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第ニ章
13:その猫背、止めろ。
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世話になって早、七日。
ロレンツォに口づけされる夢は、四日目に熱が下がった途端見なくなった。
どうして、あんないかがわしい夢を見続けたのだろう。
彼に手ひどく裏切られたはずなのに、夢の中でアンジェロはすんなり唇を受け入れていた。
「さてと、朝の餌付けも終わったことだ。手の具合を見てやる」
レオナルドは、湯の入った桶を持ってきて、寝台横の小机に置くと、アンジェロの手の包帯を解き始めた。
包帯が外れると、むっとした血の臭いがした。小指の付け根から手首まで縫われた皮膚は、青ずんで腫れあがっている。
「日常生活が送れるようになるまで、時間がかかりそうだな」
『別にいい。動かなくても』とアンジェロは言い返す。
「馬鹿野郎! タダ飯食らっている分際で、何、アホなこと言ってやがる」という、罵声を待った。ついでに、「治る気がないなら、さっさと出て行け」と言ってくれたらいい。
終始、見張られているわけではない。だから出て行くことはたやすいが、対価を払えという言葉に縛られていた。それを早く反故にして欲しい。
しかし、レオナルドは湯桶でアンジェロの傷を洗いながら、「ほう、そうか」と言っただけだった。口元はなぜか緩んでいる。
「骨は食っちゃ寝していれば、くっつく。問題はきちんと動くかどうかだ。そういうのはサライが、上手なんだが」
『誰?』
「不肖の弟子だ。真実の愛を見つけた、っていう置き手紙を残して出て行った。もう、そろそろ帰ってくる」
面白い事を言う。出奔したのに、帰ってくるのが分かっているなんて。
新しい包帯を巻いて貰うと、アンジェロは寝台に潜り込む。
レオナルドは、汚れた湯を捨てに寝室を出て行った。朝の世話が終わると、昼まで姿を見せない。この家は、作業場も兼ねているらしいから、別室で仕事をしているのだろう。
橋で野次馬からマエストロと呼ばれていたが、何の親方なのかよく分からない。
しかしまた、寝室の扉は開いた。レオナルドが湯桶を片腕にニヤニヤしている。
「お前、熱は完全に引いているな。今日はかなり調子が良さそうだし、体を拭いてやろう」
動揺するアンジェロを尻目に、レオナルドはすたすたと傍に寄ってくる。湯桶を小机に置くと、「脱げ。ほら」と言って、アンジェロの寝間着をまくり上げた。
『あ、あの……レオさんっ』
「ほお。マエストロでもなく、レオナルドでもなく、レオさん。いい呼び方だ」
腰のあたりまで寝間着を上げられ、アンジェロは寝返りを打ちながら抵抗した。体を見られるのは得意じゃない。
すると、耳元で囁やかれた。
「教えといてやる。お前、すげー汗臭い」
アンジェロは肩に鼻をくっつけて、自分の肌の臭いを嗅ぐ。
……確かに。高熱のせいで、大量に汗をかいた。それに、密入国で山や谷など道なき道をやってきたから、体が埃っぽい。
「動かなくてもいいってさっき言っていたな。じゃあ、俺が拭いてやるしかないなあ」
レオナルドの声が弾んでいる。
『じ、自分で』
「その手でか?」
アンジェロは、新たな包帯が巻かれた手を、恨めしく見つめる。
寝間着を首から引き抜かれた途端、アンジェロは背中を丸めた。
「その猫背、止めろ。立派な体なのに勿体ねえ」
レオナルドが湯桶で布を絞り始める。左手の握力が余り無いのか、端からポタポタと雫が垂れている。布をひっくり返し、もう一度絞った後、アンジェロの背中に広げた。
「お前、どうして、フィレンチェからミラノを目指した? ローマやヴェネツィアだってよかったんじゃないのか? 隣国からいつ責められてもおかしくないミラノは、街作りも防衛に重きを置いているから華やかさにかける」
ミラノを目指したのは、「神の手を持つ男」にどうしても会いたかったからだ。
絵描きなのに楽師としてミラノへ贈られた悲劇の人が、「岩窟の聖母」、「音楽家の肖像」、「白豹を抱く貴婦人」と立て続けに話題作を描き上げ、新天地で花開いたとフィレンチェ貴族や美術商、さらには職人の間で大層話題になっていた。
十代の頃は、早熟の天才ともてはやされていたのに、二十代でぱっとしなくなり、三十代手前で絵描きなのに楽師としてミラノに行ってくれとロレンツォに打診されて、どんな気持ちだったのだろうと思った。
悔しかったのだろうか、悲しかったのだろうか。
他の職人にはない親近感を彼に感じていた。
なぜならアンジェロも、ロレンツォから他国に行って欲しいと打診を受けたからだ。
行き先は、フランス王国ヴァロア家だ。
きっかけは、アンジェロが彫った「階段上の聖母」を、ロレンツォがヴァロア家の使者に見せたことだった。十四才で画家組合に認められたアンジェロに、使者はいたく興味を持ったらしい。
ロレンツォは、緊迫関係にあるフランスとここぞとばかりに融和を図ろうと考えたようだ。
もしヴァロア家が気に入ってアンジェロを離さなければ、フィレンチェに戻れるのはいつのことになるか分からない。そして、ロレンツォもいい関係をフランス王国と築けたなら、無理にアンジェロを帰還させはしないはずだ。
ああ、こういう事だったのか。
ロレンツォが近づいて来た理由がようやく分かった。
虚しさに襲われ、アンジェロはフィレンチェを飛び出した。恋文代わりに思いを込めたレリーフを置いていくことは出来なくて、納められていたサン・ロレンツォ教会に忍び込んで持ちだした。
もちろん「階段上の聖母」の持ち主はロレンツォなのだから、教会からの持ち出しはれっきとした盗みだ。作者のアンジェロもフィレンチェから忽然と姿を消していることを知ったら、ロレンツォはレリーフを盗んだ犯人が誰なのか、すぐに分かっただろう。
これが、アンジェロが偽名を使って旅する理由だ。
「神の手を持つ男」に出会うという目的を果たして、ミラノをうろうろしているうちに、アンジェロを探しに来たフィレンチェの役人に掴まって、連れ戻されるのだと思っていた。
しかし、フィレンチェに着いた途端、ロレンツォが死んだと商人から知らされた。
恨んでいるけど、やっぱりロレンツォの死は悲しい。
アンジェロはさらに背中を丸める。
ロレンツォに口づけされる夢は、四日目に熱が下がった途端見なくなった。
どうして、あんないかがわしい夢を見続けたのだろう。
彼に手ひどく裏切られたはずなのに、夢の中でアンジェロはすんなり唇を受け入れていた。
「さてと、朝の餌付けも終わったことだ。手の具合を見てやる」
レオナルドは、湯の入った桶を持ってきて、寝台横の小机に置くと、アンジェロの手の包帯を解き始めた。
包帯が外れると、むっとした血の臭いがした。小指の付け根から手首まで縫われた皮膚は、青ずんで腫れあがっている。
「日常生活が送れるようになるまで、時間がかかりそうだな」
『別にいい。動かなくても』とアンジェロは言い返す。
「馬鹿野郎! タダ飯食らっている分際で、何、アホなこと言ってやがる」という、罵声を待った。ついでに、「治る気がないなら、さっさと出て行け」と言ってくれたらいい。
終始、見張られているわけではない。だから出て行くことはたやすいが、対価を払えという言葉に縛られていた。それを早く反故にして欲しい。
しかし、レオナルドは湯桶でアンジェロの傷を洗いながら、「ほう、そうか」と言っただけだった。口元はなぜか緩んでいる。
「骨は食っちゃ寝していれば、くっつく。問題はきちんと動くかどうかだ。そういうのはサライが、上手なんだが」
『誰?』
「不肖の弟子だ。真実の愛を見つけた、っていう置き手紙を残して出て行った。もう、そろそろ帰ってくる」
面白い事を言う。出奔したのに、帰ってくるのが分かっているなんて。
新しい包帯を巻いて貰うと、アンジェロは寝台に潜り込む。
レオナルドは、汚れた湯を捨てに寝室を出て行った。朝の世話が終わると、昼まで姿を見せない。この家は、作業場も兼ねているらしいから、別室で仕事をしているのだろう。
橋で野次馬からマエストロと呼ばれていたが、何の親方なのかよく分からない。
しかしまた、寝室の扉は開いた。レオナルドが湯桶を片腕にニヤニヤしている。
「お前、熱は完全に引いているな。今日はかなり調子が良さそうだし、体を拭いてやろう」
動揺するアンジェロを尻目に、レオナルドはすたすたと傍に寄ってくる。湯桶を小机に置くと、「脱げ。ほら」と言って、アンジェロの寝間着をまくり上げた。
『あ、あの……レオさんっ』
「ほお。マエストロでもなく、レオナルドでもなく、レオさん。いい呼び方だ」
腰のあたりまで寝間着を上げられ、アンジェロは寝返りを打ちながら抵抗した。体を見られるのは得意じゃない。
すると、耳元で囁やかれた。
「教えといてやる。お前、すげー汗臭い」
アンジェロは肩に鼻をくっつけて、自分の肌の臭いを嗅ぐ。
……確かに。高熱のせいで、大量に汗をかいた。それに、密入国で山や谷など道なき道をやってきたから、体が埃っぽい。
「動かなくてもいいってさっき言っていたな。じゃあ、俺が拭いてやるしかないなあ」
レオナルドの声が弾んでいる。
『じ、自分で』
「その手でか?」
アンジェロは、新たな包帯が巻かれた手を、恨めしく見つめる。
寝間着を首から引き抜かれた途端、アンジェロは背中を丸めた。
「その猫背、止めろ。立派な体なのに勿体ねえ」
レオナルドが湯桶で布を絞り始める。左手の握力が余り無いのか、端からポタポタと雫が垂れている。布をひっくり返し、もう一度絞った後、アンジェロの背中に広げた。
「お前、どうして、フィレンチェからミラノを目指した? ローマやヴェネツィアだってよかったんじゃないのか? 隣国からいつ責められてもおかしくないミラノは、街作りも防衛に重きを置いているから華やかさにかける」
ミラノを目指したのは、「神の手を持つ男」にどうしても会いたかったからだ。
絵描きなのに楽師としてミラノへ贈られた悲劇の人が、「岩窟の聖母」、「音楽家の肖像」、「白豹を抱く貴婦人」と立て続けに話題作を描き上げ、新天地で花開いたとフィレンチェ貴族や美術商、さらには職人の間で大層話題になっていた。
十代の頃は、早熟の天才ともてはやされていたのに、二十代でぱっとしなくなり、三十代手前で絵描きなのに楽師としてミラノに行ってくれとロレンツォに打診されて、どんな気持ちだったのだろうと思った。
悔しかったのだろうか、悲しかったのだろうか。
他の職人にはない親近感を彼に感じていた。
なぜならアンジェロも、ロレンツォから他国に行って欲しいと打診を受けたからだ。
行き先は、フランス王国ヴァロア家だ。
きっかけは、アンジェロが彫った「階段上の聖母」を、ロレンツォがヴァロア家の使者に見せたことだった。十四才で画家組合に認められたアンジェロに、使者はいたく興味を持ったらしい。
ロレンツォは、緊迫関係にあるフランスとここぞとばかりに融和を図ろうと考えたようだ。
もしヴァロア家が気に入ってアンジェロを離さなければ、フィレンチェに戻れるのはいつのことになるか分からない。そして、ロレンツォもいい関係をフランス王国と築けたなら、無理にアンジェロを帰還させはしないはずだ。
ああ、こういう事だったのか。
ロレンツォが近づいて来た理由がようやく分かった。
虚しさに襲われ、アンジェロはフィレンチェを飛び出した。恋文代わりに思いを込めたレリーフを置いていくことは出来なくて、納められていたサン・ロレンツォ教会に忍び込んで持ちだした。
もちろん「階段上の聖母」の持ち主はロレンツォなのだから、教会からの持ち出しはれっきとした盗みだ。作者のアンジェロもフィレンチェから忽然と姿を消していることを知ったら、ロレンツォはレリーフを盗んだ犯人が誰なのか、すぐに分かっただろう。
これが、アンジェロが偽名を使って旅する理由だ。
「神の手を持つ男」に出会うという目的を果たして、ミラノをうろうろしているうちに、アンジェロを探しに来たフィレンチェの役人に掴まって、連れ戻されるのだと思っていた。
しかし、フィレンチェに着いた途端、ロレンツォが死んだと商人から知らされた。
恨んでいるけど、やっぱりロレンツォの死は悲しい。
アンジェロはさらに背中を丸める。
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