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第一章
2:もしかして、……これ、オレが?
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毎年、ミラノではイル・モーロ主催の夏を祝う宴が、スフォルコ城で開かれていた。レオナルドは宴の舞台演出を担当していた。
「絵の方に専念したいだろうに、万能すぎるというのも辛いね」
レオナルドは、震える左手を背後に隠して「まあな」と答える。
出身のフィレンチェでは花開かなかったが、ここミラノでは「岩窟の聖母」、「音楽家の肖像」、「白豹を抱く貴婦人」を描き上げ、今までにないリアリティのある作風だと話題となっている。
店主は人のよい男だから「マエストロは手に不調を抱えているようだが、それにも負けない素晴らしい絵を描くよ」なんて他の客に言いかねない。
そんな噂が、母国フィレンチェまで広がっては困るからだ。
レオナルドは右手で乱暴に椅子を引いた。「いつもの赤ワインとチーズだね」と言って店主が厨房へと去っていく。
隣りでうつ伏せになっている若者が、椅子を引く音に反応して、右に左に頭を動かした。
どうやら、目覚めたらしい。
横顔が見えた。体は大きいのに、十代初めの少年のようにふっくらとした肌をしていて、まつ毛が長い。濃い茶色の髪は毛先が丸まったくせ毛だ。首は太く肩はがっしりとしているのに、ぽてっとした唇のせいで甘ったれた子供みたいに見える。
空のグラスが数本、テーブルの上に置かれていた。
開店早々「持って来られるだけ持って来て」と言ったのだろうか?
枕代わりにされた手は皮が硬くなっていて、長年ノミでも握っていたような分厚さだった。彼はきっと石工で、日中、雇い主に嫌なことを言われ、憂さ晴らしに飲んだくれたのだろう。
「そんなに嫌なら変わってやろうか、若者」
レオナルドは頬杖をついて、呟く。
ようやく店主が注文の品を持ってきた。目の前にワインが入ったグラスとチーズが並べられていく。
グラスを持ち上げようとし、震えで手元が狂う。グラスが倒れ、中の赤い液体が若者に向かって広がっていく。
「おい。起きろ!」
揺さぶると、若者は弾かれたように立ち上がった。見上げるほど背が高い。
別の席に移ろうとするが足取りはおぼつかない。肌は真っ白で酔っているようには見えないのだが。
二、三歩歩き出すうちに自分の足につまずいて、若者はレオナルドに向かって倒れ込んできた。
なんて重い体だ。おまけに、岩のように硬い。
「……ってえ」
呻くと、若者はぱっと体を離した。
「ご……めなさ……」
大きな体にはまるで似合わない、消え入りそうな声だった。鬱陶しいぐらい伸びた前髪から見える目は真っ赤だ。
「もしかして、……これ、オレが?」
テーブルから床に零れ落ちるワインを見て、若者は焦ったように腰の皮袋に手を入れた。
甲に太い血管の筋が走る手が掴みだしたのは、硬貨の山。じゃらっと音を立てて崩れる。
「ぶつかったぐらいで、金はいらねえ。それに、ワインを零したのは俺で……っておい」
若者は、危なっかしい足取りで席を離れていった。店主の妻に酒代を払い、代わりに預けていた若草色のマントを受け取ると、それをもたもた付けながら酒場を出て行く。
レオナルドがあっけに取られていると、零れたワインを拭きに来た店主が答える。
「開店と同時に、フィレンチェの商人連中とやって来た新顔だ。たしか、アンジェロって呼ばれていたかな。汚れているけど、上質なマントだった。遊学中の学生さんかも」
「商人と?」
不思議な組み合わせだ。
ミラノはイタリア半島の北に位置し、南にあるフィレンチェや、北にあるフランス王国の物資が行き来する中継地点でもある。したがって、ミラノにフィレンチェの商人がいるのはおかしなことではない。しかし、計算高い商人と、純朴そうな若者に売り買い以外の接点があるとは考え辛い。
「商人連中が道端でフィレンチェの世間話をしていたら、急に首を突っ込んできて、泣き始めたんだと。慰めるために連れて来たんだそうだ。でも、あんな感じだから、商人連中、早々に飽きてどっか行ってしまって」
「つまり、驕らされたってわけか」
レオナルドは、若者が座っていたテーブルの大量の空きグラスを見つめる。
「絵の方に専念したいだろうに、万能すぎるというのも辛いね」
レオナルドは、震える左手を背後に隠して「まあな」と答える。
出身のフィレンチェでは花開かなかったが、ここミラノでは「岩窟の聖母」、「音楽家の肖像」、「白豹を抱く貴婦人」を描き上げ、今までにないリアリティのある作風だと話題となっている。
店主は人のよい男だから「マエストロは手に不調を抱えているようだが、それにも負けない素晴らしい絵を描くよ」なんて他の客に言いかねない。
そんな噂が、母国フィレンチェまで広がっては困るからだ。
レオナルドは右手で乱暴に椅子を引いた。「いつもの赤ワインとチーズだね」と言って店主が厨房へと去っていく。
隣りでうつ伏せになっている若者が、椅子を引く音に反応して、右に左に頭を動かした。
どうやら、目覚めたらしい。
横顔が見えた。体は大きいのに、十代初めの少年のようにふっくらとした肌をしていて、まつ毛が長い。濃い茶色の髪は毛先が丸まったくせ毛だ。首は太く肩はがっしりとしているのに、ぽてっとした唇のせいで甘ったれた子供みたいに見える。
空のグラスが数本、テーブルの上に置かれていた。
開店早々「持って来られるだけ持って来て」と言ったのだろうか?
枕代わりにされた手は皮が硬くなっていて、長年ノミでも握っていたような分厚さだった。彼はきっと石工で、日中、雇い主に嫌なことを言われ、憂さ晴らしに飲んだくれたのだろう。
「そんなに嫌なら変わってやろうか、若者」
レオナルドは頬杖をついて、呟く。
ようやく店主が注文の品を持ってきた。目の前にワインが入ったグラスとチーズが並べられていく。
グラスを持ち上げようとし、震えで手元が狂う。グラスが倒れ、中の赤い液体が若者に向かって広がっていく。
「おい。起きろ!」
揺さぶると、若者は弾かれたように立ち上がった。見上げるほど背が高い。
別の席に移ろうとするが足取りはおぼつかない。肌は真っ白で酔っているようには見えないのだが。
二、三歩歩き出すうちに自分の足につまずいて、若者はレオナルドに向かって倒れ込んできた。
なんて重い体だ。おまけに、岩のように硬い。
「……ってえ」
呻くと、若者はぱっと体を離した。
「ご……めなさ……」
大きな体にはまるで似合わない、消え入りそうな声だった。鬱陶しいぐらい伸びた前髪から見える目は真っ赤だ。
「もしかして、……これ、オレが?」
テーブルから床に零れ落ちるワインを見て、若者は焦ったように腰の皮袋に手を入れた。
甲に太い血管の筋が走る手が掴みだしたのは、硬貨の山。じゃらっと音を立てて崩れる。
「ぶつかったぐらいで、金はいらねえ。それに、ワインを零したのは俺で……っておい」
若者は、危なっかしい足取りで席を離れていった。店主の妻に酒代を払い、代わりに預けていた若草色のマントを受け取ると、それをもたもた付けながら酒場を出て行く。
レオナルドがあっけに取られていると、零れたワインを拭きに来た店主が答える。
「開店と同時に、フィレンチェの商人連中とやって来た新顔だ。たしか、アンジェロって呼ばれていたかな。汚れているけど、上質なマントだった。遊学中の学生さんかも」
「商人と?」
不思議な組み合わせだ。
ミラノはイタリア半島の北に位置し、南にあるフィレンチェや、北にあるフランス王国の物資が行き来する中継地点でもある。したがって、ミラノにフィレンチェの商人がいるのはおかしなことではない。しかし、計算高い商人と、純朴そうな若者に売り買い以外の接点があるとは考え辛い。
「商人連中が道端でフィレンチェの世間話をしていたら、急に首を突っ込んできて、泣き始めたんだと。慰めるために連れて来たんだそうだ。でも、あんな感じだから、商人連中、早々に飽きてどっか行ってしまって」
「つまり、驕らされたってわけか」
レオナルドは、若者が座っていたテーブルの大量の空きグラスを見つめる。
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