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第三章

33:ジンは聞いていた?

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 どっちも長い間棚上げしていたが、彼方がやってきて先のことを考えるようになった。
 どっちが先になるかはまだ分からないが、同じ場所にずっと立ち止まっていた自分が動き出そうとしているのを感じていた。 
 大切な人を失ってうずくまって、そして、新たに大切にしたい人と出会って未来に目がいくようになった。
 好きという感情は偉大だ。
 目的のものを買い込んで、「おっと」と忘れ物に気付く。
 ケーキとシャンパン二種類だ。
 携帯の時計を見ると、約束より五分オーバーしていた。
 それぐらい誤差の範囲なので待てるだろうが、不安定さはまだまだ残っている。
 ビニール袋をガサガサいわせながら戻りかけていると、手前で足が止まった。
 グランドピアノの椅子に彼方が腰掛け、ジンが知らない、でも、明らかに難解だとわかる曲を弾いていた。
 見たことがない横顔だった。
 魂が抜けたように、鍵盤を撫でる独特の手付きで音を奏でている。
 圧倒される。
 ピアノ教室に通っていたからそこそこ上手に弾ける、なんてレベルではない。
 明らかにプロの音だ。
 それは、周りで聞いている人たちも感じているようだった。
  平日のショッピングモールのどこにこんなにいたのかと思うほど、グランドピアノの周りを人が取り囲んでいる。
 人によっては、彼方に携帯カメラを向けている。
 許可を取っているならいいが、そうでない場合は、嫌がりそうだ。
 ちょうど、一曲が終わって、拍手が沸き上がった。
 彼方は本物のピアニストみたいに、右手を鍵盤から少し上げて余韻に浸っている。
「遅くなった。行こう」
 人混みを掻き分け、ジンは彼方へと近づき、肩を叩く。
 彼方がじいっとジンの顔を見た。
 寝ぼけているとはまた違う、覚醒しきってない感じだ。
 有無を言わさず、ビニール袋を一つ持たせて、ピアノの椅子から立たせた。
 並んで歩き始めると、彼方がポツポツと話し始めた。
「鍵盤を押してみたくて」
「おう」
「そしたら、案外、大丈夫で」
「そうか」
「気づいたら夢中になって弾いていた」
「ギャラリーたくさんいたぞ」
「ジンは聞いていた?」
「少し」
 足早に歩きながら会話する。
 彼方は久しぶりのピアノに、興奮しているかというと、そうでもない。
 逆に演奏を聞いたジンの方が、まだ余韻に浸っているぐらいだ。
 彼方はビニール袋を持ってない右手を開いたり閉じたりしていた。
 そして、
「弾けた。普通に。あっけないぐらいに。耳は痛くならなかった」
とまるで自分に言い聞かせるみたいに言った。
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