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第六章

102:ジンも僕が今、習っている曲を上手に弾けたらご褒美をくれる?

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「もしかして、身体の具合悪いの?」
「そこまでは聞いてないけれど……」
 ジンは歯切れ悪い。
 澤乃井とは、彼方より前に出会っているので色んな話をしてるはず。詳しくは聞いてなくとも、なんとなく察しはついているのでは?
「そうだ。彼方。澤乃井さんが、レッスン最終日までには、一曲ちゃんと弾けるようになりましょうねだってさ」
「あと、三回だっけ?無理だよ!終わんないよ!」
と彼方は悲鳴を上げた。
「でも、老人ホームに入る期日が迫ってるし」
「う、ううん、頑張る」
 サボっているつもりはないのだが、曲は難解だ。家にピアノは無いし、澤乃井の家以外に気軽に弾ける場所も知らない。五井のホテルは同じ曲ばかりは弾いてはいられないからだ。
「彼方は、実質最後の生徒なわけだし、澤乃井さんも嬉しんじゃね?」
「僕は優秀な生徒からは遠そうなんだけどなあ」
 澤乃井はレベルの高い音大受験する生徒をずっと教えてきたそうだ。色んなピアノ教師の世話になっている彼方は、どうしても知識やテクニックにバラつきがある。澤乃井から教われば教わるほど、そう感じる。「もしかして、ご存知ない?」「もしかして、不得手?」とやんわり驚かれてしまう。
 たぶん、相当ヘタってことだ。
「ガッツリやりたいのであれば、朝、起きるのが超早くなってもいいなら、澤乃井さんが空いてる日は送っていってやるよ」
「ジンはどうするのさ?」
「仕事する。---って言っても八ヶ岳で雪下ろしのバイトな。ちょこちょこ依頼あるんだ。残念ながら彼方サンが期待している猟じゃねえよ」
 出来れば、そういうことは茶化さないで言って欲しかった。
 でもジンは、彼方と真面目な話をしたくないようだ。
「じゃあ、頑張って、澤乃井さんから「よくできました」を貰おうかな」
「なんだ、それ?」
「ハンコ。ジンも僕が今、習っている曲を上手に弾けたらご褒美をくれる?」
「何がいいんだ?」
「ジンが獲った獣。その料理」
「考えとく」
「猟は止めたって言っただろ。分かんねえ奴だな」と突っぱねられなくてよかった。正直、心臓がドキドキしている。
 翌日から、彼方は暇を見つけて澤乃井の家に通うようになった。ジンが雪下ろしのバイトが入っている時は、五時半起きだ。でも、その分、道はガラガラなので、凍結に気を付けて運転しながらでも一時間もあればついてしまう。ジンは玄関に出されたゴミを軽トラックに積んで八ヶ岳にとんぼ返りだ。
 時間がある日は、片付けをするので、澤乃井の家はどんどん綺麗になっていく。
 最初は、「澤乃井さん」と呼んでいたジンは、いつの間にか「澤乃井のばあちゃん」と呼ぶようになり、最近では「ばあちゃん」と普通に呼ぶ。この前、回覧板を回しにやってきた近所の人に、孫に間違われていた。
 レッスンも進んで、間違いを指摘される回数も目に見えて減ってきた。
 澤乃井は彼方の隣に座ることが少なくなり、グランドピアノのすぐ側に置かれたソファーで目を瞑って聞くことが多くなった。少し疲れているらしい。
「さわの……おばあちゃん」
 彼方も羨ましくなって、澤乃井をそう呼んでみた。
「え?」
と彼女が目を覚ます。
 部屋は薄暗かった。
 ジンは先ほどガムテープを買いに行くと行って外に出て行ったきり帰ってこない。
 間もなく三月になろうとしていたが、十七時を過ぎると日暮れが駆け足でやって来る。
「僕、夢中になって弾いていて、暗くなっているのに気づかなかった」
「ごめんなさいね。寝てたけど、全部聞いてたわよ。変な弾き方したらすぐに気付くから私」
「すごい」
 薄暗い部屋でふふふっと、澤乃井が笑っている。
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