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第一章
3:勘弁してくれ……
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「きっと、フィレンチェ出身で、母国の話に里心がついたんじゃないのかい?」
真っ赤な目の若者を思い浮かべながら、硬貨の山からフローリン金貨を取り出す。これは、フィレンチェ政府が発行するもので、質が良くヨーロッパ全土で商用に使われている。しかし、一般人はそれよりも小さい通貨を使うのがほとんどだ。
ミラノ公国のダガット通貨もかなり混ざっているのを見て、店主が言った。
「金貨を旅先で崩しながら、ミラノまでやってきたのかもしれない。こんなにマエストロに渡しちゃって、この先の旅費が足りればいいけれど」
「知らねえよ。あっちが勘違いして置いてったんだから」
レオナルドはチーズを口に放り込み、ワインを注文しなおす。
メモをしながら、店主が言った。
「彼……今夜の宿代、持っているだろうか」
「分かったよ。呼んでくる!」
しぶしぶ立ち上がる。十年前、ミラノにやって来たばかりの頃、しょっちゅうこの酒場で酔いつぶれていたので、実はレオナルドは店主に頭が上がらない。
「助かるよ、マエストロ。店がこんなんじゃ、ボクが抜けていくことはできないし」
「あ~。はいはい」
店を出ると、空はオレンジ色に染まっていた。
「どこ行きやがった」
レオナルドはぶつぶつ言いながら、運河沿いの道を下り始めた。
アンジェロという名の若者は、遊学中の身分なら綺麗な宿を求めるはずだ。その手の宿は、運河を渡った先にあるティティネーゼ地区にある。
ここは、ゴリツィア通りといい、幾つかの橋を渡ると、ティチネーゼ地区のジャン・ガレアッツオ通りに繋がっている。
一つ目の橋が見えて来て、レオナルドは足を止めた。
人だかりが見える。
橋の手すりによじ登ろうとしている男がいて、周りがそれを必死に止めていた。男は獣のような声を上げて、数人の人間を薙ぎ払う。そして、周囲が恐れて近寄らなくなった隙に、橋の手すりによじ登った。
若草色のマントが、ひらひらと春の夜風にはためく。
間違いなくアンジェロだ。
「勘弁してくれ……」
酒場で人を巻き込んで躓いただけで、橋の手すりに立つ人間はいない。
とてつもなく悲しいことがあって、耐えかねていたのだろう。しかし、レオナルドにしてみれば、酒場での出来事を死のきっかけに使われてはいい迷惑だ。
近くの宿や酒場からやってきた野次馬が、人の輪に混ざり始める。レオナルドはそこを肩を使って押しのけていく。
ようやく人の輪から出ると、橋の手すりに立つ背中が見えた。
沈んでいく夕日を遮って、アンジェロが立っている。
まるで、彼自身が発光しているかのようだ。
アンジェロは腰に結んでいた革袋を取ると、中身を運河に向かってバラまき始めた。金貨や銀華が夕日を浴びてキラキラ光りながら、運河に落ちていく。
運河は、重く大きな石を搬送するための船が通るので、かなり深く作られている。流れは穏やかだが水量は多く、この時期の水はとても冷たい。
傍に寄ろうとすると、野次馬の一人がレオナルドの手を掴む。
「マエストロ、止めときな。あれだけの体躯だ。飛びつけば暴れられて、仲良く運河にドボンだ。かといって、頭に血が昇っているあの手に人間に『早まるな、止めろ』と声掛けすれば、逆のことをする」
アンジェロは、肩で激しく息をしている。運河に飛び込むのは時間の問題だ。
野次馬の手を振り払いながら叫ぶ。
「アンジェロ。止めろっ」
振り向いた彼はとても驚いていて、頬には涙が幾筋も伝っていた。
「お前、フィオレンティーナ(フィレンチェ人)なんだろう? ここは、イル・モーロのミラノ公国。人様の国だ」
アンジェロの髪の毛と同じ濃い茶色の瞳が小刻みに揺れる。酒場で会っただけの他人をどうして助けるんだ、意味が分からないという動揺が見て取れた。引きつった呼吸が痛々しい。
レオナルドは、アンジェロに手を差し出した。
「俺もフィオレンティーナだ。人様の国に迷惑を掛けようとしている同胞を見過ごせないんだよ。さっきの酒場で話をしないか?最近のフィレンツェの話を聞かせてくれ。俺は、十年も帰っていない」
真っ赤な目の若者を思い浮かべながら、硬貨の山からフローリン金貨を取り出す。これは、フィレンチェ政府が発行するもので、質が良くヨーロッパ全土で商用に使われている。しかし、一般人はそれよりも小さい通貨を使うのがほとんどだ。
ミラノ公国のダガット通貨もかなり混ざっているのを見て、店主が言った。
「金貨を旅先で崩しながら、ミラノまでやってきたのかもしれない。こんなにマエストロに渡しちゃって、この先の旅費が足りればいいけれど」
「知らねえよ。あっちが勘違いして置いてったんだから」
レオナルドはチーズを口に放り込み、ワインを注文しなおす。
メモをしながら、店主が言った。
「彼……今夜の宿代、持っているだろうか」
「分かったよ。呼んでくる!」
しぶしぶ立ち上がる。十年前、ミラノにやって来たばかりの頃、しょっちゅうこの酒場で酔いつぶれていたので、実はレオナルドは店主に頭が上がらない。
「助かるよ、マエストロ。店がこんなんじゃ、ボクが抜けていくことはできないし」
「あ~。はいはい」
店を出ると、空はオレンジ色に染まっていた。
「どこ行きやがった」
レオナルドはぶつぶつ言いながら、運河沿いの道を下り始めた。
アンジェロという名の若者は、遊学中の身分なら綺麗な宿を求めるはずだ。その手の宿は、運河を渡った先にあるティティネーゼ地区にある。
ここは、ゴリツィア通りといい、幾つかの橋を渡ると、ティチネーゼ地区のジャン・ガレアッツオ通りに繋がっている。
一つ目の橋が見えて来て、レオナルドは足を止めた。
人だかりが見える。
橋の手すりによじ登ろうとしている男がいて、周りがそれを必死に止めていた。男は獣のような声を上げて、数人の人間を薙ぎ払う。そして、周囲が恐れて近寄らなくなった隙に、橋の手すりによじ登った。
若草色のマントが、ひらひらと春の夜風にはためく。
間違いなくアンジェロだ。
「勘弁してくれ……」
酒場で人を巻き込んで躓いただけで、橋の手すりに立つ人間はいない。
とてつもなく悲しいことがあって、耐えかねていたのだろう。しかし、レオナルドにしてみれば、酒場での出来事を死のきっかけに使われてはいい迷惑だ。
近くの宿や酒場からやってきた野次馬が、人の輪に混ざり始める。レオナルドはそこを肩を使って押しのけていく。
ようやく人の輪から出ると、橋の手すりに立つ背中が見えた。
沈んでいく夕日を遮って、アンジェロが立っている。
まるで、彼自身が発光しているかのようだ。
アンジェロは腰に結んでいた革袋を取ると、中身を運河に向かってバラまき始めた。金貨や銀華が夕日を浴びてキラキラ光りながら、運河に落ちていく。
運河は、重く大きな石を搬送するための船が通るので、かなり深く作られている。流れは穏やかだが水量は多く、この時期の水はとても冷たい。
傍に寄ろうとすると、野次馬の一人がレオナルドの手を掴む。
「マエストロ、止めときな。あれだけの体躯だ。飛びつけば暴れられて、仲良く運河にドボンだ。かといって、頭に血が昇っているあの手に人間に『早まるな、止めろ』と声掛けすれば、逆のことをする」
アンジェロは、肩で激しく息をしている。運河に飛び込むのは時間の問題だ。
野次馬の手を振り払いながら叫ぶ。
「アンジェロ。止めろっ」
振り向いた彼はとても驚いていて、頬には涙が幾筋も伝っていた。
「お前、フィオレンティーナ(フィレンチェ人)なんだろう? ここは、イル・モーロのミラノ公国。人様の国だ」
アンジェロの髪の毛と同じ濃い茶色の瞳が小刻みに揺れる。酒場で会っただけの他人をどうして助けるんだ、意味が分からないという動揺が見て取れた。引きつった呼吸が痛々しい。
レオナルドは、アンジェロに手を差し出した。
「俺もフィオレンティーナだ。人様の国に迷惑を掛けようとしている同胞を見過ごせないんだよ。さっきの酒場で話をしないか?最近のフィレンツェの話を聞かせてくれ。俺は、十年も帰っていない」
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