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第三章

53:頭ん中で考えろって言ったろ?

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「どおれ、じゃあ、御招待に預かるか」
 寝台から立とうするアドリーの前にバットゥータは駆け寄った。
 たしか、ララが真向かいで足元にひざまづいて……。
「お前、完全に床に座ったら、オレの手が届かない。やるなら、そうだな。両膝で踏ん張って。行くぞ」
 一方の肩にアドリーの手が置かれた。
 相手は子供の自分と違って、身体ができつつある。
 体重だって重い。
「杖」
「はい」
 寝台の端にかけられた杖に手を伸ばしてみたが、
「……届かない」
「はは。今度からは、杖を先に手に取って、オレに肩を貸した後、渡せばいいかもな」
 アドリーが自分で杖を手繰り寄せ、右手でしっかり握り込む。
「オレが腰を上げる時、しっかり支えてくれ」
「はい。アドリー様。分かりました」
「よし」
 今まで噛み合わなかったのが嘘みたいに、会話が通じるようになる。
 コツンコツンを杖を鳴らして歩き出すアドリーをバットゥータは、初めて弾むような気持ちで追いかけた。

 ガジアンテプに本格的な冬が到来。
 雪が全てを覆い尽くし、市場に出かけるのもままならない。
 ララの指示で秋のうちに食材をせっせと乾燥させて、冬支度をじっくりしたし、荒れていた庭もかなり綺麗になった。春には何か植えることができるかもしれない。
「よく降るなあ」
 バットゥータの隣りに座っていたアドリーが呆れたように窓辺を見る。
 冬場は、忙しくなるのは家の前の雪かきぐらいで、後はほとんどアドリーの部屋にいた。
 この部屋は、他と比べて温かい。
 以前、アドリーが教えてくれた火鉢に火傷防止の囲いを作って、毛布を被せ暖を取っているからだ。「キュルス」という名前らしい。
 現在は、計算の特訓中だ。
 指導するのは、ララから自然とアドリーに変わっていた。
 ララの調子が悪く、二、三日、伏せっていることが多くなったからだ。
 バットゥータは心配で心配でたまらないが、見舞いに行くとララは「冬になると調子が悪くなるのはいつものことだ。お前はアドリー様のことだけ考えていなさい」と穏やかに諭される。
 さすがにララの寝床に気軽に潜り込めなくなった。
 アドリーが与えてくれた温かい布団があるのだから寒さに震えながら寝なくてよくなったが、それを抜きにして寂しいのだ。夜中は少し悲しくなってしまう。
 無くなった故郷。
 それに、バラバラに売られていった父、母。
 ララの体温はそれを忘れさせてくれる。
「できたか?」
 膝の上の、計算問題に四苦八苦していると、アドリーが覗き込んできた。
 二人とも長衣の下に色々着込んでいるので、ぶくぶくと着ぶくれして子豚みたいになっている。
「まだです」
 何度考えても分からない。
 数字を書くための鉛の塊を傍らに寄せて、右の指を折りかけると、「駄目だ」と五本の指、全部をアドリーに握られた。じゃあ、左手やろうとすると、そちらも同じく。
「頭ん中で考えろって言ったろ?」
 それができないから困っているのだ。
 キュルスから足を出して、そっちの指でなんとかしようとすると、
「おまえなあ」
とアドリーが笑い出す。
 アドリーがバットゥータにきちんと目を掛けてくれるようになってから、こんな穏やかな時間が増えた。
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