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第四章

73:バットゥータ。こいつの前髪を上げてくれ。顔をよく見たい

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 バットゥータが彼らを呼び寄せ、
「あの、どうやってここまで??こいつは罪人で、俺らはここを任されていて」
と言い訳する見張り達に少なくはない額の小銭を握らせる。
 その脇を、アドリーは通り過ぎる。
 石の床に杖の先が触れると、カツンという音が反響した。
 その音に、名無しと呼ばれる男が顔を上げた。
 むしられたのか金の髪は長さが揃わないまま、顔を覆っている。
 右肘を抱き寄せていた左手がたらりと力なく垂れ、名無しが一歩後ずさる。
 なかなか根を上げないから新たに折檻をする者がやってきたと勘違いしたのだろうか。
 でも、ボサボサの前髪から見える目に、恐怖以外に、驚きが混ざってるのをアドリーは見逃さなかった。
 ---こいつ、オレのことを知っているのか?
 どうしてあなたがこんなところに、って顔だ。
 宿で顔を見たから?
 いや、オレは寝ていたし、それに、何故、そんなに怯え驚く必要がある?
 一歩近づくと、名無しは魔物が寄ってきたみたいな驚き方でさらに後ずさる。
 すると、バットゥータがアドリーを追い抜き近寄っていく。
「おい。俺だ。覚えているか?何度かグランドバザールの薬商のじいさんの店であんたに香を」
 バットゥータの声は届いてないようだった。
 かわいそうなぐらい身体を震わせている。
「バットゥータ。こいつの前髪を上げてくれ。顔をよく見たい」
「はい」
 前髪が上げられた顔は、彫りが深い目元と通った鼻梁。
 なのに、眼球がせわしなく左右に動き続け、そこそこ整った顔を台無しにしている。
 こんな男、知らない。
「もう---」
 いい、と言いかける最中、名無しが再度右肘を左手で抱きよせる仕草をした。
 その独特の仕草は、身を守ろうとする行為。
 それを、オレは……知っている?
 ぱっと紙吹雪が散るように、一変に色んな記憶がアドリーの脳内に蘇る。
 夏の新宮殿の草の匂いとか、夜の涼しさとか。
 たった一羽、いや一人で広い庭を震わせるような声量で歌う金の髪色の少年の姿とか。
 思い出した。
 こいつは、新宮殿に招かれた五十人ほどの小鳥の中だ。
 いつも一人はぐれたように過ごしていた。
 オレは確かこいつのこと、小鳥と呼んでいて。
 本名は知らない。
 教えてくれなかったからだ。
 他の小鳥から聞き出せば容易かったのだろうが、なぜか、オレはそれを避けていて。
 何でだ?
 そんなことよりだ。
「お前、ここで何やってんだよ?」
 アドリーは、名無しに問いかける。
「小鳥……だろ?」
 宮廷に呼ばれた声楽一座の連中は、ローマ法王の名で集められた飛び抜けて優秀な者ばかりだったはず。
 そこで歌い続けていたのなら、今、こうやって奴隷商館で半裸で死を待つなんてありえない。
 奴隷商館の外では、本物の小鳥が囀っている。
 それが、虚しさを運んできた。
 オスマン帝国に連れてこられた小鳥たちは、十八歳まで各地とを点々しながら歌うことで莫大な去勢手術費用を返済する。
 アドリーより少し年下のはずのこの男は、もう二十歳を超えている。とっくに国に帰って、舞台で脚光を浴びていてもおかしくはずだ。
 がくんと、名無しが床に膝を着いた。
 前のめりになるのをアドリーはなんとか片手で支えた。
 腹に名無しの額がぶつかってくる。
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