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最終章 愛しています。

295:素敵な思い出ができた。

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「ちょっと、アイン!?あんた本当に、ヴェルツブルグに行くつもりなの!?」

 カラディナ共和国北部有数の都市、ラ・セリエ。その一角に軒を連ねる質素な家の中で、ミリーは焦燥を露わにして、荷造りをする男の背中に詰め寄っていた。名を呼ばれた男は、身の回りの物を背嚢に詰め込む手を止めて振り返ると、余裕のない表情を浮かべる恋人に向かって答える。

「俺はあの時、陛下にこの剣を捧げたんだ。それから半年以上、俺はこの地で陛下のために何ができるか考えたが、やはり陛下のお傍でこの剣を振るう事が一番だと思う。ミリー、俺と一緒にヴェルツブルグに来てくれないか?」
「そ、そりゃぁ、別に行きたくないわけじゃないけど…」

 アインの瞳に宿る真っ直ぐな光を見て、ミリーはアインに明かす事のできない理由を心に抱え、口籠る。



 あの日、ミリーはアインと共に聖王国国境へと出向き、「ロザリア様」の降臨を目の当たりにした。そして「ロザリア様」が齎した「真実」を耳にし、大きな衝撃を受けた。

 だが、それ以上にショックだったのは、直前まで死と退廃の権化と恐れられ自分達が殺そうとしていたはずのコジョウ・ミカに、アインが躊躇いもなく剣を捧げ、忠誠を誓った事だった。

 コジョウ・ミカは、カラディナ国内に蔓延した数多くのおぞましい噂で語られていた通り、穢れを知らない純真無垢な乙女の姿をしていた。その容姿は清楚でか弱く、儚く、見る者の庇護欲を大いに掻き立てる存在であり、元々何事にも感情移入しやすいアインに「大いに刺さる」存在であるという事に、ミリーは気づいていた。しかもアインはガリエルの罠に嵌り、一度は自らの手でコジョウ・ミカの命を奪う寸前まで追い詰めている。それが、「ロザリア様」の聖言によってコジョウ・ミカの潔白が明らかになり、自責と後悔に苛まされるアインがこの先コジョウ・ミカに没頭するであろう事は、火を見るよりも明らかだった。

 コジョウ・ミカは若くて美しい、穢れを知らない乙女。そしてアインは若くて血気盛んな男で、その乙女に剣を捧げ、贖罪と忠誠を誓っている。



 ――― そんな若い男女が互いに惹かれ合い、いずれ真実の愛に目覚めるのは、もはや必然ではないだろうか。



 ミリーの胸に灼けるような痛みが走り、彼女は心の中にどす黒い靄が渦巻いていくのを感じる。

 確かに「ロザリア様」によって、コジョウ・ミカの身の潔白は明らかとなった。しかし、カラディナ国内では今もなお、コジョウ・ミカに関する数多くの噂がまことしやかに伝えられている。彼女は一介の町娘から一国の王にまで上り詰めた成り上がり者であり、その周囲には常に若く美しい男女が傅いている。



 ――― 火のない所に煙は立たぬと言うし、純真無垢と言われるコジョウ・ミカも、その中の誰かときっと…。



 突然、家の扉をノックする音が聞こえ、ミリーは飛び上がった。彼女は激しく拍動を繰り返す胸を押さえ、その場を取り繕うようにアインを急き立てる。

「ほ、ほら、アイン急いでよ!教会のお迎えが来ちゃったじゃない!」

 そう答えながらミリーは身を翻し、入口へと駆け寄って扉を開ける。そして入口に佇む女性の姿を目にした途端、驚きの声を上げた。



「っ!?ジャクリーヌ様!?な、何故こんな所に!?」



「え?ジャクリーヌさん?」

 アインも驚いて背後へと振り返ると、ジャクリーヌ・レアンドルがドレスのように仕立てられた美しい祭服に身を包み、入口に佇んでいた。彼女はアインの姿を認めると、溢れんばかりの笑顔を浮かべ、淑やかに一礼する。

「ご無沙汰しております、アイン様。中原各国を一堂に集めた国際会議へと出席いただきたく、お迎えに参りました」
「ジャクリーヌさんの方が、位階は上じゃないですか。わざわざお越しにならなくとも…」

 慌ててアインが立ち上がって入口へと駆け寄ると、顔を上げたジャクリーヌがアインの精悍な顔を嬉しそうに見つめながら、答える。

「偶々近くに寄ったものですから…それに、アイン様にお渡ししたい物がございまして」

 嘘つけ!サン=ブレイユからラ・セリエなんて、聖王国国境と90度方角が違うじゃない!

 優雅に白々しい台詞を吐くジャクリーヌに、ミリーが内心でツッコミを入れる。ジャクリーヌはミリーの剣呑な視線を無視し、深い切れ込みの入ったスリットの隙間から手紙を取り出すと、アインへ手渡した。アインがスリットから顔を覗かせる太腿に目を奪われながら封を剥がし手紙を開くと、丸みを帯びた可愛らしい異国の文字が現れ、すぐにアインの馴染み深いカラディナ語へと形を変える。



 ―――

 アイン殿

 貴方に、ロザリア教会カラディナ支部総括 ジャクリーヌ猊下の身辺警護を命じます。猊下の各国に対する様々な活動を支援し、中原が素質無き新しい時代を混乱なく迎えられるよう、お手伝い下さい。

 中原暦6628年ガリエルの第6月
 コジョウ・ミカ

 ―――



「…ジャクリーヌさん、これは…?」

 驚きの表情を浮かべ顔を上げたアインの目の前で、ジャクリーヌが共に居られる喜びに頬を染めながらも、決意を表明する。

「陛下にお願いし、勅命を賜りました。私達はガリエルの罠に嵌り、陛下の醜聞を西方諸国に広めてしまいました。各国には陛下に対する悪しき噂が未だに蔓延しており、陛下は西方諸国を訪れることができず、此度の国際会議も聖王国国境で行わざるを得ません。私は諸国を歴訪し、素質無き時代に向けた備えを進めると共に、陛下に関する誤った噂を払拭して参るつもりです。
 アイン様、どうか私と共にその旅に同行いただき、道中の危険から私を守っていただけませんでしょうか。アイン様は勇者の称号を持ち、教会の代弁者でもあられます。アイン様がお傍に居てくれたら、これほど心強い事はございません」
「ジャクリーヌさん…」

 ジャクリーヌに潤んだ目を向けられ、アインは思わず言い淀む。アインがミリーに顔を向け、目で助言を求めると、すかさずミリーがアインの腕を取り、所有権を主張するような勢いで答えた。

「ジャクリーヌ様と一緒に行こうよ、アイン!あたしも手伝うから。大体、もう勅命が出ているんだから、断われるわけがないじゃない」



 ジャクリーヌ様も油断ならないけど、コジョウ・ミカを相手にするよりずっとマシよ!私の方が断然若いんだし!



「ありがとうございます、ミリーさん。これから、よろしくお願いしますね?」
「こちらこそ、ジャクリーヌ様。恋人の手伝いをするのは、当然ですから!」
「え、ちょっと、ジャクリーヌさん?ミリーも一体何をやって…」

 ジャクリーヌがアインの反対側の腕を抱き寄せ、豊かな胸の谷間に埋めさせると、二人はアインの前で笑顔を浮かべ、互いを牽制けんせいし合う。

 その狭間で、アインは両腕に二種類の柔らかい感触を覚えながら、どちらにくみする事もできず、棒立ちし、往生していた。



 ***

「おい!急げ!もうすぐ陛下の馬車が来ちまうぞ!」
「待ってよぉ!」

 質素で飾り気のない、しかし真新しい板張りの家が連なる、オストラの街。街の中央を東西に横切る大通りに向かって、多くの人々が新たな君主の姿を一目見ようと駆け出している。

 その人々の流れに逆らうかのように、一人の男が大きな背嚢を背負い、家路についていた。背嚢には、今日この街に逗留するであろう兵士達の幾人かを賄うのに十分なジャガイモや根菜、小麦粉が収められていた。

 男は日々の生活に精一杯で、前王朝に代わって新たに頂点に立った年若い君主の名を未だに覚えておらず、むしろ君主よりも自分の宿に泊まってくれる兵士達の方が、重要だった。妻が生きていれば自慢の手料理を振る舞い、兵士達により多くのお金を落として貰えただろうが、自分と娘の二人だけの今は、そこまで腕が及ばない。彼は諦めにも似た溜息をつきながら、家の角を曲がる。

 すると彼の目に、一人の若い男の姿が飛び込んできた。まだ成人にも満たない、少年の面影を残す若い男は彼に背中を向け、建てられてから日の浅い彼の宿屋を覗き込んで、中の様子を窺っている。彼は背嚢を背負ったまま若い男に近づくと、おもむろに声を掛けた。

「…お前、ペーターの所のロルフだな?ウチに何の用だ?」
「うわっ!?…あ、ヨセフおじさん、こ、こんにちわ…」

 ロルフと呼ばれた若い男は、ヨセフの声に飛び上がり、しどろもどろで挨拶を返す。ロルフが下を向いてボソボソと話す姿を、ヨセフは黙って見ていたが、やがて埒が明かないとばかりに大きな溜息をついた。

「…ノーラを探しているのか?ちっと待ってろ…おーい、ノーラ!ロルフが呼んでるぞ!」
「ヨセフおじさん!?ちょっと待っ…!」
「お父、何か呼んだ?…あ、ロルフ…どうしたの?」

 家の中からぱたぱたと言う足音が聞こえ、やがてノーラが顔を出す。彼女はロルフの姿を認めると途端にしおらしくなり、二人は互いにチラチラと相手の様子を窺っている。その煮え切らない二人の態度にヨセフが内心でイライラしていると、やがてロルフが顔を赤らめながら、ノーラに詰め寄った。

「ノ、ノーラ!もうすぐ聖母様がそこを通るんだ!一緒に聖母様のお姿を見に行かないか!?」
「え?…で、でも、これから仕込みの手伝いが…」
「…え…そ、そう…」

 ロルフの言葉にノーラは一瞬明るい表情を見せるが、すぐに申し訳なさそうに頭を下げる。釣られてロルフまでしょげ返るのを見たヨセフは、舌打ちを堪えながら二人の背中を押した。

「ノーラ、仕込みなら俺がやっておくから、行って来い」
「え?いいの、お父?」
「見たらすぐに帰って来るんだぞ?」
「う、うん。お父、ありがとう!」
「ありがとう!おじさん!」

 二人はヨセフに勢い良く頭を下げると、手を取り合って人混みの方へと駆け出して行く。その二人の後ろ姿を眺めながら、ヨセフは思う。

 ロルフは、確か三男坊だ。家業を継ぐ事もないから、きっと入り婿も承諾してくれるだろう。



 かつての賑やかな我が家を懐かしみつつヨセフは背嚢を床に下ろし、外の喧騒を聞き流しながら、一人で黙々と仕込みへと取り掛かった。
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