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第四章

74:オレのものにする

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 安心して力尽きたのかもしれないが、アドリーに労りの心は湧いてこない。 
 背中を擦ってやろうとすら思えない。
 ヴァヤジットの使用人らがからったように、名無しの身体からは不快な匂いが立ち込めていた。
 その彼が顔を上げた。
 目には涙がいっぱいに溜まっている。
 唇が動く。
「い、……て、たん、だね?」
 違うと違うと首を振られ何度も何度も唇が動いて、『生きてたんだね』とようやく読み取った。
 妙に引き込まれる唇だ。
 艶っぽくもぽってり赤いわけでもない、ただの男の薄い唇なのにずっと見ていたくなる。
 アドリーは不埒な気分を勢いよく首を振って払った。
 こんなメソメソ泣く大男に魅力なんてあるわけがない。
 十五年前、兄弟殺しが行われ、ラシードという王子もそこに含まれていたことを名無しはどこかで知ったようだ。
「ああ」
とアドリーは答える。
『……宿では、……目を瞑ってたから、大人になったらこんな感じかと……懐かしかった。まさか、本人だなんて』
 宮殿での一夏からもうかなりの時が過ぎた。
 まさかは、こっちの台詞だ。
 まだ記憶は鮮明ではないが、こいつがどうしようもないほど泣き虫だったのは覚えている。
 どんな理由で涙をこぼしていたのかは忘れてしまったが。
 それが、白人宦官崩れになり、赤ん坊までこさえて。
 名無しからすれば、感動の再会というやつなのかもしれない。
 だが、こちらからすれば白ける一方だ。
 できれば、小鳥のその後の生き様など知りたくなかった。
 可能なら放り出してしまいたいが、背後に控える使用人が目を光らせている。
 嗚咽が倉庫に響く。
 アドリーの腹の当たりが小鳥の涙と鼻水でうっすら濡れていくのが分かる。
 正直、すぐにでも離れて欲しい。
 慰めの言葉一つ浮かんでこない。
 アドリーは耐えきれなくなって、腹にくっついて肩を震わせている名無しを引き剥がしかかる。
 しかし、彼は離れたくないというように首を振るばかり。
 気色が悪い。 
「バットゥータ。こいつを壁にもたせかけてやってくれ。きっと限界だろうから」
 アドリーは冷めた気分で使用人に命じた。
「そのあと、ヴァヤジットを呼んできてくれ。ユフスっていう名の関税長官も。ハレムに入れる女奴隷を見繕いに来ているはずだから。ユフスがこいつを欲しいって言えばヴァヤジットは断れない。その後、オレのものにする。ユフスは、俺の元の名前を出せば応じてくれるはずだ」

 数日過ぎて、バットゥータが夜遅くに寝所にやってきた。
 今夜は夕食の席にもいなかった。
 名無しの世話で忙しくしているからだ。
 アドリーは、名無しを館に連れてくる気になれず、当面は借りている宿に住まわせることにした。
「夜分にすみません。一応、本日の報告です」
  アドリーは寝台に上半身をもたせかけ本を読んでいたが、パタンと閉じる。
「いいぞ。入ってきて」
 ソファーへとアドリーは移動する。
 少し身体が熱を持ってだるい。
 顔色を見てすかさずバットゥータが聞いてくる。
「調子が悪いんですか?」 
「いつものことだ。気にするな」
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