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第13章 忘恩の徒

242:即位

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「コルネリウスよ、まさかこの様な形で、貴殿と雌雄を決する事になろうとはな」
「その言葉、そっくりそのまま返すぞ、フリッツ」

 二人の偉丈夫は、対峙する相手の目を見据えたまま、獰猛な笑みを浮かべる。二人の体から立ち昇る覇気が周囲に渦を巻き、張り詰めた空気がその場から逃げ出すかのように、二人の間を季節外れの突風が駆け抜けて行く。

 その突風が通り過ぎた直後、二人はまるで空いた空間に吸い寄せられるかのように距離を詰め、相手に襲い掛かった。フリッツの木剣が唸りを上げてコルネリウスの頭めがけて振り下ろされ、下から振り上げられたコルネリウスの木剣と衝突し、破壊的な打音が響き渡る。二人は、互いの木剣が織りなす格子の向こう側に浮かぶ相手の顔を睨み付け、そのまま相手の木剣を破砕せんとばかりに力を籠める。

「耄碌したものだな、コルネリウス!貴殿の剣が此処まで軽くなっているとはな!」
「貴方こそ、ぬるま湯に浸かり過ぎて、牙を抜かれたのと違うか!?」
「ぬかせ!貴殿こそ、最近随分と鼻の下が長くなったのではないか!?」
「言わせておけば!」

 格子越しに飛び交う罵詈雑言の応酬を経て、互いの木剣が甲高い音を立てて離れる。二人は目を剥いて相手を睨み付けると、木剣を振りかぶり、雄叫びを上げながら相手に向けて振り下ろした。



「「ミカの父親に一番相応しいのは、この私だああああああああああああああっ!」」



「二人とも、止めなさあああああああああああああああああああいっ!」

 突然、横合いから割り込んだ鈴の音を思わせる高い声が、二人の闘気を吹き飛ばす。二人が鍔迫り合いの状態で硬直してしまった体に鞭を打ち、声のした方へと振り向くと、艶やかな黒髪をなびかせた一人の少女が拳を振り上げ、駆け寄って来た。

「お父さん達、一体何をやっているの!?二人とも怪我をしたらどうするんですかっ!?」
「い、いや、ミカ。これは、ふざけているわけではなくて…」
「そ、そうだ、ミカ。どちらが君の父親に相応しいかを決める重要な戦い…」
「つべこべ言わずに、二人ともそこに直って、剣を下ろす!」

 胸元の高さから二人の顔を見上げ、まくし立てる少女の剣幕に、男達は不承不承の思いで剣を下ろす。

「いいですか、お父さん達!お二人とももうお年なんですから、間違いが起きないとも限らないじゃないですか!?危ない事は、止めて下さい!」
「いや、ミカ、私はこれでもエーデルシュタインの大将軍だった男だぞ?万が一つにも間違いなどあろうはずが…」
「何か言いましたか、『コルネリウス様』!?」
「いや、何も」

 人差し指を前後に振りながら目くじらを立てる少女に対し、コルネリウスが抵抗を試みるが、眼光と共に放たれた一言の前に、口を噤む。そのまま頭を下げ、娘の叱責を受ける二人の姿に、テオドールが失笑した。

「あの二人ときたら、御使い殿の父親としての自覚が足りないんじゃないのかねぇ?なぁ、ヴィルヘルム殿?」
「まったくだ、テオドール殿。それに引き替え、私達の娘の何と勇ましい事。これなら当代随一の女帝も、夢ではありませんなぁ」

 ティーカップから立ち昇る紅茶の香りを楽しみながら笑みを浮かべるヴィルヘルムの視線の先で、美香が頭を掻きつつ皆の許へと戻って来た。

「まったくもう、お父さん達ったら、何を考えているんだろう…」
「お帰りなさい、ミカさん」

 戻って来た美香は空いている椅子に腰を下ろそうとするが、アデーレが美香の手を取り、自分の許へと引き寄せる。

「お、お母さん!?そろそろ、お母さんの上に座るのはお終いに…!」
「あら、ミカさん。なら、どのお父さんの膝の上がいいのかしら?」
「お母さんがいいです」

 アデーレの問いに美香は観念し、大人しくアデーレの膝の上に腰を下ろす。背中越しに回されたアデーレの手に羞恥を覚え、俯いてしまった美香の耳に、ヴィルヘルムの声が聞こえて来た。

「それでコルネリウス殿、貴公はもう西部に出立されるのか?」
「いや、まだだ、ヴィルヘルム殿。軍はホルストとユリウスが率い、すでに出立している。私は慰霊祭と政権樹立を見届けた後に、合流する予定だ」

 戻って来たコルネリウスが、タオルで汗を拭いながらヴィルヘルムに答える。昨年の内乱で荒廃し、権力の及ばなくなったオストラ周辺の制圧に向け、コルネリウスは首都に駐屯していた兵7,000と旧懲罰軍15,000を合わせた22,000を動員した。ユリウスと共に軍を率いるホルストは旧懲罰軍の司令官だった男で、現在はコルネリウスの指揮下に入っている。コルネリウス不在の間の首都防衛は、フリッツが率いて来た、美香の親衛部隊6,600が担当する予定である。

 ちなみに此処まで何もしていない様に見えるテオドールだが、美香の擁立に支持を表明した後、ヴェルツブルグに大量の食料を送り込んでいる。これにより首都周辺の食料事情の改善は勿論、西部治安回復の派兵に必要な食料を補って余りある程の備蓄が、ヴェルツブルグに積み上がった。

 お尻にアデーレの温もりを感じながら、美香はこの先の事を思って身を固くする。数日後、自分はこれまでとは全く違う存在となるのだ。



 ***

 ロザリアの第6月5日。雲一つない青空の下、ヴェルツブルグの北西部に位置する王城の跡地には、多くの人々が集まっていた。

 あの災禍から半年近くが経ち、死の象徴としてそびえ立っていた王城の残骸はすでに無く、跡には広大な更地だけが広がっていた。数千に及ぶ人々は皆厳粛な面持ちで整然と並び、小さな丘を眺めている。

 かつての王城の堀が背後を横切り、堀に蓄えられた水が太陽の光を浴びて燦々と輝く丘の上に、一つの大きな慰霊碑が建立されていた。その慰霊碑の前で一人の黒髪の少女が俯いて両手を合わせ、死者の冥福を祈っている。

 陛下、クリストフ殿下、そしてお亡くなりになられた多くの皆さん。どうか安らかにお休み下さい。

 慰霊碑の前で頭を下げたまま身じろぎもしない少女の後姿を、フリッツ達は丘の下に並んで静かに見守っている。やがて少女が頭を上げ、慰霊碑に背を向けて階段を降りて来ると、フリッツが進み出て、少女の足元で膝をついた。

「御使い様。此度の災禍によって先王陛下が身罷みまかられ、跡継ぎであった王太子殿下もその後を追いました。この国は指導者を失い、国民は皆路頭に迷っております。御使い様、どうか王家に代わってこの国の頂点に立ち、私達をお導き下さい」

 足元でかしずき、首を垂れたまま口上するフリッツに対し、少女は静かにかぶりを振る。

「いいえ、フリッツ様。私は何の身寄りもない、一介の娘。その様なお申し出は、あまりにも畏れ多く、とてもお受けするわけには参りません」

 少女の辞退に、コルネリウスが前に進み出て、フリッツと並んで膝をつく。

「御使い様。この国は、ガリエルの尖兵たるハヌマーンによって蹂躙され、滅亡の危機を迎えました。しかしながら、御使い様のお力によってヴェルツブルグは絶望から解放され、人々は歓喜の声を上げております。ハヌマーンさえも従えて和平への道を開き、私達に再び希望をお与えになった御使い様、どうか王家に代わってこの国の頂点に立ち、私達をお守り下さい」

 足元で傅き、首を垂れたまま口上するコルネリウスに対し、少女は静かに頭を振る。

「いいえ、コルネリウス様。私はまつりごとの何たるかを知らない、無知な女です。その様なお申し出は、あまりにも身に余る事、とてもお受けするわけには参りません」

 少女の否定に、ヴィルヘルムが前に進み出て、フリッツ達と並んで膝をつく。

「御使い様、遥かいにしえの時代にお生まれになられた、この世界に生きる全人族の母よ。今私達人族は、あなた様の恩恵を受け、この中原と言う世界で大きく繁栄しております。私達は皆、あなた様からいただいた生命いのちと、希望と、愛を胸に、今日と言う日を生き、明日と言う未来、そして子や孫へと繋いでいるのです。御使い様、どうか王家に代わってこの国の頂点に立ち、『子供達』の日々の営みを、その高みから見守り下さい」

 そうヴィルヘルムが口上を終えると、背後に並ぶテオドール、アデーレ達も次々に膝をつき、少女に向かって首を垂れる。その動きは瞬く間に広がり、やがて王城跡に並ぶ全ての者が少女に向かって膝をつき、首を垂れた。



 三辞三譲さんじさんじょう



 古代中国において、王朝交代の際に繰り返し行われた、象徴的な儀式。美香は目の前に広がる、様々な色の髪で彩られた斑模様の平原を見渡し、ゆっくりと口を開く。

「…私に対する余りにも過分なお申し出ではございますが、三度みたび皆様から求められ、これ以上お断りするのは、とても心苦しい。誠に不本意ではございますが、皆様のお申し出を謹んでお受けさせていただきます」

 そう答えた少女は、彼女に向かって跪く数千人の人々に向かって、深々と頭を下げた。



 美香はゆっくりと頭を上げ、目の前に広がる光景をもう一度眺める。人々は未だ跪き、首を垂れたままとなっており、何人かは美香の言葉に答えるかのように、頭が上下に揺れていた。

 よし、何とか無事に終わった。

 この日の最大の山場を越え、安堵の息をついた美香の目の前でアデーレが立ち上がり、美香の前に進み出る。前面に並ぶフリッツ達三人が立ち上がって脇に下がり、アデーレが美香の正面で再び跪いた。

「陛下、私どもの願いをお聞きいただき、誠にありがとうございます。これより国民一同、陛下に忠誠を誓います事、国民を代表し、此処に宣誓いたします。なお、この場をお借りし、国民一同の名の下、陛下に対し、これまでの感謝とこれからの忠誠の証といたしまして、称号を贈らせていただきます。どうか、お受け取り下さい」

 え?

 奏上を聞いた美香は驚き、目の前で跪くアデーレを見る。そのアデーレが顔を上げ、茶目っ気たっぷりにウインクするのを見た美香は、慌てて後背に並ぶ人々へ視線を向け、その中で舌を出しているレティシアの笑顔に、狼狽する。

 え、ちょっと待って!?そんな話、聞いてないんだけど!

 厳粛な式典の中で突如訪れたサプライズに、美香の思考が停止する。彫像と化した美香の姿を見て、アデーレが笑いを堪えながら、宣誓した。



「――― 聖母ミカ様!私達は陛下の血を引く『子』として、『母』たる陛下にこの称号を捧げ、国を挙げて御恩返しさせていただく事を、此処に誓います!」



「「「聖母ミカ様、万歳!」」」
「「「万歳!万歳!万歳!」」」

 アデーレの宣誓と共にフリッツやコルネリウスが万歳を唱えると、その声は瞬く間に広がり、人々は次々に立ち上がって拳を突き上げ、聖母の名を唱え、万歳を繰り返す。慰霊碑の向こう、堀の向こう側にも多くの市民達が駆け付け、美香に向かって歓呼の声を上げている。

 ただ一人、美香だけがあんぐりと口を開けて呆然とする中、人々の盛大な歓喜が王城の跡地に木霊していった。



 こうして、コジョウ・ミカを始祖とする新王朝、「聖王国」が誕生する。

 この時代には極めて珍しい、女性にも王位継承権のある王朝であり、女性の場合は「聖女」、男性の場合は「聖王」を名乗った。特に始祖のコジョウ・ミカは別格として「聖母」と呼ばれ、後に神格化して、聖王国を天上から照覧する姿を描いた絵画が数多く残された。



 ***

「まったく、もう!何で私が『お母さん』になっちゃうんですか、お母さん!?」
「あら、だって本当の事じゃない、ミカさん」

 一連の行事が終わり、ようやく気を許せる家族だけの時間を持つ事ができた美香は、レティシアと手を繋ぎ、ぷりぷりしながらディークマイアーの館を歩いて行く。傍らにはアデーレが並び、美香に手を回して自分の許に引き寄せながら、優しく頬を撫でていた。美香は膨れっ面のまま頬を染め、アデーレに引き寄せられたまま身を摺り寄せ、頬から伝わる母の温もりを感じていた。

 やがて美香の部屋の前に到着すると、アデーレは腰を屈め、美香の頬にキスをする。

「じゃあ、ミカさん、お休みなさい。明日も大変だけど、もう少し我慢してね」
「はい、お母さん、お休みなさい」

 美香がアデーレの頬にキスを返すと、アデーレは笑顔で立ち上がり、自室へと戻って行く。その後ろ姿を見送る美香にレティシアが声を掛けた。

「それじゃ、ミカ。明日は早いし、私も部屋に戻るね。お休み、ミカ。良い夢を」
「うん、ありがとう、レティシア」

 そう答えた美香にレティシアが顔を寄せ、二人はそのまま唇を重ねる。やがてレティシアが美香から離れると、彼女は振り返って手を振りながら、隣接する自室へと戻って行った。



 レティシアの姿が扉の中に消えると、美香は手を下ろし、自室へと入る。部屋の中にはカルラが居て、戻って来た美香の顔を見て微笑んだ。

「お疲れ様でした、ミカ様。お休み前に何か、お飲みになられますか?」
「ううん、大丈夫、カルラさん。明日早いので、今日はもう寝ますね」
「畏まりました」

 美香の遠慮の言葉に、カルラは規律正しく頭を下げる。そして、ベッド脇に置かれた籐の籠を取ると、振り返って美香に声を掛けた。

「ミカ様、お召し物を洗濯いたしますので、お着替えをなさって下さい」
「あ、はい、わかりました」

 カルラの言葉に美香は頷き、ベッドへと歩み寄る。ベッドの上には、カルラが用意してくれたネグリジェが、綺麗に畳んだ状態で置かれていた。美香は服を脱いでネグリジェを手に取り、カルラの視線を背中に感じながら袖を通す。

「…はい、カルラさん。何かいつもお願いしてばかりで、すみません」
「いいえ、お気になさらないで下さい、ミカ様。これが私の仕事ですから」
「それじゃあ、お休みなさい、カルラさん」
「はい。それではお休みなさいませ、ミカ様」

 美香が着ていた服を手渡しながら頭を下げると、カルラがにこやかに微笑む。そして籐の籠に服を入れると、頭を下げ、籠を抱え部屋を出て行った。



 カルラが居なくなると、美香は燭台の炎を消し、ベッドへと潜り込む。美香は真っ暗な天井を眺めながら、呟いた。

「聖母…か…」

 何の因果か、夢物語でしか聞いた事のない存在に、自分がなってしまった。美香はこれまで歩んで来た道のりを振り返り、そしてこの先の行く末を想像する。いくら実権を手放したお飾りであっても、しがらみは必ず付いて来る。それに、皆からお飾りとしての期待を寄せられている以上、その期待に見合うだけの輝きを放たなければならない。今更ながら緊張を覚えた美香は、思考を振り払って目を閉じ、寝返りを打った。

 …ん?何だろう?

 美香は布団の中に顔を埋めて鼻をひくつかせ、記憶の箱を掻き回す。やがて答えを得た美香は安堵し、目を閉じたまま微笑んだ。



 …わかった。…これ、カルラさんの匂いだ…。



 正体を知った美香は安心して布団の中で丸くなり、ネグリジェから漂う親しい家族の匂いに包まれながら、押し寄せる深い眠りに身を委ねていった。
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