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第212話 最初の婚約者
しおりを挟むリラが結婚したと聞いたのは招待状が届く少し前だった。
相手が公爵家の令息だと聞いたときは唖然とした。リラはその前に王太子と婚約していた。それを思えば可笑しなことではないが、そんな人と自分は婚約していた事実にピンとこなかった。
リラが僕と婚約破棄をした後、他にも婚約しては破棄されていたことは知っていた。けれど、僕はリラという婚約者がいながら、別の女性と恋に落ちて一方的に別れを告げた。そしてしがない男爵家の息子だった自分には、リラの力になってやることはできなかった。
リラは出会った時から、僕にはあまりにも釣り合わない美しい少女だった。僕と結婚する運命ではなかったのだと、知らせを聞いて妙に腑に落ちた。
可愛いと褒めても褒めるのが上手ですねと取り合わない、少し冷めたところがあった。
男爵家の令嬢としては教育がされていないと母がかなり厳しく教育をし直していたが、泣き言も言わずに日々を過ごしていた。
そんな彼女をかばうこともせず、それが当たり前だとすら思っていたが、今の妻は母といまだに言い合っている。母はリラの方がいい嫁だったのにと孫が出来ても愚痴をこぼしている。
母は母なりに、貴族令嬢として嫁に入っても恥ずかしくないようにと……そして自分が祖母にされたのと同じように、意地が悪いと言われても仕方のないような厳しさでリラに接していた。
従順で感情の乏しい女の子をどこかで不気味に思っていたからか、妻に出会って、そちらに惹かれていった。
リラは、婚約段階とはいえ、結婚を約束した男が浮気をしたのだ、泣くか怒るか、何か感情を返してくれると思っていた。
けれど、少し寂しそうな顔をして、婚約破棄を受け入れた。
僕にとっては、リラ・ライラックを愛そうと努力をしても報われないと、心のどこかが察知していたのかもしれない。
「……私が言うのは何ですけれど」
隣にいる妻が階段の上に現れたリラを見上げて困ったような嬉しいような微笑みを浮かべている。
「やはり彼女の運命はあなた様ではなかったのです。だから、私があなたと出会えたのですよ」
略奪というには、あまりにもあっさりとした別れだった。
妻はリラに対して意地悪をしたこともないし、逆もしかりだ。ただ、僕が契約を破り別の女性を選んでしまった。
もし、リラが僕を責める程度に好いてくれていたら、違った未来があったのかもしれない。
彼女との一度限りの口づけで感じたものは、僕では釣り合わないという絶望だった。
今、公爵家だけでなく、王族とまで並んで立っている女性が、一時でも僕の婚約者だったと言って誰が信じてくれるだろうか。
とても美しいドレスを身に纏い、聖女様と並んでも見劣りしない美しい女性。その横に並ぶのは、まるで番いとして作られたように似合いの青年だった。
去年の春、王族と婚約破棄されたのがあのリラだと、その時には気づかなかった。今見ても、彼女があの時のリラだとは信じられない。
「君は、彼女から仕返しを心配しないんだね」
未だに母からは泥棒猫と揶揄されている。それでも、可愛い猫でしょうと言い返していた。普通ならば大変な状況だが、母は妻が寝込んだ時は率先して子供の世話を手伝いに来て、早く治しなと悪態をついていた。
正直、母と妻の関係が実際はどんなものか、理解できない。
「だって、彼女は私のことなんて覚えていないわよ」
妻は肩を竦めて何も恐れていない。
公爵家へ嫁いだ元婚約者への褒章が発表される。
公爵家が男爵家出身の彼女への箔をつけるために王族に借りを作ってでも作った功績だと誰かが揶揄していた。
けれど僕は事実だと思っている。
彼女は、日照りが続けば晴れた日でも雨を降らせた。普通の男爵令嬢はそんなことはできない。
リラ・ライラック・ソレイユに伯爵位が授けられ、ライラック伯爵になったと公表され、ざわつく貴族をよそに、妻が見上げてくる。
化粧で隠しきれないそばかすが見える。決してリラのような美女ではない。だが、不思議と彼女のそばは落ち着く。
「惜しい事をしたなんて思っていないよ。リラに……リラ様が無事に結婚できたことは嬉しいけれどね」
「わたしもですわ」
にっと貴族としてはよくない笑顔を返された。彼女は婚約破棄となった後、一人でリラへ謝罪に行った。何を話したかは知らないが、既に二人にとっては終わったことなのだろう。
幸福感と言っていいような感覚に包まれていた。そんな中、悲鳴が聞こえた。
妻を見ていた僕の視界に、地を這うような黒い霞が足元から這い上がってくるのが見える。火事だと思ったが、足が動かない。妻の視線の先を追うように見上げると、階段の上に並んでいた王族とリラたちが誰かを囲んでいた。
「マリウス殿下が」
妻の声が聞こえた後、世界は闇だけになった。
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