「きっとすぐミラノが恋しくなる。そのときはあれこれ余計なことを考えず戻って来いよ。僕が一緒にマエストロに頭を下げてやるから」
サライは、アンジェロの隣りに寝そべって頭を撫でてやる。
レオナルドは、同意の言葉を添えることがしなかった。
いや、できなかったのだ。
「だってさ、聞いたアンジェロ?」
サライが問いかけても、アンジェロはチラッと振り向いて軽く頷いただけで興味を示さない。目は暗く、酒場で出会った頃を思い出させる。
こんな調子で別れを迎えるのは嫌だ。
断腸の思いで手放すのだから、腑抜けのままでは困る。
レオナルドは立ち上がって主寝室へと向かった。「アンジェロ、サライ。こっちに来い」
呼ぶとサライはすぐにやって来たが、アンジェロはまだ窓辺にいる。それにサライが気付いて呼びに行った。
「アンジェロ。マエストロが呼んでいる。まだ、フィレンチェに着いていないんだから、君はまだ、マエストロの弟子なんだよ?」
サライに諭されて、アンジェロは伏し目がちに主寝室にやってきた。
レオナルドは、素描帳から描き上がった十二使徒とキリストを一枚一枚寝台の上に置いていく。
「以前、お前らに、最後の晩餐は低いテーブルから横長の背の高いテーブルに構図が変化しているって話はしたよな?」
レオナルドは、寝台の真ん中にキリストの素描を、ユダ以外の十二使徒を並べてみる。
キリストの右、すぐ傍で眠っているヨハネ、さらに隣にペドロ。左には大ヤコブ。トマス。そして、アンジェロがモデルのフィリポ。そして、彼らと対面にユダを置く。
「これで、最後の晩餐の構図は出来上がったようなものじゃない?」
「俺は、キリストにこの中に裏切り者がいると告げられて驚く十二使徒の瞬間が描きたいんだ。だから、しっくりこない。何故なら、」
レオナルドは口で説明しようとして、考えを変えた。
「お前らちょっと抱き合ってみろ」と命令する。
「アンジェロと僕が?」
無表情だったアンジェロもさすがにおろおろとした。だが、レオナルドは引かない。
「ジョットの最後の晩餐は、ヨハネがキリストにもたれて眠っている。まだ若いヨハネは起きてられない遅い時間っていう解釈なんだろう。それに、ヨハネはキリストに一番愛された弟子だからくっついて描かれるのが定説だ。けれど、最後の晩餐に、ヨハネの動きは不自然すぎないか? キリストが重要なことを告げようとしているのに」
「言われてみれば確かに変。だけど、キリストとくっついていないと誰がヨハネなのか、見ている者は分からないよ」
レオナルドは首を振る。
「それも先入観の一つだ。教会は、信者が一目見てわかる絵を描いてくれと絵描きに必ず言う。だから、十二使徒の動きが決まりきった、そして不自然なものになる。実際の十二使徒は最後の晩餐の時、ユダが一人だけ離れて食事をとっていたわけではあるまい。他の使徒に混ざって食べていたはずだ」
レオナルドは、ユダの素描を他の使徒と一緒にしてしまう。
「そして、ヨハネは」
そう言った後、レオナルドはアンジェロの顔を見た。彼が芸術の守護者ロレンツォ・ディ・メディチに目を掛けられた男なら、レオナルドが言おうとしていることは、もう分かっているだろう。
アンジェロはサライを引き剥がし、手のひらで肩を押した。
「何すんだよ、アンジェロ」
弟弟子の行動が予想外だったのか、サライは寝台に仰向けになったまま驚いている。
レオナルドは、まっさらな素描帳の頁に素早くサライの表情を描いていく。
「そうだ、その表情だ、サライ!キリストにこの中に裏切り者がいるって言われたら、十二使徒は天地がひっくり返ったかと思うほど驚く。きっとヨハネはキリストにくっついて眠っている余裕はなくなる。他の使徒だって、どうしようもなく不安になる。自分の隣りの男が裏切り者じゃないかと。いや、キリストは自分を疑っているんじゃないかと」
興奮して一気にまくしたてると、アンジェロが頷いて、自分の傍から十二使徒の素描を離し始めた。出エジプト記に書かれた、割れた海を歩くモーセのように、十二使徒の人波が割れ、キリストの存在が際立つ。
「ああ、その通りだ、アンジェロ」
頭の中で思っていたことを、何も告げなくてもアンジェロが示してくれた。
レオナルドは嬉しかった。
だが、アンジェロは寂しそうに笑っている。その表情は、記念騎馬像の模型を勝手に仕上げてしまった時の笑みとそっくりだった。
またやってしまったと後悔しているのだろう。
違うんだ、俺は通じ合えてこんなにも嬉しいんだ。
そう伝えたい。
だが、言葉が出て来ない。
アンジェロみたいに声が出なくなったわけではないのに、きちんと説明してやれない。
好きだから手放す、と。
お互いに黙りこくっていると、横からサライが「アンジェロ! そら、仕返しだ」と飛びかかっていく。
大柄なアンジェロもさすがに至近距離でサライに飛びかかれて受け止めきれず、寝台に倒れた。その衝撃で、せっかく並べた十二使徒の素描画、散らばって床に落ちる。
「お前ら、ガキか」
呆れた振りをして紙を拾っていると、サライがアンジェロの上で体を起こした。
寝台を見ると、アンジェロは目の上に片腕を乗せていた。目尻から、涙が一筋零れる。
「どうして、泣くんだよ? 今は楽しくて笑うところだろ?」
サライはアンジェロに言い聞かすように、体を揺さぶる。
「今夜のこと、忘れるなよ、絶対に!」
小さくアンジェロが頷いた。
「きっとすぐミラノが恋しくなる。そのときはあれこれ余計なことを考えず戻って来いよ。僕が一緒にマエストロに頭を下げてやるから」
サライは、アンジェロの隣りに寝そべって頭を撫でてやる。
レオナルドは、同意の言葉を添えることがしなかった。
いや、できなかったのだ。
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