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恋の焼け跡④

「懐かしすぎて殺したいくらいだ」

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その時、頭のずっと奥の方ではもう1人の自分が冷静な態度を取っていた。


——目の前に映る狂った男は、千鶴に似ている。だから、この男こそが貝森さんが言っていた千鶴のお兄さんの『紫伸』なんじゃないの?だとしたら、どうして千鶴のお兄さんが私にこんな仕打ちをするワケ?こんなの納得いかないわ——



「……な、んで、あなたは私を恨むんですか……っ」


精一杯の威嚇を込めて、私は噛み付くように男にそう言った。



「何故。何故?何故!!ああそうかいやっぱり忘れているのかいああそうだった愚鈍なお前のちっぽけな頭じゃあ思い出すのも一苦労だろうよお前はただ自分に都合の悪いことを忘れるようにしただけさ!」



吐き捨てるようにして男は叫んだ。怒りに空気がピリピリと緊張している。

しかし相変わらず無表情な為、かえって不気味さが増すばかりだった。



「……忘れていることを、思い出さないように、何ヵ月か悩んでた……」


ぽつりぽつりと、雨が滴るように私は呟いた。
男に返答するつもりが、いつの間にか自問自答をしていたのだ。


「でも、苦しいばっかり……。
意味不明。5キロ以上痩せたし、夢見が悪いし、具合も悪い……。
何なの。ねえ、何なの。アンタ、何なの。私が忘れているなら、教えて欲しい。
教えてくれるくらい、いいでしょ……」


崖から身を投げる勢いで私はそう言った。

途中、呼吸を整えながら。
飛びかける意識をしっかりと握り締めながら。



「ああ、久しぶりにまともな言葉を聞いたね。お前の声は本当、懐かしいよ。懐かしすぎて殺したいくらいだ」



千鶴によく似た指が、私の首筋をなぞる。
次第にそれは力を増して、皮膚に食い込んできた。

狂気を湛えた漆黒の瞳が私の視界を奪う。
ゆっくりと加速していく彼の怒りは目に見えるほどで、触れれば張り裂けそうなほど強大なものだった。

漆黒に何もかもが渦巻いている。

野性的な本能というものは、誰にでも備わっているらしい。
追い詰められたこの状態は非常に危険だと、頭の中のサイレンが鳴り響く。

汗が後頭部を伝い、次々に落ちていく。

首筋に感じる指の力が更に増した。

 




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