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第一章

4:この馬鹿野郎がっ

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 正直、絵描きのボティティチェリや彫刻家のギルランダイオが活躍するフィレンチェの話など聞きたくはない。彼らは、十年前、フィレンチェの支配者ロレンツォ・ディ・メディチによって教皇領ローマにシスティーナ礼拝堂内の壁画を描くため芸術使節団として贈られた。それは職人として最高に名誉なことだ。事実、フィレンチェに戻ってからの彼らの人気はますます高まった。なのに、自分は異国で死ぬ素振りを見せるお騒がせの酔っ払いの世話とは。
「行こう、な?」
 アンジェロの手を取ると、運河の方を向いていた体は、素直に橋へと向けられる。
 よしよし、その調子だ。当たり障りのないフィレンチェのことを話せば、死にとりつかれた若者の気が紛れると分かって、苦しい思いでフィレンチェの話題を続けた。
「メディチ家は安泰か? 当主のロレンツォは……」
 せわしなく繰り返しされていたアンジェロの呼吸が、ぴたりと止まる。一瞬の隙にレオナルドの手を振り払い、再び運河へと体を向けた。
 水面を見つめるその顔に、もう迷いの欠片も見えない。
 レオナルドはとっさに、アンジェロの腹部に右腕を回す。大きな蕪を引っこ抜くような要領で思い切りのけ反った。
 飛び込むことばかり考えていたアンジェロは、レオナルドの行動が予測できなかったのだろう。橋の手すりを掴む余裕もなく、レオナルドの体の上に倒れ込んでくる。
 レオナルドは背中を石畳に激しく打ち付け、さらにアンジェロの体重をまともに受ける。
 腕の中にいたアンジェロは体を起こし、レオナルドの肩を石畳に抑えつけた。
 怒りの籠った目で、こちらを見つめている。
 酒場で、あんなにおどおどしていた男が、こんな表情を……。
 急激な落差に、ゾクゾクッとレオナルドの肌が泡立つ。
 そうこうしているうちに、アンジェロの拳が振り上げられた。反射的に目を瞑ると、耳元で鈍い音がする。
 手はレオナルドの耳すれすれのところに叩きつけられていた。
 さっきの鈍い音、まさか、骨が……。
 アンジェロは狂気じみた顔で、再び拳を振り上げる。
「やめろっ」
 起き上がろうとするレオナルドを、アンジェロはのしかかって阻止し、また、拳を叩きつけた。何度も何度もそれが繰り返される。
「止めろって言ってんだろう」
 頬を引っぱたき、アンジェロがひるんだ隙に起き上がって両手首を掴む。小指の付け根から手首にかけて皮膚がぱっくりと裂け、血が吹き出ていた。
「この馬鹿野郎がっ」
 叱りつけると、アンジェロの目にみるみる水の膜が張り、クルミのような咽喉が上下する。大きく息を吸い込んだその口から出たのは、ヒューヒューとしたかすれた音だった。

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