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第二章

30: 苦しそうだったから、うわ言の指示に従っただけ。けれど、歌は夢だと思う

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「なあ」
とかける声が尖る。
 しかし、その直後、「うおっ」と叫んでいた。
 立ち上がったその白人は、視界を暗くするほど大きかったのだ。
 ここで取り乱してはいけないと、一息ついて、自分を落ち着かせてから再度、話しかけた。
「俺は、アドリー様の使いの者だけど」
 すると、男は、分からないというように顔の前で手を振る。
「言葉が通じないのか?それとも、耳が駄目なのか?」
 すると、男は勘定台の上にあった紙をバットゥータに見せてきた。
『喋れません。薬の知識もありません。ただの店番です』
 いつもこのページを見せているのか、少し黄ばんでいる。
 エミルは苦しむアドリーを一刻も早く助けて上げたくて、男がこの紙を見せる暇も与えず、宿に引っ張って行ったのだろう。
「あ、そう」
 意思の疎通はできそうで、ひとまず安心した。
 バットゥータは、勘定台の上に買ってきたロクムの包みを置いた。
「昨晩、迷惑をかけたってアドリー様から」
 包みを見つめていた男は、昨晩という単語を聞いてようやく気づいたようだ。
「ああ」という表情をする。
「見たから分かると思うけど、あの人の左足、時々猛烈に痛むんだ。何年か前からこの店で鎮痛用の香を買っている。それって、催淫効果もあるから。つまり、その、普段は俺が相手をするんだけど」
 アドリーと関係を持った男を目の前にすると、妙にバットゥータの口が滑らかになった。
 何言ってんだ、俺。
 牽制か?口も聞けない相手に。
「アドリー様は、昨晩のことを気にしてないなら、また来て欲しいって言っている。あの人があんたにどこまで求めたのかは知らないが、そういうの抜きで、歌を歌ってくれればうれしいって……あれ??」
 バットゥータは、自分がおかしなことを言っていることに気づいた。
 声が出ないなら、歌だって歌えないはずだ。
 男の顔を見ると、口元が一瞬痙攣した。
 困ったような顔で、筆記具として使う小石ほどの鉛の塊を手繰り寄せ、まるで喋るのと変わらない速度でさっと文字を書いた。
『苦しそうだったから、うわ言の指示に従っただけ。けれど、歌は夢だと思う』
 若干崩れているが、充分に読める。
「そっか、そうだよなあ」 
 今日の自分ままだ寝ぼけているようだと、バットゥータは頭をかいた。
『昨日の香はこれとこれとこれ。ここの主が居なかったから、勝手に煎じたものだけど』
 男が、棚の香草が入った瓶のいくつかを指差す。
「へえ。あんた、薬商としての知識はあるんだ。なら、安心だ。アドリー様はじいさんの香よりも気に入ったようだから、また、頼むかもしれない」
 香のストックはできるだけ避けている。
 香りが飛んでしまうのもあるが、手元にあれば、我慢できずに使ってしまう回数が増えるからだ。耐性ができれば、痛みに弱くなり、さらに強い香を作って貰わなければならない。
 だから、それをなるべく遅らせる。
『薬の知識はないよ。各地を転々としていたときに、知っただけ。それに、いずれ転売されるだろうから、ここには長く居ないと思う』
 店に新たに客が入ってきて、男の視線がそちらに移った。
 話しかけてくる客に、男は『喋れません。薬の知識もありません。ただの店番です』と書いた紙を見せる。
「じゃあ、店主に伝言」と客が言い始め、長くなりそうなので、バットゥータはそのまま店を出た。
 先ほどよりは足取りは軽く、アドリーの館へと戻る。
 現金なものだと、我ながら思うが、行きと帰りでは、戦地へと向かうのと戻るのぐらいの差があった。
 いや、兵になったことは一度して無いのだけれども。
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