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第六章

99:何、泣きそうな顔してんの?

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「やーっぱ、彼方はピアノの話題で物凄く元気になる気がする。逆のパターンもあるけど。とにかく俺じゃねえんだよなあ」
「そんなことないよ。人ではジンが一番。動物では猫たちが。楽器ではやっぱりピアノかな」
 彼方はジンに床に下ろして貰いながら思った。
 ピアノという楽器に魅せられ、命を繋ぐ道具として使い、耳を壊されそうになったりもした。でも、自分が大切と思えるものの中に、ピアノは必ず入っている。
 それは、猟師であるジンが猟を大事にするのと同じだと思う。
 けれど、今、ジンは彼方のためにそれを辞めようとしている。
 それは、絶対に正しくない。
 先生の教えを破ったとしてもだ。
 でも、どうしたら元の道に戻ってくれるのか、彼方には分からない。
「何、泣きそうな顔してんの?」
 こわごわというように、ジンが彼方の頭を撫でてくる。
 やっぱり、彼も彼で遠慮している。
 きっと、夜は、猫たちには一時、薪ストーブの部屋で温まって貰って、自分たちは肌を合わすだろう。
 キスをして、互いの性器を刺激し合って、口淫だってするかもしれない。
 初めて同士みたいにずっと遠慮して、そして、倦怠期のカップルみたいになんとなく盛り上がりに欠けたまま終わる。
「幸福だよ」
と彼方はジンに抱きつきながら伝えた。
 前に進もう進もうと常にそれだけで頭がいっぱいで、現状の幸せには、気づいていなかった。
 ちゃんと、それを享受しよう。
 いつ壊れるのかわからないのだから。
 いくら未来が大切でも、それを求めるがあまりに、現在の幸せをないがしろにしては駄目なんだと彼方は思った。

 年代物のピアノの持ち主は、澤乃井という高齢の痩せた女性だった。
 とにかく品が良く、優しい雰囲気を常に醸し出していて、淡い紫色のスカートとクリーム色のハイネックのセーターがよく似合う。話し方も上品だ。
 ダイレクトメールを交わしあって仲良くなったようだが、よくジンはこんなタイプの人と会話が続いたなあと彼方は不思議に思った。
 出会い系の掲示板でも思ったが、ジンはつっけんどすぎて、コミュニケーションのファーストステップで、ほとんどの人が、うっとなるはずなのだ。分け入って行くと、とてもいい奴だと分かるが、そこまでたどり着くのは至難の業だ。
 でも、今回はジンから澤乃井にコンタクトを取っている。
 おべっかなんて使ったのだろうか、あのジンが。
 それとなく聞いたら、「ピアノを彼方に弾かせてもらうために、年末年始に五井のホテルで演奏する彼方の動画を送った」と教えてくれた。
 そんなの撮影していたの、知らなかったと彼方は思う。
「猟の行き帰りの車の中でとか、離れて寝ていたときとか聞いてた」
とボソッと言われて、めちゃくちゃ照れた。
 言葉にはしないから態度で分かれよと言われたって、これは無理だ。 
 澤乃井の家は、甲府市内から少し外れたところにあり、八ヶ岳のジンの家から、約一時間半ほどだった。こじんまりとした一軒家で、縁側と小さな庭がある和風と洋風がミックスされた家で、映画のセットみたいな素敵さだ。子供はおらず、夫は他界していて一人きりらしい。
 ピアノ教師をしていたとジンから聞かされていたが、本当に最近まで続けていたようで、棚には楽譜がたくさんならんでいて、レッスンを頑張った子どもたちに押す「よくできました」のはんこが小さな箱に入れられて置かれてあった。
「こんなの初めて見た」
 日本全国、名工の、由緒あると冠が付くピアノを弾く機会が多かった彼方だが、澤乃井が持っているピアノは別格だった。
 もしかしたら世界に数台現存しているかも?と、存在すら定かではないスタンウェイの伝説の一品だった。
 年に二回、きちんとした調律師が時間をかけて調律してくれていたであろうそれは、音が抜群で、ドの音を響かせただけで気持ちがいい。
「やばい」
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