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第四章

27:俺のことなど、向うはすっかり忘れているはずです

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「アンジェロは手も使えないし、口もきけないから手間がかかるよね」
「アンジェロだけじゃない。お前もだ。おい、結ぶのはやってくれ」
 レオナルドから命令を受けたサライは、革紐で、アンジェロの髪をきつく縛った。
「ありがとうよ。お前の髪も同じようにしてやろうか?」
「おあいにくさま。僕は、どういう髪型が自分に似合っているか分かっているから」
 サライの声は、かなりと刺々しい。
 自分がいなければ、この二人の関係はもう少しまともだろうにと、アンジェロの背中が丸まってしまう。
 レオナルドはポケットから布を取り出し、手に着いた油を拭う。そして、「ほら、背中」とアンジェロの背中を叩いた。
 舞台の近くで浅黒い肌の着飾った大男が、夏を祝う宴にやってきた客達と気さくに挨拶を交わしている。「楽しんでいってくれたまえ」「やあ、よく来てくれた」という大声がこちらまで聞こえてくる。
 レオナルドが言った。
「あいつが、イル・モーロだ。イルは浅黒い。モーロは、桑を意味するラテン語モルスから来ている。桑はスフォルツア家の軍事的シンボルだからな」
 イル・モーロが、ワインが入ったグラスを片手に寄ってきた。
「レオナルド。そこにいたのか。今宵も期待しているぞ」
「閣下。お任せください。このレオナルド、夏を祝う宴のためにわき目もふらず心を尽くしてまいりました。舞台演出が準備が余りにも楽しく、今宵で終わってしまうのかと思うと、この胸は悲しみに占拠されます」
 食堂の壁画より記念騎馬像の製作を優先させるよう使者に言われ、怒ったレオナルドを知っているので、アンジェロは苦笑してしまう。しかし、隣にいるサライはにこりともしなかった。
「これが終われば、記念騎馬像の製作が待っている。万能人レオナルド・ダ・ビンチの名に懸けて、放り出してミラノを去ることはできないよな?イタリア半島一、巨大な馬の像を頼むぞ。そして、イル・モーロここにありと知らしめるのだ」
「閣下は、俺がフィレンチェに帰るとでも思っているのですか?迎えなど、来はしないでしょう。俺のことなど、向うはすっかり忘れているはずです」
「急に思い出すということもある。父ロレンツォが思い出さなくても、息子ピエロがな」
 アンジェロは、フィレンチェの尖った塔が印象的なベッキア宮殿を思い出す。そこで、ロレンツォがフィレンチェの支配を行っていた。今はそこで、息子のピエロがフィレンチェの支配を行っているはずだ。
 ミラノにやってきて一ヶ月。確実に時は動いている。
「ロレンツォが亡くなり、フィレンチェは荒れている。フランス王国を後ろ盾にし、フィレンチェは堕落した国と批判する僧サヴォナローラのせいでな。贅沢に慣れきったフィオレンティーナどもは、僧サヴォナローラに心酔しているらしい。笑ってしまうな。フィレンチェから贅沢を取り去ったら、一体何が残るというのだ?」
 イル・モーロは、レオナルドがミラノを去ってしまわないかどうか心配しているようだ。会話の意図を読み取ったレオナルドが、痒いところに手が届くような答え方をした。
「閣下のいるミラノで作品作りができ、レオナルドは日々幸せを感じております」
「であれば、早々に記念騎馬像の製作に取り掛かってくれ」
「もちろんです。しかし、閣下の名を知らしめるには、大きさではなく、デザインかと。後脚で立ち上がる大きい馬の像はこの世にはまだ……」
 すると、イル・モーロがじろりとレオナルドを見た。
「ドナート・モントルファを知っているな? 奴には、食堂の対面の壁の依頼をかけている。仕事はきっちり遅れずにやる人間だから、壁画が二枚に増えても大丈夫だろう」
 レオナルドにはミラノに居て欲しい。しかし、好き勝手にはやらせない。
 ここは支配者としての権力の見せどころとばかりに、イル・モーロは脅しをかけてくる。
「かしこまりました。イタリア半島どころか、世界に閣下の名を知らしめるほどの巨大な記念騎馬像を」
 よく通る声で、レオナルドが返事をする。悔しそうにぎゅっと手を握りしめたのをアンジェロは見てしまった。
 満足気に頷いたイル・モーロが、レオナルドの背後を覗き込んだ。
「サライ。相変わらず美しいな。絵の修行に飽きたら、宮廷に来んか?傍に置いて末永く可愛がってやる」
 サライの傍に寄って行こうとするイル・モーロをレオナルドが阻む。
「こいつは、俺の手元に置いて一人前の絵描きにすると、預けた父親と約束したんです。見た目だけで褒めるのはお止めください」
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