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第13章 忘恩の徒

240:道化師を夢見て(2)

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「この、馬鹿者が!」
「うっ!」

 装飾に彩られた男の手が少年の頬を捉え、そのまま払いのけられた少年が床に転がる。男は、床に横倒しとなった樽の様に這いつくばる少年を睨み付け、罵声を浴びせた。

「テオドール、貴様はこの大事な時期に、何をしているんだ!?来月には公爵家との婚約のお披露目も予定されているこの時期に、よりにもよって馬丁の娘などに手を出しおって!しかも、聞けばすでに身籠っていると言うじゃないかっ!」
「え!?ヘレナが!?」
「何だ、そのヘラヘラした顔は!?少しは反省しろ!」
「あぐっ!」

 怒声と共に父親から浴びせられた情報に少年が一瞬顔を綻ばせるが、直後に父親の蹴りを腹部に受け、悶絶する。床に蹲ったまま咳き込む達磨を見て、男は口を歪め、舌打ちをした。

「まったく、頭だけはまともだと思っていたのに、こんな醜態を晒しおって…。ケヴィンも最近言動がおかしくなっているし、もしや当家は呪われているのではないか…?」
「げほっ、げほっ」

 蹲ったままの少年を眺めながら、男は顔を顰める。やがて男は諦めにも似た溜息を吐くと、吐き捨てるように少年に命じた。

「いつまで寝転がっているつもりだ?テオドール。明日は、ヴェルツブルグへ出立する日だ。お前はそれまで、部屋の中で反省していろ」



 ***

「ヘレナ!」

 2ヶ月近いヴェルツブルグでの生活を終え館へと戻って来た少年は、父親の目を盗んで厩へと駆け込む。しかし厩の中に探し求める少女の姿はなく、一人の中年の男が藁を束ねていた。

「あれ、坊ちゃん?お帰りになられたんですかい?」
「教えてくれ!ヘレナは、何処!?」

 男は少年に肩を掴まれ、前後に揺さぶられながら答える。

「あ、坊ちゃんとは入れ違いでしたね。ハイン家の父娘なら、急に故郷くにに帰らなければならなくなったって、先月出て行きましたよ?…良い腕の持ち主だったのに」
「え!?故郷くにって何処!?」
「さぁ?私はそこまで聞いてませんで」
「そんな…」

 少年は男の言葉を聞いて、呆然と立ち尽くす。少年の拘束から逃れた男は、棒立ちする少年をそのままにして自分の仕事を再開しつつ、話を続けた。

「それにしても、旦那様は気難しい方ですが、こういう時はお優しいですなぁ。急に帰る事になった彼らに、これまで働いた礼だと言って、ちゃんと支度金を用意してくれるんですから。ああいう姿を見せられたら、私らも頑張らねばと思いますわ…あ、忘れてた!」
「父上が…?」

 藁を束ねていた男が立ち上がり、慌てて厩の奥に走って行くのにも気づかず、少年が後ろを振り返り、木々の向こうに顔を覗かせる邸宅を眺める。やがて奥から戻って来た男が、外を眺める少年の背中に声をかけた。

「坊ちゃん、うっかり忘れていました。これ、ヘレナからの預かりもんですわ」
「…ヘレナから?」

 男の言葉に少年は慌てて振り返り、男の手にある物をひったくって目の前に広げる。それは、拙い文字が書き連ねられた、一片の使い古された布切れだった。



 ――― 坊ちゃん、笑顔ですよ、笑顔。私は、坊ちゃんの笑顔が、大好きです!



「…ヘレナ…君は最後まで、僕を子供扱いするんだな…」
「坊ちゃん?大丈夫ですかい?」

 男が心配そうな表情を浮かべる中、少年は布切れを手で掴み、袖口で目元を擦りながら、男に頷きを繰り返していた。



 ***

 少年は、34歳になった。

 彼は病床の父親から数多くの小言と共に家督を継ぎ、当主となった。2歳下の弟は薬物に溺れ、父親よりも先にこの世を去っている。彼はプライドが高く浪費癖の激しい公爵家の娘と離婚し、ローデンヴァルド男爵家の娘を新たに妻として迎えていた。



 その日、彼の耳に、騎士達の立ち話が聞こえて来た。

「最近、3号厩舎の馬がめっきり良くなったなぁ」

 彼は首を突っ込み、騎士達の話を聞く。彼自身は馬にも満足に乗れないが、伯爵家の当主として馬の重要性を知り尽くしている。彼は興味を覚え、3号厩舎の馬丁と会ってみる事にした。



 彼の目の前に現れたのは、単なる馬丁とは思えないほど身の引き締まった、18歳の赤毛の男だった。聞けばハーデンブルグで馬の世話をしながら、見張り兵も務めていたと言う。彼は男の名を尋ね、続いて家族の事を聞いた。

「それで、ご両親は今、何をしているのだ?」

 彼に問われた男は視線を逸らし、ぶっきらぼうに答える。

「父はいません。母は産後の肥立ちが悪く、死にました」
「ふーん…」

 男の答えを聞き、彼は気のない返事をしながら鼓動の乱れを分厚い皮下脂肪で抑え込むと、男に提案する。

「君、どうだ。騎士になってみる気はないかい?」
「…え?しかし、俺は単なる馬丁の息子ですよ?」

 思わず顔を上げ、驚きの表情を見せる男に、彼は白い歯を見せた。

「何だ、君、知らなかったのか?ウチの騎士は、皆、馬丁上がりなんだ」



 その出まかせは、3日でバレた。



 ***

 赤毛の男は、馬丁の息子とは思えないほどめきめきと上達し、やがてミュンヒハウゼン騎士団でも有数の剛の男となった。彼は出自の卑しさを気にせず男を重用し、男もその期待に応えたが、いつまで経ってもその仏頂面を崩そうとはしなかった。彼は男を笑わせようと何度も試みるが、その都度男に叱られるのがオチだった。

「だから、テオドール様!あなたは何でそう、いい加減なんですか!?少しは付き合う方の身にもなって下さい!」
「そんな事、言ったってさぁ…」

 彼は、男の剣呑な眼差しから顔を背け、不貞腐れる。目の前の男を笑わせたいという彼の試みは、仏頂面としかめ面と額に浮かび上がる青筋の前に、ことごとく打ち砕かれた。

 やがて彼は痺れを切らし、男を喜ばせたい一心でとっておきの話をする。だが、その切り札でさえも、男には通用しなかった。

「…知っておりました」
「え?」

 予想外の言葉に、彼は目を見開く。あんぐりと口を開いたまま動かなくなった彼の前で、男は視線を逸らし、苦い表情を浮かべる。

「生前、祖父が口を滑らせたのです。お前の父は、さる高貴な御方だと。此処に来て、薄々感じておりました」
「…」

 男は視線を戻し、雪だるまと化した彼に向かって答える。

「テオドール様、今の話は忘れて下さい。奥様と、これからお生まれになられるであろう御子息様が、あまりにも不憫です。私は今の待遇で、十分に報われておりますので」
「…あ、そう…」

 男の言葉を聞いて彼は全てを諦め、以後、男の青筋を増やすだけの毎日が繰り返された。



 ――― だが、ある日突然、彼の下に、諦めていたものが飛び込んで来た。



 ***

「テオドール様!あの人は、素晴らしい方です!」
「…」

 4ヶ月近く留守にしていた男が彼の許に戻って来た時、彼は男の表情を見て呆然とする。そこには、彼がついに見る事の叶わなかった、男の笑顔が広がっていた。

 男は彼の許に足早に歩み寄ると、現地の報告をまくし立てる。その、日頃の抑揚の乏しい言葉とは打って変わって、熱を帯び、歯を見せ、身振り手振りを交えて嬉しそうに報告を続ける男の姿を、彼は信じられないものを見た様な顔で眺め、聞き入っていた。

 そして男は、彼の知らない男へと変貌していた。



 ***

 テーブルの上に並べられたティーカップがけたたましい音を立てて跳ね上がり、耳障りな楽曲を奏でる。ティーカップに楽曲を奏でさせた拳は、テーブルの上に据え置かれたまま微動だにしない。

 彼は皮下脂肪を総動員して表情筋を塗り固めると、気のない様子で男の顔色を窺う。

 男は彼の方を見ようともせず、誰もいないはずの前方を凝視していた。その顔には表情が何一つ浮かんでおらず、ただ体の中で渦巻く激情が顔面に開いた穴から漏れ出ないようひたすら堪えるだけの、無表情な姿だった。

 やがて男の努力が限界に達し、テーブルの上に置かれた拳が震え出したのを認めた彼は、男に対してつまらなさそうに尋ねる。

「…今、暇?」
「暇です」

 彼のいい加減な質問に、男は真っ赤に熱せられた3文字を残して館を飛び出すと、そのまま今日まで彼の許に戻って来なかった。



 ***

 彼はソファの上で前のめりになり、膝に手を乗せてしこを踏むような態勢のまま、目の前に広がる光景に魅入っていた。



 あの時と同じ、眩いばかりの暖かみ溢れる輝きが、赤から黒へと色を変えて再現され、彼の心を洗い流していく。少年を赤毛の少女へと駆り立てた笑顔が、赤毛の男に喜びと憧憬を齎した笑顔が、かつて道化師を志した男の目指した笑顔が、彼の下に惜しみなく降り注いだ。



「――― みんな、私の姿を見ただけで、笑顔になってくれるんですよ?ありがとうって、私に会えて良かったって、喜んでくれるんですよ?」
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