【完結】片恋鳥は初恋の夜を越える

第八章

129：こっちが真面目に言ってんのに。一生寝てろ

　数日後、バットゥータが倒れた。
　普段からやることが山盛りなのに、小鳥と赤ん坊の件も加わったので、身体が限界を越えたようだ。
　小鳥が牢から出されて、褒美も利子付きで戻ってきて、あと片付ける問題は赤ん坊のことだけだと思っていた矢先のことだった。
　小鳥が、バットゥータの使用人部屋から出ていくのを見送って、アドリーは寝台の傍らに座った。
　狭く粗末な家具しか置いていない部屋だ。
　イスタンブールにやってきてからずっとバットゥータはこの部屋を使っている。
「アドリー様がこの部屋来るの、かなり久しぶりですね」
「雷がひどくて、泣いてんのかと思って顔を見に行ったな。まだこの館にお前とオレしかいない頃だから、何年前だ？」
と言いながら、アドリーはバットゥータの額に手を当てる。
　倒れた直後よりマシになったが、まだまだ平熱より高い。
　なのに、バットゥータは、
「もう、働けますよ」
と空元気を出してみせる。
「どこかがだ。この狭い部屋がよくないんじゃないか？もっと広くてさ、綺麗なとこ、あるだろ。部屋数だけは余ってんだから」
「雨風しのげる部屋があって、働いていりゃあ飯どころか菓子と珈琲まで出てくるし、服や薬は無料支給。他に何いります？」
「欲が無えなあ」
「そうですか。欲だらけですけどね」
　バットゥータがアドリーへ手を伸ばしてきて、毛布の下へと引き込んだ。
　雷の夜も、こうやって一緒に寝た。
　つい先日のような気がするが、あれからもう四、五年は過ぎている。
「小鳥が自由民になる手続き、済んだぞ」
「さっき、あいつから聞きました」
「おまえじゃなきゃだめって思っていたけれど、他の奴だって指示したら簡単にできた。最初からそうしておけばよかった。お前が優秀だから、使いすぎた」
「もっと褒めてください」
とバットゥータが抱きついてくる。
「こっちが真面目に言ってんのに。一生寝てろ」
　アドリーは世界一大切に思っている使用人を軽く叩いた。
「痛っ！病人なんだから優しく！それに数日寝てただけでケツのあたりからカビが生えそうだってのに、一生なんて無理ですよ。ついでに、俺が本格的に寝込んだら、『僕の世話の仕方が悪かったんだ』って繊細鳥が落ち込みますよ？」
「デカ鳥の次は、繊細鳥か。責任を感じていたとしても、あの消極的な小鳥がお前の介抱を率先して始めたのには驚いた。桶の水とかぶっかけられてないか？」
「俺、ほとんど寝込んだことがないから比べる記憶が少ないけれど、ガキの頃、絞りきれていないびしゃびしゃのタオルを、俺の額に乗せてきた人より上手でした」
「悪かったよ。あの頃は、介抱のやり方なんて知らなかったし」
　悔し紛れに思いっきりバットゥータを抱きしめる。
「痛い、痛い、痛いって！アドリー様は腕の力が他の人より強いんですから。そこんとこ自覚してくださいよ？」
と笑いながらバットゥータが言う。
　素面の状態でこういうじゃれ合いは久しぶりだ。
　いつ以来だろう？
　小鳥が来る前？
　いや、それ以前からご無沙汰だった気がする。
　なんとなく、バットゥータが自分から離れたがっている気がして、追いすがるのも情けないから、物わかりのいい主の振りをしていた。
「にしても、あいつ、隠していることが多いですね。手話もできたし、こういう介抱も手慣れている。何で言わなかったって聞いたら、だって、聞かれなかったから、だそうです」
「あの主体性の無さで、本気でこの国で生きていけると思ってんのかな？」
「でも、一歩というか、半歩ずつでも進んでる気がします。西洋の医者だって呼んできてくれたじゃないですか。薬商のじいさんの店で知り合ったらしいですね。あっちの医者もこの国の医学を学びたいそうでよく来ていたと」
「ああいう知り合いがいるとは思わなかった。で、出された薬は効いたのか？」
「すうっと熱が下がっていくのが分かりましたよ。驚きです」
「ふうん」
「小鳥がそれなりの働きをしたのが面白くなさそうですね。メソメソ泣きながら、後ろから付いてくるあいつがお好みでしょうが、男にしてやらないと」
「何だそれ」
「俺、明日から通常通りに働きます。ここ数日、赤ん坊を抱いてないから、胸の辺りがスースーするんですよ」
「またぶっ倒れるぞ」
「小鳥のごたごたが解決したんだから、もう大丈夫ですよ」