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第五章
42:彼も寡黙な子でしたが、さすがに口はきけました
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ずっと俯いていると「おや、マエストロでは?」という声がした。フィレンチェ訛りが微かにある、少ししゃがれた声だ。
「ああ、あんたか。確か名前は、ダニエレだったか」
レオナルドの知り合いのようだ。男は柔らかな声で続ける。
「覚えておいていただき、幸いです。隣はお弟子さんですか? 具合が悪そうですが」
「いつものことだ」
諦めたようにレオナルドが言った。せっかく自分を晒す機会を与えられたのに、失望させてしまったのが悲しかった。
「では、少しお話をよろしいですかな?夏を祝う宴は盛況だったと聞いておりますよ」
「それは、どうも。でも、褒めたって、あんたの依頼を受ける率が上がるわけじゃない。仕事の管理は、サライに任せている。あいつ、名もなきフィレンチェの美術商の依頼を受けている場合かって言って、いい顔しないもんでね」
「隣りの方がサライさん?」
「いや、こいつはアンジェロ」
仕方なくアンジェロは顔を上げ、ダニエレに向かってペコッと頭を下げた。
ダニエレは、きっちりと上着を着こみ、羽の付いた帽子を被っている男だった。穏やかな灰色の目をしている。
この人、どこかで。
とアンジェロが思った瞬間、ダニエレも同じようなことを言った。
「失礼ですが、お会いしたことが?」
アンジェロは噴水に落ちそうなほど体を引く。
思い出した! この人、ロレンツォ様の傍付きだった人だ。
「お前、何やってんだよ、水浴びする気か?」
驚きすぎて、レオナルドの小言も耳に入ってこない。
確か、オレがロレンツォ様を親しくなった直後に、傍付きから他の宮廷業務になったはず。宮廷を止めて美術商に?
レオナルドがため息をついた。
「悪いなあ、ダニエレ。もうすぐ十八才になるって言うのに、落ち着きのない弟子で。おまけに口がきけなくてよ」
「そうですか。それは難儀な。フィレンチェの原石と呼ばれる若者と雰囲気が似ていたもので。彼も寡黙な子でしたが、さすがに口はきけました」
「フィレンチェには、そんな呼ばれ方をする若者がいるのか」
心臓が嫌な音を立てはじめる。
早く別の話題に移って欲しい。
じゃなきゃ、ここを去りたい。
市場を眺めると、大通りを交差する細い路地から茶色の巻き毛の若者が出て来て、向かいの細い路地へと入っていく。
間違いない。あれはサライだ。
ダニエレは、まだ話し続けている。
「そのうち、ミラノにも噂が聞こえてくるはずです。フィレンチェの原石の名前は、ミケランジェロ……」
アンジェロは二人の気を反らすため、わざと大げさに立ち上がる。
『レオさん。サライがいた。仕事を受けるかどうか、話を進めたいんでしょう?ここに連れてくる』
「勝手に一人になるなっ!」と言うレオナルドの声をやり過ごし、サライが入っていった細い路地に駆けだす。
そこまで辿りついて、憲兵がいないか辺りを見回した後、アンジェロは息を整えた。
呼んでくるだなんて、もちろんあの場を去るための方便だ。
ここで時間を潰そうと思っていると、人波に消えて行くサライの背中が目に入る。
彼の足取りは妙に早かった。
サライが歩いていると、「よう、別嬪さん!」「今晩は空いている?飲みに行こうぜ」と男達が次々と声を掛けてくる。しかし、サライは見向きもしない。つれなくしているわけではなく、他人の存在が全く目に入っていない、そんな感じがした。
できればあの兄弟子には関わりたくない。けれど、いつも以上に様子が変だ。
アンジェロはこっそり跡をつけていく。
人波を突っ切るように進んでいたサライは、街中にある小さな教会の前で立ち止まった。野次馬の子供が指さした教会だ。
教会の入り口には、立て札が立っていて文書が貼られていた。サライはそれを食い入るように見つめている。
細い肩がブルブルと震えてて、両方の拳は、グッと握り絞められる。
「ああ、あんたか。確か名前は、ダニエレだったか」
レオナルドの知り合いのようだ。男は柔らかな声で続ける。
「覚えておいていただき、幸いです。隣はお弟子さんですか? 具合が悪そうですが」
「いつものことだ」
諦めたようにレオナルドが言った。せっかく自分を晒す機会を与えられたのに、失望させてしまったのが悲しかった。
「では、少しお話をよろしいですかな?夏を祝う宴は盛況だったと聞いておりますよ」
「それは、どうも。でも、褒めたって、あんたの依頼を受ける率が上がるわけじゃない。仕事の管理は、サライに任せている。あいつ、名もなきフィレンチェの美術商の依頼を受けている場合かって言って、いい顔しないもんでね」
「隣りの方がサライさん?」
「いや、こいつはアンジェロ」
仕方なくアンジェロは顔を上げ、ダニエレに向かってペコッと頭を下げた。
ダニエレは、きっちりと上着を着こみ、羽の付いた帽子を被っている男だった。穏やかな灰色の目をしている。
この人、どこかで。
とアンジェロが思った瞬間、ダニエレも同じようなことを言った。
「失礼ですが、お会いしたことが?」
アンジェロは噴水に落ちそうなほど体を引く。
思い出した! この人、ロレンツォ様の傍付きだった人だ。
「お前、何やってんだよ、水浴びする気か?」
驚きすぎて、レオナルドの小言も耳に入ってこない。
確か、オレがロレンツォ様を親しくなった直後に、傍付きから他の宮廷業務になったはず。宮廷を止めて美術商に?
レオナルドがため息をついた。
「悪いなあ、ダニエレ。もうすぐ十八才になるって言うのに、落ち着きのない弟子で。おまけに口がきけなくてよ」
「そうですか。それは難儀な。フィレンチェの原石と呼ばれる若者と雰囲気が似ていたもので。彼も寡黙な子でしたが、さすがに口はきけました」
「フィレンチェには、そんな呼ばれ方をする若者がいるのか」
心臓が嫌な音を立てはじめる。
早く別の話題に移って欲しい。
じゃなきゃ、ここを去りたい。
市場を眺めると、大通りを交差する細い路地から茶色の巻き毛の若者が出て来て、向かいの細い路地へと入っていく。
間違いない。あれはサライだ。
ダニエレは、まだ話し続けている。
「そのうち、ミラノにも噂が聞こえてくるはずです。フィレンチェの原石の名前は、ミケランジェロ……」
アンジェロは二人の気を反らすため、わざと大げさに立ち上がる。
『レオさん。サライがいた。仕事を受けるかどうか、話を進めたいんでしょう?ここに連れてくる』
「勝手に一人になるなっ!」と言うレオナルドの声をやり過ごし、サライが入っていった細い路地に駆けだす。
そこまで辿りついて、憲兵がいないか辺りを見回した後、アンジェロは息を整えた。
呼んでくるだなんて、もちろんあの場を去るための方便だ。
ここで時間を潰そうと思っていると、人波に消えて行くサライの背中が目に入る。
彼の足取りは妙に早かった。
サライが歩いていると、「よう、別嬪さん!」「今晩は空いている?飲みに行こうぜ」と男達が次々と声を掛けてくる。しかし、サライは見向きもしない。つれなくしているわけではなく、他人の存在が全く目に入っていない、そんな感じがした。
できればあの兄弟子には関わりたくない。けれど、いつも以上に様子が変だ。
アンジェロはこっそり跡をつけていく。
人波を突っ切るように進んでいたサライは、街中にある小さな教会の前で立ち止まった。野次馬の子供が指さした教会だ。
教会の入り口には、立て札が立っていて文書が貼られていた。サライはそれを食い入るように見つめている。
細い肩がブルブルと震えてて、両方の拳は、グッと握り絞められる。
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