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第八章

174.奇跡が起きて病気なんて治っちゃったのかな?そうだ、きっと賢婦の奇跡

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「もう真っ暗だ。アレッサンドロさんをこのままにはしておけないね。俺、泊まることにするよ」


 アンジェロは、クローゼットを漁らせてもらい、予備の毛布を一枚見つけた。


「クローゼットの中も、画材と絵の本ばっかりだなあ」

 床に座って本をめくる。

 絵の技術書なんて読むのは初めてだった。

 ムンディが興味深けに覗き込んできた。

 ローブ一枚きりで、四月のフィレンツェでは薄着の部類だ。


「入る?」


 毛布に誘うと隣りに座って、彼は半分身体にかけた。


「さっき、たくさん傷つけた。ごめん」


 素直に謝れたのは、肩がふれあいそうな距離に安心感を感じたからだ。

 ムンディが軽く唇を引き上げる。 

 その夜中、ユディトがアレッサンドロの様子を見にやってきた。そして、苦しげに呼吸する彼に子守唄と口づけをプレゼントして去っていった。


「ああ。よく寝た」


 翌朝、爽やかな声でアレッサンドロが目覚めた。

 アンジェロは寝不足の頭で思う。


(アレッサンドロさん。病人とは思えないほど、元気だな。奇跡が起きて病気なんて治っちゃったのかな?そうだ、きっと賢婦の奇跡)





 昨晩、夢物語かと思うほど美しい光景をアンジェロは目撃した。




 アレッサンドロが誰の手も借りず、イーゼルの前の椅子に座る。

 憑き物が落ちたようなすっきりした表情だった。


「いよいよ、描き始めるんですか?」


「メリージには請け負った仕事を奪われ、ロレンツォ公には絵を描きたいから『死の舞踏』の修復は出来ないと言ってしまったしね」


 イーゼルには裏返した絵があった。かなりサイズは小さめだ。


「実は、ある程度仕上がってはいるんだ。でも、最後の人物がなかなか描けなくて。今後、たくさんの人に観られるだろうから、美しく描いてやらないと思うと、なかなか筆が進まないんだ」

 ということは、美術館に収める絵なのだろうか?

 でも、いくら、過去がボッティチェリだとしても現世は修復士。

 絵一枚だけで有名になるには余程の話題性が必要では?

 アンジェロはそこだけが疑問だ。


「最後の人物ってことは、肖像画ではなく、群像画なんですね?」

「ああ。描き始めるまで話を聞いてくれないか?いや、自分自身の整理のために話したい」

「俺でよければいくらでも」

「昨日、話をしたとき、オレと同じくアンジェロは生きづらそうに見えたっていったよね。詳しく言うと、オレの十代と重なって見えたんだ。特に、しんどそうなところが。オレの場合は、自分が何者なのか分かっていても、理解してくれる相手が周りにいってパターンだったけれどね」

「どんな学生時代だったんですか?」
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