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第一章
1:もしかして、逃げられたのか?
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一四九ニ年。
春の終わり。
イタリア半島の北にある市街地ナヴォリ地区では、夕日が沈もうとしていた。
辺りには運河が張り巡らされ、オレンジ色の太陽の光を反射しキラキラと光っている。
運河は、二百年前から建築が始まったドゥオーモ大聖堂に資材を運ぶためのものだ。だから、脇の小道を行き来する者は、石工や船乗りなど荒くれ者が多い。
そこを明らかに毛色の違う男が歩いていた。
長く伸びた金の髪を片側に垂らし、足首までの艶のあるローブを羽織っているので、一目を引く。
整った顔立ちに澄んだ青い目は神秘的で、今日、男を初めて見る者は、皆立ち止まって見惚れる。
「よう!マエストロ(親方)。今日、連れは?もしかして、逃げられたのか?」
俺はこの男と顔見知りなんだぜと自慢するように、船乗りが話しかけてきた。
すると、マエストロと呼ばれた男は、
「さあな。どっか行っちまった。見かけたら、とっとと戻れって叱ってやってくれ」
と砕けた様子で話し出す。そのおかけで神秘的な雰囲気は一気に崩れ去り、気安さだけが残った。
船乗りは呆れ半分で笑い始めた。
「まーた。マエストロの過保護が始まった。ほとぼり冷めたら戻ってくるって。いつものことだろ」
男がマエストロと呼ばれているのは、ミラノの古城コルテベッキア内に工房を構えているからだった。肩書は絵描きだが、地図の制作、空を飛ぶ機械の考案、舞台演出なども手掛けていた。住み込みの弟子が一人。案件ごとに雇う通いの弟子が数十人いる。
しかし、下絵を描くときも、機械を作るときも仕事をする姿を誰にも見せないため。その手から繰り出される作品の器用さも相まって、実は魔法使いなのではないかと本気で疑われることすらあった。
それほどまでに器用なのだ。また、楽器も弾きこなし、リラ(竪琴)の演奏はプロ並みだった。名前をレオナルドと言った。
レオナルドは、黙って近くの石造りの酒場へと入ってく。
「なんでえ。今日は、いつも以上に機嫌が悪りいなあ」と船乗りの言葉が追いかけてくる。それも当然だった。
今朝、住み込みの弟子が、『今度こそ本当に、真実の愛を見つけた』と置き手紙を残し、忽然と姿を消していたのだから。
出奔は、もう片手では余る回数なので、その事事態に驚きはしない。だいたい、数週間で関係は破綻して帰ってくるので、大騒ぎして探し回ることはない。
問題は綺麗に相手と別れられず、その尻拭いをレオナルドがする羽目になることだ。
こちらは、ミラノの支配者ルドヴィゴ・マリア・スフォルツァ、通称イル・モーロから舞い込んできた大きな仕事で頭がいっぱいだというのに。
レオナルドは細かく震える左手を見つめ、酒場の奥へと入っていく。
酒場は洞窟のような造りで。薄暗く各テーブルにキャンドルが灯っていた。
客は、肩を組んで歌を歌う船乗り達、顔を寄せ合って内緒話をしている商人の集団。そして、めいめい勝手に飲んでいる石工の若者。
手ごろな値段と美味しい料理が評判なのでいつも賑やかだ。
二十席ほどある座席は、全て埋まっていた。これは、当分座れそうにないと踵を返しかけた時、小太りな店主が厨房から手を振り、壁際の席を指さした。
「マエストロ、久しぶりじゃないか! ここ、座れるよ!」
足を運ぶと、すぐ隣の席に若い男が突っ伏していた。薄汚れたチェニックを着ていて、肩が筋肉で盛り上がっているのが分かる。
「お客さーん、お客さーん!よせるよ、ごめんね」
店主は、その客の荷物を椅子の背もたれに勝手にかけ、レオナルドのために席を作る。
「マエストロ、疲れた顔をしているね。イル・モーロのせい?」
「ああ」
春の終わり。
イタリア半島の北にある市街地ナヴォリ地区では、夕日が沈もうとしていた。
辺りには運河が張り巡らされ、オレンジ色の太陽の光を反射しキラキラと光っている。
運河は、二百年前から建築が始まったドゥオーモ大聖堂に資材を運ぶためのものだ。だから、脇の小道を行き来する者は、石工や船乗りなど荒くれ者が多い。
そこを明らかに毛色の違う男が歩いていた。
長く伸びた金の髪を片側に垂らし、足首までの艶のあるローブを羽織っているので、一目を引く。
整った顔立ちに澄んだ青い目は神秘的で、今日、男を初めて見る者は、皆立ち止まって見惚れる。
「よう!マエストロ(親方)。今日、連れは?もしかして、逃げられたのか?」
俺はこの男と顔見知りなんだぜと自慢するように、船乗りが話しかけてきた。
すると、マエストロと呼ばれた男は、
「さあな。どっか行っちまった。見かけたら、とっとと戻れって叱ってやってくれ」
と砕けた様子で話し出す。そのおかけで神秘的な雰囲気は一気に崩れ去り、気安さだけが残った。
船乗りは呆れ半分で笑い始めた。
「まーた。マエストロの過保護が始まった。ほとぼり冷めたら戻ってくるって。いつものことだろ」
男がマエストロと呼ばれているのは、ミラノの古城コルテベッキア内に工房を構えているからだった。肩書は絵描きだが、地図の制作、空を飛ぶ機械の考案、舞台演出なども手掛けていた。住み込みの弟子が一人。案件ごとに雇う通いの弟子が数十人いる。
しかし、下絵を描くときも、機械を作るときも仕事をする姿を誰にも見せないため。その手から繰り出される作品の器用さも相まって、実は魔法使いなのではないかと本気で疑われることすらあった。
それほどまでに器用なのだ。また、楽器も弾きこなし、リラ(竪琴)の演奏はプロ並みだった。名前をレオナルドと言った。
レオナルドは、黙って近くの石造りの酒場へと入ってく。
「なんでえ。今日は、いつも以上に機嫌が悪りいなあ」と船乗りの言葉が追いかけてくる。それも当然だった。
今朝、住み込みの弟子が、『今度こそ本当に、真実の愛を見つけた』と置き手紙を残し、忽然と姿を消していたのだから。
出奔は、もう片手では余る回数なので、その事事態に驚きはしない。だいたい、数週間で関係は破綻して帰ってくるので、大騒ぎして探し回ることはない。
問題は綺麗に相手と別れられず、その尻拭いをレオナルドがする羽目になることだ。
こちらは、ミラノの支配者ルドヴィゴ・マリア・スフォルツァ、通称イル・モーロから舞い込んできた大きな仕事で頭がいっぱいだというのに。
レオナルドは細かく震える左手を見つめ、酒場の奥へと入っていく。
酒場は洞窟のような造りで。薄暗く各テーブルにキャンドルが灯っていた。
客は、肩を組んで歌を歌う船乗り達、顔を寄せ合って内緒話をしている商人の集団。そして、めいめい勝手に飲んでいる石工の若者。
手ごろな値段と美味しい料理が評判なのでいつも賑やかだ。
二十席ほどある座席は、全て埋まっていた。これは、当分座れそうにないと踵を返しかけた時、小太りな店主が厨房から手を振り、壁際の席を指さした。
「マエストロ、久しぶりじゃないか! ここ、座れるよ!」
足を運ぶと、すぐ隣の席に若い男が突っ伏していた。薄汚れたチェニックを着ていて、肩が筋肉で盛り上がっているのが分かる。
「お客さーん、お客さーん!よせるよ、ごめんね」
店主は、その客の荷物を椅子の背もたれに勝手にかけ、レオナルドのために席を作る。
「マエストロ、疲れた顔をしているね。イル・モーロのせい?」
「ああ」
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