上 下
94 / 183
第五章

93:小鳥。ムルサダの館を出されてから娘と一度でも会ったか?

しおりを挟む
「気が変わった。お前のせいで、家業に泥を塗られるのはごめんだ。オレはこの館を守りたい。さあ、出て行け」
と言われるのを僕は覚悟した。
 でも、アドリーの口から紡がれた言葉は僕の予想とはまるで違った。
「バットゥータが言っていた。助けられるのに、助けないのは卑怯なんだと」
 助ける?
 こんな僕を?
 僕には人としての価値がない。
 だから、卑怯だとか、そうじゃないとか関係ない。
 この数年、ただ息を吸って吐いて廃人のように生きてきた。
 十年近く時間を無駄にして生きてきた。
 終わりにするにはちょうどいい。
 男の部分を切り取っているくせに、死出の旅に赤ん坊っていうおまけが付くのが笑えるけれど。
 時間だけが過ぎていく。
 僕は黙って絨毯に座り続け、アドリーは手持ちぶたさになったのか、寝台に移って本を読み始める。難しい本なのか、指で文字を追い、ブツブツ言っている。その姿は昔のままだ。
 半刻をゆうにすぎて、バットゥータが息を切らせ戻ってきた。
「ご苦労。朝から使っちまったな」
「小鳥を引き取りましょうって提案したのは俺なんで、こんくらい」
 バットゥータが顎に垂れてきた汗を拭った。
「やはり死んだのはムルサダの娘でした。一時、地方に行かされてたらしいんですが、少し前に戻ってきてたみたいで」
「小鳥。ムルサダの館を出されてから娘と一度でも会ったか?」
 僕は首を振る。
「本当だな?」
と念を押されて、再度。
 娘が孕み生んだ子供の父親が肌の色からして僕以外にいない分かったとき、ムルサダは、娘でなく僕をひどく怒った。
 毎度のことながら、娘は乱暴されたと嘘を付くのだ。
 僕は殺されるのだと覚悟したが、体罰すらないままイスタンブール一の奴隷商館ヴァヤジットの元へ行かされた。
 宦官であると嘘を付け、真実を語ったらどうなるか分かっているな、と脅されて。
 誰も赤ん坊のことは言わなかったから、慣例通り縊り殺されたんだと思っていた。
 そして、僕はそのことに対して何も思わなかった。
 むしろ消したい過去が消えてくれたとすら思ってしまった。
「ムルサダの娘の死因は?」
とアドリーがバットゥータに聞く。
「憲兵が言うには、絞殺です。あと腹が膨れていたと」
「溺死じゃないのにか?」
「いえ、水を飲んだのではなく、妊娠していたみたいなんです。六ヶ月ほどの腹の大きさだったと」
 僕はこみ上げてくるものがあって、二人に気づかれないよう、うつむいて口を手で覆っていた。
 新たな生贄がムルサダの館に。
「バットゥータ」
「はい」
「小鳥が言った。死んだとはずの赤ん坊は突然、部屋の前に置かれ、どうしていいかわからなくなってオレの館にやってきたと。そこには、寸分の嘘がねえってな」
「じゃないと、人の見る目が無いってことで、小鳥と一緒にオレまでこの館を追放されます。さて、どうします?」
「悪あがきにしかならいかもしれないが、憲兵が動き出す前に小鳥を自由民にする手続きを」
「承知しました。赤ん坊の方はどうします?」
「今日、のこのこムルサダの家に連れて行っても、騒ぎが大きくなるだけだ。犯人がいるなら、憲兵があぶり出すまで待つしかねえな。それを待って赤ん坊の存在をムルサダに知らせるとしよう」
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

病気になって芸能界から消えたアイドル。退院し、復学先の高校には昔の仕事仲間が居たけれど、彼女は俺だと気付かない

月島日向
ライト文芸
俺、日生遼、本名、竹中祐は2年前に病に倒れた。 人気絶頂だった『Cherry’s』のリーダーをやめた。 2年間の闘病生活に一区切りし、久しぶりに高校に通うことになった。けど、誰も俺の事を元アイドルだとは思わない。薬で細くなった手足。そんな細身の体にアンバランスなムーンフェイス(薬の副作用で顔だけが大きくなる事) 。 誰も俺に気付いてはくれない。そう。 2年間、連絡をくれ続け、俺が無視してきた彼女さえも。 もう、全部どうでもよく感じた。

赤ずきんちゃんと狼獣人の甘々な初夜

真木
ファンタジー
純真な赤ずきんちゃんが狼獣人にみつかって、ぱくっと食べられちゃう、そんな甘々な初夜の物語。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?

すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。 「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」 家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。 「私は母親じゃない・・・!」 そう言って家を飛び出した。 夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。 「何があった?送ってく。」 それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。 「俺と・・・結婚してほしい。」 「!?」 突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。 かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。 そんな彼に、私は想いを返したい。 「俺に・・・全てを見せて。」 苦手意識の強かった『営み』。 彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。 「いあぁぁぁっ・・!!」 「感じやすいんだな・・・。」 ※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。 ※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。 ※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。 ※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。 それではお楽しみください。すずなり。

寮生活のイジメ【社会人版】

ポコたん
BL
田舎から出てきた真面目な社会人が先輩社員に性的イジメされそのあと仕返しをする創作BL小説 【この小説は性行為・同性愛・SM・イジメ的要素が含まれます。理解のある方のみこの先にお進みください。】 全四話 毎週日曜日の正午に一話ずつ公開

BL団地妻-恥じらい新妻、絶頂淫具の罠-

おととななな
BL
タイトル通りです。 楽しんでいただけたら幸いです。

「優秀で美青年な友人の精液を飲むと頭が良くなってイケメンになれるらしい」ので、友人にお願いしてみた。

和泉奏
BL
頭も良くて美青年な完璧男な友人から液を搾取する話。

放課後教室

Kokonuca.
BL
ある放課後の教室で彼に起こった凶事からすべて始まる

処理中です...