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第五章
93:小鳥。ムルサダの館を出されてから娘と一度でも会ったか?
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「気が変わった。お前のせいで、家業に泥を塗られるのはごめんだ。オレはこの館を守りたい。さあ、出て行け」
と言われるのを僕は覚悟した。
でも、アドリーの口から紡がれた言葉は僕の予想とはまるで違った。
「バットゥータが言っていた。助けられるのに、助けないのは卑怯なんだと」
助ける?
こんな僕を?
僕には人としての価値がない。
だから、卑怯だとか、そうじゃないとか関係ない。
この数年、ただ息を吸って吐いて廃人のように生きてきた。
十年近く時間を無駄にして生きてきた。
終わりにするにはちょうどいい。
男の部分を切り取っているくせに、死出の旅に赤ん坊っていうおまけが付くのが笑えるけれど。
時間だけが過ぎていく。
僕は黙って絨毯に座り続け、アドリーは手持ちぶたさになったのか、寝台に移って本を読み始める。難しい本なのか、指で文字を追い、ブツブツ言っている。その姿は昔のままだ。
半刻をゆうにすぎて、バットゥータが息を切らせ戻ってきた。
「ご苦労。朝から使っちまったな」
「小鳥を引き取りましょうって提案したのは俺なんで、こんくらい」
バットゥータが顎に垂れてきた汗を拭った。
「やはり死んだのはムルサダの娘でした。一時、地方に行かされてたらしいんですが、少し前に戻ってきてたみたいで」
「小鳥。ムルサダの館を出されてから娘と一度でも会ったか?」
僕は首を振る。
「本当だな?」
と念を押されて、再度。
娘が孕み生んだ子供の父親が肌の色からして僕以外にいない分かったとき、ムルサダは、娘でなく僕をひどく怒った。
毎度のことながら、娘は乱暴されたと嘘を付くのだ。
僕は殺されるのだと覚悟したが、体罰すらないままイスタンブール一の奴隷商館ヴァヤジットの元へ行かされた。
宦官であると嘘を付け、真実を語ったらどうなるか分かっているな、と脅されて。
誰も赤ん坊のことは言わなかったから、慣例通り縊り殺されたんだと思っていた。
そして、僕はそのことに対して何も思わなかった。
むしろ消したい過去が消えてくれたとすら思ってしまった。
「ムルサダの娘の死因は?」
とアドリーがバットゥータに聞く。
「憲兵が言うには、絞殺です。あと腹が膨れていたと」
「溺死じゃないのにか?」
「いえ、水を飲んだのではなく、妊娠していたみたいなんです。六ヶ月ほどの腹の大きさだったと」
僕はこみ上げてくるものがあって、二人に気づかれないよう、うつむいて口を手で覆っていた。
新たな生贄がムルサダの館に。
「バットゥータ」
「はい」
「小鳥が言った。死んだとはずの赤ん坊は突然、部屋の前に置かれ、どうしていいかわからなくなってオレの館にやってきたと。そこには、寸分の嘘がねえってな」
「じゃないと、人の見る目が無いってことで、小鳥と一緒にオレまでこの館を追放されます。さて、どうします?」
「悪あがきにしかならいかもしれないが、憲兵が動き出す前に小鳥を自由民にする手続きを」
「承知しました。赤ん坊の方はどうします?」
「今日、のこのこムルサダの家に連れて行っても、騒ぎが大きくなるだけだ。犯人がいるなら、憲兵があぶり出すまで待つしかねえな。それを待って赤ん坊の存在をムルサダに知らせるとしよう」
と言われるのを僕は覚悟した。
でも、アドリーの口から紡がれた言葉は僕の予想とはまるで違った。
「バットゥータが言っていた。助けられるのに、助けないのは卑怯なんだと」
助ける?
こんな僕を?
僕には人としての価値がない。
だから、卑怯だとか、そうじゃないとか関係ない。
この数年、ただ息を吸って吐いて廃人のように生きてきた。
十年近く時間を無駄にして生きてきた。
終わりにするにはちょうどいい。
男の部分を切り取っているくせに、死出の旅に赤ん坊っていうおまけが付くのが笑えるけれど。
時間だけが過ぎていく。
僕は黙って絨毯に座り続け、アドリーは手持ちぶたさになったのか、寝台に移って本を読み始める。難しい本なのか、指で文字を追い、ブツブツ言っている。その姿は昔のままだ。
半刻をゆうにすぎて、バットゥータが息を切らせ戻ってきた。
「ご苦労。朝から使っちまったな」
「小鳥を引き取りましょうって提案したのは俺なんで、こんくらい」
バットゥータが顎に垂れてきた汗を拭った。
「やはり死んだのはムルサダの娘でした。一時、地方に行かされてたらしいんですが、少し前に戻ってきてたみたいで」
「小鳥。ムルサダの館を出されてから娘と一度でも会ったか?」
僕は首を振る。
「本当だな?」
と念を押されて、再度。
娘が孕み生んだ子供の父親が肌の色からして僕以外にいない分かったとき、ムルサダは、娘でなく僕をひどく怒った。
毎度のことながら、娘は乱暴されたと嘘を付くのだ。
僕は殺されるのだと覚悟したが、体罰すらないままイスタンブール一の奴隷商館ヴァヤジットの元へ行かされた。
宦官であると嘘を付け、真実を語ったらどうなるか分かっているな、と脅されて。
誰も赤ん坊のことは言わなかったから、慣例通り縊り殺されたんだと思っていた。
そして、僕はそのことに対して何も思わなかった。
むしろ消したい過去が消えてくれたとすら思ってしまった。
「ムルサダの娘の死因は?」
とアドリーがバットゥータに聞く。
「憲兵が言うには、絞殺です。あと腹が膨れていたと」
「溺死じゃないのにか?」
「いえ、水を飲んだのではなく、妊娠していたみたいなんです。六ヶ月ほどの腹の大きさだったと」
僕はこみ上げてくるものがあって、二人に気づかれないよう、うつむいて口を手で覆っていた。
新たな生贄がムルサダの館に。
「バットゥータ」
「はい」
「小鳥が言った。死んだとはずの赤ん坊は突然、部屋の前に置かれ、どうしていいかわからなくなってオレの館にやってきたと。そこには、寸分の嘘がねえってな」
「じゃないと、人の見る目が無いってことで、小鳥と一緒にオレまでこの館を追放されます。さて、どうします?」
「悪あがきにしかならいかもしれないが、憲兵が動き出す前に小鳥を自由民にする手続きを」
「承知しました。赤ん坊の方はどうします?」
「今日、のこのこムルサダの家に連れて行っても、騒ぎが大きくなるだけだ。犯人がいるなら、憲兵があぶり出すまで待つしかねえな。それを待って赤ん坊の存在をムルサダに知らせるとしよう」
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