先生の話

八木 ざくろ

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先生の話

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 「先生はどうしてパイプを吸うんですか?」
 その質問に対して先生は一瞬、目を泳がせたような気がした。
 先生はさざ波ひとつ立てない凪いだ海のような人だった。講義中なにかあった時は決して怒鳴らず静かに注意をするし、問題がなかなか理解が出来ない生徒には本人のやる気がある限り工夫を重ねて解説を続ける。穏やかという言葉がこれほど似合う人はいないだろうと思っていた。
 そんな先生がよくパイプを吸っているのは生徒たちの中では有名な話だ。生徒が傍に来ればすぐにやめるが、禁煙している話は聞いたことがない。パイプそのものの手入れをしているのもよく見かけられているらしい。
 純粋な疑問だった。吸い続ける程のストレスがあるようにはあまり見えない、まぁ嗜好品だし単なる趣味の範囲なのかもしれない。それでも先生がパイプを吸うのにはどうにも、違和感があってならなかった。
 「…パイプに、興味があるのかい。」
 「いいえ。吸う予定はないです。」
 「そうか。」
 夕陽が射し込む音のない教場がより一層静かになる感覚がした。先生は少し視線を落としてから、鞄に手を伸ばし、いつものパイプを取り出した。初めて近くで見たが、素人目にも分かるくらいには古いもののように見えた。
 「若い頃は吸ってなかったんだけどね。」
 おもむろに手入れを始めた先生はパイプに目を落としたまま、独り言のように呟いた。
 「…苦楽を共にした人がいた。お互い厳しい生活をしていたけれど、2人ならなんだって出来る気がしていたし、実際なんでもやってたよ。嫌なことがあったら沢山お酒を飲んで大笑いして、そのまま寝てしまったことも少なくはなかった。今思えば無茶なことも数え切れないほどしていたね。でも、とても楽しい時間を過ごせる人だった……パイプはその人が吸っていたものなんだよ。」
 私は黙って椅子に座り、下を向いたままの先生に向き直った。
 「ずっとこのままで良いと思っていたこともあったけれど、そうもいかなくてね。大喧嘩をして出て行かれてしまったんだ。謝りたくてももう時が経ちすぎてしまったけれど…僕の手元には前の日に古いからと言って貰ったこのパイプしか残ってなかった。」
 話しながら先生の手は少しずつ止まっていった。ことん、と軽い音を立てて置いたパイプを眺めた先生の目は懐かしそうな、淋しそうな、複雑な表情を浮かべていた。
 「…込み入ったことを聞いてしまい、すみませんでした。」
 「あ、あぁ、大丈夫だよそれくらい。君が気にすることじゃないさ。僕も柄にもなく昔話なんてしてごめんね。」
 時計を見て先生は慌てて机の上を片付け始めた。私は教場の明かりを消して、廊下で先生が出てくるのを待った。
 鍵を閉めて何も喋らず廊下を歩き、人気のない喫煙所の前で先生は私を見送った。
 「…吸う度に、近くにいるような気がしてね。僕があれを吸うのは…君を忘れられないから、ってことなのかなぁ。」
 喫煙所に入っていく先生の口から最後に聞こえた言葉は私に向けての問いかけでもなく、独り言でもなく、私の知らない誰かへの言葉だと思うことにした。
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