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第ニ章

15:いっそのこと、盗まれてしまえばよかったのに

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 猫を抱き上げていたり、パンを食べていたり。ありきたりの日常を描いた絵は上手ではないが、素描帳のページ全てがレオナルドで埋め尽くされているのを見ると、描き手の深い気持ちが感じられる。
『この人、真実の愛を見つけたって出て行ったんだよね?』
 こんなに師匠のことを素描しているなら、いくら好きな人ができても出奔なんて形をとらないと思う。
 サライの訳の分からない行動に首を傾げながら、アンジェロは素描帳を閉じる。  
 部屋を出て、今度は扉が開け放たれた部屋を覗き込んだ。ここは、居間と炊事場のようだ。夕日が逆光となっていてソファーも椅子も黒く浮き上がって見える。
 ここにもレオナルドは居ない。居間には入らず、廊下をまた歩き出す。突き当りにまた扉があった。
 中を覗き込んだ瞬間、尻もちをつきそうになった。大男三人分もありそうなハリボテの馬が、後脚だけで立ち上がった姿でテーブルの上に乘っていたのだ。
 通常、馬の像は大きくなればなるほど跳ねている姿を作るのは難しくなる。ましてや後脚だけで立ち上がる姿を完成させるのは至難の業だ。馬には片側だけ粘土が張り付けられていた。
『何て、迫力だ』
 どうやらここがレオナルドの作業部屋のようだ。教会の仕事をしていると言っていたけれど、彼は彫刻家なのだろうか。部屋の隅の湿った布を捲ると、未使用の粘土が小山になって置かれてあった。
 テーブルの周りをぐるっと回る。
 片側だけ粘土を張りつけられた馬は、今にも走り出しそうなほど生き生きとしていた。張りのある皮膚からは、走る馬が上げる蒸気さえ感じられそうだ。
 ふと、ミラノにいるフィレンチェ出身のレオナルドという男のことが頭に浮かんでくる。
 彼は絵以外にも、彫刻も手掛けている。
 フィレンチェのオルサンミケーレ教会にある「トマスの不信」像も彼の師匠ベロッキオ作で、「神の手を持つ男」がトマソの衣の襞を担当している。その部分は、本物の布かと思えるくらい繊細に彫られていた。
 となれば「神の手を持つ男」は、今にも走り出しそうな巨大な馬の像を作るのもたやすいのでは……。
『いや、それはない』
 だって、「神の手を持つ男」がモデルとなったダビデの像は繊細な美少年で……。
 必死に打ち消すが、よく考えれば美少年がベロッキオ工房にいたのは今から二十年も前のことだ。年は取る。それに、像はしゃべらないし人柄も分からない。
 アンジェロはよろめきながら、作業部屋を出る。
 通りがかった居間を再度伺うと、夕闇の中で炊事場に人影が見えた。レオナルドが、居間の奥にある炊事場で置物のように座っていた。
 余りにも気配がないので、さっきは気づかなかったらしい。
 レオナルドは、一点を見つめていた。考え事をしているというより、放心している風に見える。
 アンジェロは、そろそろと傍に寄って行った。
 それでもレオナルドは気が付かない。
 足元にしゃがみ込んで視線の先に入り込むと、レオナルドが夢から醒めたようにゆっくりと瞬きをした。目が少し濡れていた。
「お前……」
 レオナルドは、アンジェロから顔を背けながら言う。
「酒場に荷物を忘れただろう。店主が持ってきてくれたぞ。ソファーの上にある」
 レオナルドが顎で居間を指した。
 酒場の店主が焦ってやって来たのは、鞄とともに悲しい知らせを持ってきたからなのかなと思いながら傍を離れた。
 ソファーには、アンジェロが旅に使っていた鞄が置かれていた。鞄の口は紐でしっかりとこぶ結びで閉じられていて中身を開けることはできない。アンジェロはこんな結び方をしないので、誰かが鞄を開け閉めしたようだ。
 肘を使って確かめると、服に混じって硬い石の感触があった。
『いっそのこと、盗まれてしまえばよかったのに』
 炊事場に戻ると、レオナルドが疲れたように目を瞑っていた。黙っていれば朝までいそうな気配だ。
 また、レオナルドの傍に近寄っていき、足元に座って肘でレオナルドの膝を撫でた。臆病な自分が、頼まれもしないのに人を慰めているのが不思議だった。
「ありがとうな」
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