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第五章
89:僕が、ムルサダの館から奪ってきたんじゃない。生きていることだって知らなかった
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アドリーが苛立つ。
「こっちは、お前の話によってはすぐに、対策を練らなきゃならねんだぞ。もたもたすんな、小鳥っ!!」
バットゥータとは比べ物にならないほどピシリッとした言い方に、僕の身体が震え上がる。
やがて、バットゥータが夜着と紙の束を持って戻ってきた。
夜着の上に置かれた紙の束に添えられていた鉛を掴んで、文字を書き始める。
だけど、手が痙攣したように言うことをきかなくてミミズがのたくったような線が引かれただけだった。
「アドリー様。こいつ、ひどく怯えてます」
「ったく」
不機嫌そうにアドリーは言って「赤ん坊を見てくる」と部屋から出ていく。
緊縛から解かれたように、僕は息をついた。
だが、まだ身体は震えている。
バットゥータは、僕の真向かいにあぐらをかいて座った。
「あんた、ムルサダの館で何かあった?怯え具合が尋常じゃない。まあ、何もない奴隷なんてこの世にはいないかもしれないけれど」
正直、バットゥータは苦手なタイプだ。
自信に満ちあふれていて、率直に物を言う。
言いたいことを飲み込んでしまう僕とは真逆な性格。
弱者の気持ちなんて分からないと決めつけていたから、こんな風に気遣われるとは思っていなかった。
「俺はコーカサスの生まれで、七歳の頃からアドリー様の元に。奴隷になったのは五歳の頃だが、アドリー様に出会うまではさんざんだった。宿にいたエミルを覚えているか?あいつも、あそこに貰われるまではひどかったみたいだ。背中の肉とかえぐられるほど鞭打たれたって。傷も残っている。大きな音とか怒鳴り声に弱いとこが一緒だから、聞いてみた」
僕は、右手首を左手で抑えながら、真実を伝えるためになんとか文字を書いた。
余計な感想は一切挟まない。
早くしないと自分がおかしくなりそうだからだ。
『宿の扉前に置かれていた』
「置かれていたって、赤ん坊が?」
『僕が、ムルサダの館から奪ってきたんじゃない。生きていることだって知らなかった』
紙にぼたぼたと涙が垂れる。
こんな姿をアドリーに見られたら、泣くなっ!とまた怒鳴られる。
彼が戻ってくる前に涙を止めたいのに、止まらない。
「あんたさ、昼にムルサダの館の周りをうろついてたよな?絶対に近寄りたくないのに、行かなきゃいけないみたいな顔をしいてた。プロフっていう先生には、あんた、殴りかかっていったんだろ?なのに、さっきは何であそこまで弱腰だったんだ?まさかムルサダを恐れてるわけはないよな?あいつは、反抗的な使用人には厳しいが、低姿勢なのには甘い。あんたは、使用人がよく死ぬあの館にそこそこの期間いたんだからわからないはず無いし」
怯えていた理由は……言えない。
情けなくて、死にたくなるから。
身体が勝手に動き、左手で右肘を押さえていた。
そんな僕を見てこれ以上は聞き出せないと悟ったのか、「まあ、答えは今度でいい」とバットゥータが言った。
彼は、想像以上に頭が回るようだ。
気を付けなければいけない。
バットゥータの前でボロを出せば、彼はアドリーに報告する。
僕は、これ以上、彼に軽蔑されたくない。
身分を白人宦官と偽わらされて、それを訂正できない間抜けぶりより、僕が赤ん坊を作ったことに対してかなり冷ややかに思っているみたいだから。
「とにかく着替えろ。ずぶ濡れのままにはさせとけない」
バットゥータが急かしてきた。そして、絨毯に落ちていたタオルを拾った。
「これ、アドリー様が?優しいところあるね」
どこが、と僕が思っていると、また赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。
耳を塞いでしまいたい。
「こっちは、お前の話によってはすぐに、対策を練らなきゃならねんだぞ。もたもたすんな、小鳥っ!!」
バットゥータとは比べ物にならないほどピシリッとした言い方に、僕の身体が震え上がる。
やがて、バットゥータが夜着と紙の束を持って戻ってきた。
夜着の上に置かれた紙の束に添えられていた鉛を掴んで、文字を書き始める。
だけど、手が痙攣したように言うことをきかなくてミミズがのたくったような線が引かれただけだった。
「アドリー様。こいつ、ひどく怯えてます」
「ったく」
不機嫌そうにアドリーは言って「赤ん坊を見てくる」と部屋から出ていく。
緊縛から解かれたように、僕は息をついた。
だが、まだ身体は震えている。
バットゥータは、僕の真向かいにあぐらをかいて座った。
「あんた、ムルサダの館で何かあった?怯え具合が尋常じゃない。まあ、何もない奴隷なんてこの世にはいないかもしれないけれど」
正直、バットゥータは苦手なタイプだ。
自信に満ちあふれていて、率直に物を言う。
言いたいことを飲み込んでしまう僕とは真逆な性格。
弱者の気持ちなんて分からないと決めつけていたから、こんな風に気遣われるとは思っていなかった。
「俺はコーカサスの生まれで、七歳の頃からアドリー様の元に。奴隷になったのは五歳の頃だが、アドリー様に出会うまではさんざんだった。宿にいたエミルを覚えているか?あいつも、あそこに貰われるまではひどかったみたいだ。背中の肉とかえぐられるほど鞭打たれたって。傷も残っている。大きな音とか怒鳴り声に弱いとこが一緒だから、聞いてみた」
僕は、右手首を左手で抑えながら、真実を伝えるためになんとか文字を書いた。
余計な感想は一切挟まない。
早くしないと自分がおかしくなりそうだからだ。
『宿の扉前に置かれていた』
「置かれていたって、赤ん坊が?」
『僕が、ムルサダの館から奪ってきたんじゃない。生きていることだって知らなかった』
紙にぼたぼたと涙が垂れる。
こんな姿をアドリーに見られたら、泣くなっ!とまた怒鳴られる。
彼が戻ってくる前に涙を止めたいのに、止まらない。
「あんたさ、昼にムルサダの館の周りをうろついてたよな?絶対に近寄りたくないのに、行かなきゃいけないみたいな顔をしいてた。プロフっていう先生には、あんた、殴りかかっていったんだろ?なのに、さっきは何であそこまで弱腰だったんだ?まさかムルサダを恐れてるわけはないよな?あいつは、反抗的な使用人には厳しいが、低姿勢なのには甘い。あんたは、使用人がよく死ぬあの館にそこそこの期間いたんだからわからないはず無いし」
怯えていた理由は……言えない。
情けなくて、死にたくなるから。
身体が勝手に動き、左手で右肘を押さえていた。
そんな僕を見てこれ以上は聞き出せないと悟ったのか、「まあ、答えは今度でいい」とバットゥータが言った。
彼は、想像以上に頭が回るようだ。
気を付けなければいけない。
バットゥータの前でボロを出せば、彼はアドリーに報告する。
僕は、これ以上、彼に軽蔑されたくない。
身分を白人宦官と偽わらされて、それを訂正できない間抜けぶりより、僕が赤ん坊を作ったことに対してかなり冷ややかに思っているみたいだから。
「とにかく着替えろ。ずぶ濡れのままにはさせとけない」
バットゥータが急かしてきた。そして、絨毯に落ちていたタオルを拾った。
「これ、アドリー様が?優しいところあるね」
どこが、と僕が思っていると、また赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。
耳を塞いでしまいたい。
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