27 / 64
第四章
27:俺のことなど、向うはすっかり忘れているはずです
しおりを挟む
「アンジェロは手も使えないし、口もきけないから手間がかかるよね」
「アンジェロだけじゃない。お前もだ。おい、結ぶのはやってくれ」
レオナルドから命令を受けたサライは、革紐で、アンジェロの髪をきつく縛った。
「ありがとうよ。お前の髪も同じようにしてやろうか?」
「おあいにくさま。僕は、どういう髪型が自分に似合っているか分かっているから」
サライの声は、かなりと刺々しい。
自分がいなければ、この二人の関係はもう少しまともだろうにと、アンジェロの背中が丸まってしまう。
レオナルドはポケットから布を取り出し、手に着いた油を拭う。そして、「ほら、背中」とアンジェロの背中を叩いた。
舞台の近くで浅黒い肌の着飾った大男が、夏を祝う宴にやってきた客達と気さくに挨拶を交わしている。「楽しんでいってくれたまえ」「やあ、よく来てくれた」という大声がこちらまで聞こえてくる。
レオナルドが言った。
「あいつが、イル・モーロだ。イルは浅黒い。モーロは、桑を意味するラテン語モルスから来ている。桑はスフォルツア家の軍事的シンボルだからな」
イル・モーロが、ワインが入ったグラスを片手に寄ってきた。
「レオナルド。そこにいたのか。今宵も期待しているぞ」
「閣下。お任せください。このレオナルド、夏を祝う宴のためにわき目もふらず心を尽くしてまいりました。舞台演出が準備が余りにも楽しく、今宵で終わってしまうのかと思うと、この胸は悲しみに占拠されます」
食堂の壁画より記念騎馬像の製作を優先させるよう使者に言われ、怒ったレオナルドを知っているので、アンジェロは苦笑してしまう。しかし、隣にいるサライはにこりともしなかった。
「これが終われば、記念騎馬像の製作が待っている。万能人レオナルド・ダ・ビンチの名に懸けて、放り出してミラノを去ることはできないよな?イタリア半島一、巨大な馬の像を頼むぞ。そして、イル・モーロここにありと知らしめるのだ」
「閣下は、俺がフィレンチェに帰るとでも思っているのですか?迎えなど、来はしないでしょう。俺のことなど、向うはすっかり忘れているはずです」
「急に思い出すということもある。父ロレンツォが思い出さなくても、息子ピエロがな」
アンジェロは、フィレンチェの尖った塔が印象的なベッキア宮殿を思い出す。そこで、ロレンツォがフィレンチェの支配を行っていた。今はそこで、息子のピエロがフィレンチェの支配を行っているはずだ。
ミラノにやってきて一ヶ月。確実に時は動いている。
「ロレンツォが亡くなり、フィレンチェは荒れている。フランス王国を後ろ盾にし、フィレンチェは堕落した国と批判する僧サヴォナローラのせいでな。贅沢に慣れきったフィオレンティーナどもは、僧サヴォナローラに心酔しているらしい。笑ってしまうな。フィレンチェから贅沢を取り去ったら、一体何が残るというのだ?」
イル・モーロは、レオナルドがミラノを去ってしまわないかどうか心配しているようだ。会話の意図を読み取ったレオナルドが、痒いところに手が届くような答え方をした。
「閣下のいるミラノで作品作りができ、レオナルドは日々幸せを感じております」
「であれば、早々に記念騎馬像の製作に取り掛かってくれ」
「もちろんです。しかし、閣下の名を知らしめるには、大きさではなく、デザインかと。後脚で立ち上がる大きい馬の像はこの世にはまだ……」
すると、イル・モーロがじろりとレオナルドを見た。
「ドナート・モントルファを知っているな? 奴には、食堂の対面の壁の依頼をかけている。仕事はきっちり遅れずにやる人間だから、壁画が二枚に増えても大丈夫だろう」
レオナルドにはミラノに居て欲しい。しかし、好き勝手にはやらせない。
ここは支配者としての権力の見せどころとばかりに、イル・モーロは脅しをかけてくる。
「かしこまりました。イタリア半島どころか、世界に閣下の名を知らしめるほどの巨大な記念騎馬像を」
よく通る声で、レオナルドが返事をする。悔しそうにぎゅっと手を握りしめたのをアンジェロは見てしまった。
満足気に頷いたイル・モーロが、レオナルドの背後を覗き込んだ。
「サライ。相変わらず美しいな。絵の修行に飽きたら、宮廷に来んか?傍に置いて末永く可愛がってやる」
サライの傍に寄って行こうとするイル・モーロをレオナルドが阻む。
「こいつは、俺の手元に置いて一人前の絵描きにすると、預けた父親と約束したんです。見た目だけで褒めるのはお止めください」
「アンジェロだけじゃない。お前もだ。おい、結ぶのはやってくれ」
レオナルドから命令を受けたサライは、革紐で、アンジェロの髪をきつく縛った。
「ありがとうよ。お前の髪も同じようにしてやろうか?」
「おあいにくさま。僕は、どういう髪型が自分に似合っているか分かっているから」
サライの声は、かなりと刺々しい。
自分がいなければ、この二人の関係はもう少しまともだろうにと、アンジェロの背中が丸まってしまう。
レオナルドはポケットから布を取り出し、手に着いた油を拭う。そして、「ほら、背中」とアンジェロの背中を叩いた。
舞台の近くで浅黒い肌の着飾った大男が、夏を祝う宴にやってきた客達と気さくに挨拶を交わしている。「楽しんでいってくれたまえ」「やあ、よく来てくれた」という大声がこちらまで聞こえてくる。
レオナルドが言った。
「あいつが、イル・モーロだ。イルは浅黒い。モーロは、桑を意味するラテン語モルスから来ている。桑はスフォルツア家の軍事的シンボルだからな」
イル・モーロが、ワインが入ったグラスを片手に寄ってきた。
「レオナルド。そこにいたのか。今宵も期待しているぞ」
「閣下。お任せください。このレオナルド、夏を祝う宴のためにわき目もふらず心を尽くしてまいりました。舞台演出が準備が余りにも楽しく、今宵で終わってしまうのかと思うと、この胸は悲しみに占拠されます」
食堂の壁画より記念騎馬像の製作を優先させるよう使者に言われ、怒ったレオナルドを知っているので、アンジェロは苦笑してしまう。しかし、隣にいるサライはにこりともしなかった。
「これが終われば、記念騎馬像の製作が待っている。万能人レオナルド・ダ・ビンチの名に懸けて、放り出してミラノを去ることはできないよな?イタリア半島一、巨大な馬の像を頼むぞ。そして、イル・モーロここにありと知らしめるのだ」
「閣下は、俺がフィレンチェに帰るとでも思っているのですか?迎えなど、来はしないでしょう。俺のことなど、向うはすっかり忘れているはずです」
「急に思い出すということもある。父ロレンツォが思い出さなくても、息子ピエロがな」
アンジェロは、フィレンチェの尖った塔が印象的なベッキア宮殿を思い出す。そこで、ロレンツォがフィレンチェの支配を行っていた。今はそこで、息子のピエロがフィレンチェの支配を行っているはずだ。
ミラノにやってきて一ヶ月。確実に時は動いている。
「ロレンツォが亡くなり、フィレンチェは荒れている。フランス王国を後ろ盾にし、フィレンチェは堕落した国と批判する僧サヴォナローラのせいでな。贅沢に慣れきったフィオレンティーナどもは、僧サヴォナローラに心酔しているらしい。笑ってしまうな。フィレンチェから贅沢を取り去ったら、一体何が残るというのだ?」
イル・モーロは、レオナルドがミラノを去ってしまわないかどうか心配しているようだ。会話の意図を読み取ったレオナルドが、痒いところに手が届くような答え方をした。
「閣下のいるミラノで作品作りができ、レオナルドは日々幸せを感じております」
「であれば、早々に記念騎馬像の製作に取り掛かってくれ」
「もちろんです。しかし、閣下の名を知らしめるには、大きさではなく、デザインかと。後脚で立ち上がる大きい馬の像はこの世にはまだ……」
すると、イル・モーロがじろりとレオナルドを見た。
「ドナート・モントルファを知っているな? 奴には、食堂の対面の壁の依頼をかけている。仕事はきっちり遅れずにやる人間だから、壁画が二枚に増えても大丈夫だろう」
レオナルドにはミラノに居て欲しい。しかし、好き勝手にはやらせない。
ここは支配者としての権力の見せどころとばかりに、イル・モーロは脅しをかけてくる。
「かしこまりました。イタリア半島どころか、世界に閣下の名を知らしめるほどの巨大な記念騎馬像を」
よく通る声で、レオナルドが返事をする。悔しそうにぎゅっと手を握りしめたのをアンジェロは見てしまった。
満足気に頷いたイル・モーロが、レオナルドの背後を覗き込んだ。
「サライ。相変わらず美しいな。絵の修行に飽きたら、宮廷に来んか?傍に置いて末永く可愛がってやる」
サライの傍に寄って行こうとするイル・モーロをレオナルドが阻む。
「こいつは、俺の手元に置いて一人前の絵描きにすると、預けた父親と約束したんです。見た目だけで褒めるのはお止めください」
0
お気に入りに追加
15
あなたにおすすめの小説
【完結】運命さんこんにちは、さようなら
ハリネズミ
BL
Ωである神楽 咲(かぐら さき)は『運命』と出会ったが、知らない間に番になっていたのは別の人物、影山 燐(かげやま りん)だった。
とある誤解から思うように優しくできない燐と、番=家族だと考え、家族が欲しかったことから簡単に受け入れてしまったマイペースな咲とのちぐはぐでピュアなラブストーリー。
==========
完結しました。ありがとうございました。
幸福からくる世界
林 業
BL
大陸唯一の魔導具師であり精霊使い、ルーンティル。
元兵士であり、街の英雄で、(ルーンティルには秘匿中)冒険者のサジタリス。
共に暮らし、時に子供たちを養う。
二人の長い人生の一時。
【完結】僕の大事な魔王様
綾雅(りょうが)祝!コミカライズ
BL
母竜と眠っていた幼いドラゴンは、なぜか人間が住む都市へ召喚された。意味が分からず本能のままに隠れたが発見され、引きずり出されて兵士に殺されそうになる。
「お母さん、お父さん、助けて! 魔王様!!」
魔族の守護者であった魔王様がいない世界で、神様に縋る人間のように叫ぶ。必死の嘆願は幼ドラゴンの魔力を得て、遠くまで響いた。そう、隣接する別の世界から魔王を召喚するほどに……。
俺様魔王×いたいけな幼ドラゴン――成長するまで見守ると決めた魔王は、徐々に真剣な想いを抱くようになる。彼の想いは幼過ぎる竜に届くのか。ハッピーエンド確定
【同時掲載】 小説家になろう、アルファポリス、カクヨム、エブリスタ
2023/12/11……完結
2023/09/28……カクヨム、週間恋愛 57位
2023/09/23……エブリスタ、トレンドBL 5位
2023/09/23……小説家になろう、日間ファンタジー 39位
2023/09/21……連載開始
フローブルー
とぎクロム
BL
——好きだなんて、一生、言えないままだと思ってたから…。
高二の夏。ある出来事をきっかけに、フェロモン発達障害と診断された雨笠 紺(あまがさ こん)は、自分には一生、パートナーも、子供も望めないのだと絶望するも、その後も前向きであろうと、日々を重ね、無事大学を出て、就職を果たす。ところが、そんな新社会人になった紺の前に、高校の同級生、日浦 竜慈(ひうら りゅうじ)が現れ、紺に自分の息子、青磁(せいじ)を預け(押し付け)ていく。——これは、始まり。ひとりと、ひとりの人間が、ゆっくりと、激しく、家族になっていくための…。
味噌汁と2人の日々
濃子
BL
明兎には一緒に暮らす男性、立夏がいる。彼とは高校を出てから18年ともに生活をしているが、いまは仕事の関係で月の半分は家にいない。
家も生活費も立夏から出してもらっていて、明兎は自分の不甲斐なさに落ち込みながら生活している。いまの自分にできることは、この家で彼を待つこと。立夏が家にいるときは必ず飲みたいという味噌汁を作ることーー。
長い付き合いの男性2人の日常のお話です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる