【完結】片恋鳥は初恋の夜を越える

第五章

87：僕の腕の中で、今泣いている生き物は何？

　僕の腕の中で、今泣いている生き物は何？
　珈琲にたっぷりミルクを混ぜたような肌の色をしていて、髪は金色寄りの茶。
　産着は雨に濡れているというのに、抱きかかえている腕には赤ん坊の生暖かい体温が伝わってくる。
　アドリーの館の門を叩くと、中年の男の人が対応してくれて、続いて若い女性が館の奥から出てきてくれた。
　彼女はすぐにいなくなってしまって、中年の男が困ったように僕の隣りにいる。
　大抵の人は口術はできないし、僕は両手がふさがっていて文字が書けない。書けたとしてもこの雨では、紙に雫が落ち文字がたちまち滲んでしまう。
　昼に巻いてもらった包帯は、雨の中を駆けるうちに緩んで落ちてしまっていた。
　不揃いな髪は雨のせいでべったりと顔を隠し、口元は薄くなってきたといってもまだ青黒く腫れていて、服はずぶ濡れ。
　おまけに腕には激しく泣く赤ん坊。
　周りから見たら僕は圧倒的な不審者だ。
「小鳥！」
　知った声に顔を上げると、中庭の小道を険しい顔して駆けてくるのはバットゥータだった。
　遅れて、先程の彼女もやってくる。
「お前、これ、どういうことだ？」
　僕の腕の中で泣き続ける赤ん坊を見て、バットゥータが声を尖る。
　そんなの僕が聞きたい。
　アドリーの言いつけを守って大人しく宿に籠もっていたら、扉の前に置かれていたのだ。
　この子が。
　まるで荷物みたいに。
「こちらに」
と彼女が言って僕の腕から赤ん坊を奪っていく。
　腕から重みが無くなって心底ほっとした。
　赤ん坊の頬や額を触った彼女は、「熱は無いみたい。お腹が空いてるんだと思う」と言いながら、赤ん坊を今度はバットゥータへ。
「お、俺？こんぐらい小さいのは、まともに触ったことないんだけど」
「いいから！私はこの辺りでお乳が出る人がいないか聞いてくる。ムアーウィア。着いてきて！」
　門番の男性は、ムアーウィアというらしい。
　彼を引っ張って出ていこうとする彼女に、バットゥータが赤ん坊を抱いたまま声をかける。
「ファトマ」
「何よ！この一大事に脱走なんてしないわよ」
「そんなの、分かっている。大雨の中、悪いな。気をつけていってこい」
　バットゥータがファトマにそう声をかけると、彼女は「ふん」と鼻を鳴らし、門を出ていく。
　雨がけぶる夜にニ人が消えていくのを見送ったバットゥータが僕を見て怒鳴った。
「あんた、何、突っ立ってんだ！事情を説明しろ、事情を！この赤ん坊、どっから持ってきた？ムルサダの館からか？あんたはアドリー様のもんになったが、この赤ん坊をムルサダが所有してるなら、とんでもないことをしでかしたことになるぞっ！！！」
　その声に驚いたのか、赤ん坊が喉が張り裂けんばかりに泣き声を上げる。
「あ～あ、泣くなよ、泣くなって！」
　素人の僕から見たっておかしなあやし方でバットゥータが揺するものだから、赤ん坊はさらに泣く声量を上げる。
「中」
　立ち尽くす僕を見て、バットゥータが僕に館方向を顎で示す。