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第三章

52.ごめん。遅くなって。寝坊しちゃった

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とガラスに頭を押し付けた。


「ひどいことをしちゃった。ずっと我慢していたのに」


 まだ、心と身体は昨日に置き去りになっていた。

 幾らか抵抗したが、下半身の反応にやがて耐えきれなくなった。

 そこに手を当てる。

 はあっ、はあっと、荒い息がシャワーブースに響く。




 数分後、要望の証拠は排水口に流れていった。だが、シャワーの湯で罪悪感までは拭いきれない。


「最低だ」


 未だに火照る身体にバスタオルを巻いて浴室を出た。


 ベットの上に放り出されている携帯は充電切れ間近。

 昨晩、眠りに落ちる前に、乱入事件が記事になってないか何度も調べたせい。残念ながら何もヒットしなかった。

 犯罪者でもいいから、彼女の名前が知りたかった。


「あ、楽譜と絵が学校に置きっぱなしだ。土日は入れないから月曜に取りに行かなきゃ」




 自室を出る。

 館は朝でも薄暗く、おどろおどろしい。

 死神の住処にはちょうどいいのかもしれない。

 なんせ、ここはメディチ家の別荘だったところで、部屋数は二百。

 赤い絨毯が敷かれた廊下の端には、鈍色を放つ中世の甲冑。

 続く赤と青の小花が散る色鮮やかな巨大な壺は、大昔の東洋の物。

 そして、壁には大人三人が両手を広げても余る大きさの絵が飾られている。古代の戦車に乗る兵士、弓を構えた半裸の女神、そして、空では天使が楽しそうにラッパを吹き鳴らしながら舞っている。

 でも、アンジェロはいつもうつむいて美術品の前を通り過ぎる。

 絵は視界の端にも入れたくないのだ。



 ゆるい螺旋階段を降りて、一階へ。玄関手前の食堂手前まで行くと、コーヒーの香りが濃くなった。

 テレビを付けているのだろう。天気予報を告げる女の声がする。



 中に入っていくと、横長の机の端で四十代半ばの男が、天井から吊り下げたテレビをBGMにして、新聞を片手にコーヒーを飲んでいた。

 細身で針金みたいな手足と背中の長さが目立つ。

 ロレンツォは少し視線を上げて息子の顔を確認。

 探られているような気分になり目をそらす。


「ごめん。遅くなって。寝坊しちゃった」


 アンジェロが椅子に座るとほぼ同時に、ロレンツォはテーブルの上に置いてあった車の鍵を無言で手に取る。息子の顔を見るためだけに、仕事に行くのを遅らせて待っていたらしい。

 テレビでアンティーク番組の司会をしているから、周りからは派手好きで賑やかな男に見られているようだが、実際は違う。

 結構無口だ。息子への接し方も不器用な方だと思う。
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