【完結】神様はそれを無視できない

遊佐ミチル

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第四章

63:……何、言ってんの?

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「僕も、氷雨から渡された尚の分の茄子とプチトマトのタッパーに困っている。だからはい」
 顔を少し上げると時雨が尚に背中を向け、手を差し出していた。
「なにそれ」
と答えた割には、ひらひら踊る手をまた掴みたくなってしまう。
 もう取るまいと思ってさっき離したのに。
 まるで自分は迎えを待っている子供だ。
 階段を登らなかったのは、たぶん、この手を待っていたからだ。
 それは、遠い昔と重なる。
 母親が救世教団に入信する前、スーパーで夕方まで働いていて、今じゃほとんど見ることも無くなったボロの長屋住宅の玄関でこうやって帰りを待っていた。あの頃、母親は疲れ果てていたはずなのに、尚を散歩に連れ出しておしゃべりに付き合ってくれた。
 つかの間の楽しい時間は、何歳ぐらいの頃だろう。
 三歳?もしくは四歳?
 すっかり忘れていた記憶を、時雨の手を取って思い出すとは。
 あの最低な女は、まだまともだった。
 そこから加速度的におかしくなっていって、命の危険を感じたのは十五歳の時。
 尚は完全に母親との縁を切った。
 時雨の手をしっかり掴んで鉄骨階段から腰を浮かす。
 無言で歩いて彼の家へ。
 開けられる引き戸の玄関の音が気持ちがいい。
 ちゃんと生活している人の家は、隅々まで拭き上げられている。
 引き戸がカラカラと軽やかに鳴るのも、蝋をたまに塗って滑りをよくしているからだ。
 手入れに手入れを重ねて古い家は維持されている。
 時雨と一緒の時間を過ごすようになって、尚は新しい視点を得ていた。
 古いものと共存することがどういうものなのかよく知っている時雨に報告するのは、知ったかぶりみたいで恥ずかしいから言わないけれど。
「あ、そうだ。これ。翠雨から尚に」
 玄関の上がり框の隅に、小さな箱が置かれてあった。
 絵柄からして医療用の眼帯のようだ。
 その上に、銭湯で手渡されたプラスチックの容器も乗せられていた。
 付箋が張られ、でっかい文字で『よくもオレの親切を無碍にしたな。呪ってやる』と書かれている。
「これからも仲良くしようって」
「時雨さんにはそう読めるのか?」
 話しかけると、時雨は嬉しそうに頷く。そして、箱の上の容器を指さした。
「ところでこれは何?」
「俺の左目用の薬だって。神様専用だから普通なら人間に渡してはいけないものだって言っていたけれど」
「翠雨の特製か。きっとよく効くよ」
 時雨とともに、尚は家に上がる。
 風呂を勧められ、入っているうちに新しい浴衣が用意され、いつもの座敷に蚊帳が吊られていた。
 布団は一組だけ。
 尚はそこに黙って潜り込む。
 やがて時雨が蚊帳をめくって入ってきて、尚の隣に座した。
 だが、隣に横たわりはしない。
 代わりに尚の手に、翠雨を容器を握らせてきた。
「これ、せっかく翠雨がくれたものだから、無くさないで。人間は滅多なことじゃその薬は貰えない。だから、騙されたと思って塗ってみて」
「そうする」
 しばらく、無言が続いた後、時雨が
「ねえ。尚」
と言った。
「この薬、いつか僕に塗らせて」
「……何、言ってんの?」
 二人しかいない家のはずなのに、内緒話をするみたい時雨は上半身を折って尚の耳元に口を近づけてきた。
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