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第13章 忘恩の徒

238:動かぬ甕

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「…あの『甕』が?」
「ああ、フリッツ殿」

 思わず目を瞬かせるフリッツの前で、ヴィルヘルムが頷く。

 テオドール・ヨアヒム・フォン・ミュンヒハウゼン。ラディナ湖東岸に広がる穀倉地帯を有し、エーデルシュタイン有数の資産家でもある。また、その領土はヴェルツブルグとハーデンブルグを結ぶ北の大動脈の中央に位置し、軍事的にも経済的にも無視しえない勢力と言えた。

 だがフリッツも、ヴィルヘルムも、美香の擁立に当たってテオドールが阻害要素になるとは見ていなかった。確かにテオドールとの間に共同歩調を取るような盟約があるわけではなかったが、それでも昨年のハヌマーンとの戦いの際、彼は糧食や援軍をハーデンブルグへと送っている。そして、クリストフの求婚問題についても、表立ってハーデンブルグ側には立たなかったものの、麾下の兵を解散し兵に意志を任せる事で、結果的にハーデンブルグへと兵を送った。その一連の行動から見る限り、テオドールは美香に対して好意的な立場に居ると見られていたのである。

 だがフリッツ達の読みは外れ、テオドールは美香の擁立への態度を保留した。ヴィルヘルムが、テオドールの言葉を代弁する。

「テオドール殿の答えは、こうだ。『当家の支持をお望みなら、是非御使い殿から直接お言葉をいただきたい。自分は肥満で動けない。ご面倒だが、当家まで御足労いただけないか』とな」
「「…」」

 ヴィルヘルムの言葉に、フリッツとコルネリウスが揃って腕を組んで考え込む。明確な敵対の意思は感じられないが、明らかに美香に対して何かしらの影響力を画策している口ぶりである。だが、だからと言って、こちらが反発するのもはばかられる。

「ミカ、どうする?」

 フリッツの問いに、美香は頷いた。

「構いません。私がテオドール様のところに、お伺いします」



 ***

 ロザリアの第4月の下旬を迎え、沿道の両脇に広がる畑には麦の収穫を終えた後の大豆が生い茂り、秋の収穫を待ち侘びている。照りつける日差しの中で美香は馬車に揺られながら、何処までも広がる緑を眺めていた。

 美香は、ヘルムート率いるミュンヒハウゼン傭兵団3,000に護衛され、ミュンヒハウゼン伯爵領へと向かっていた。同行者は、ヴィルヘルム、レティシア、オズワルド、ゲルダ、そしてカルラとマグダレーナ。フリッツとコルネリウスは、建国の準備と西部の治安回復のため、ヴェルツブルグに残った。

 やがて進行方向に、四方を白い街壁に囲われた大きな街が見えてきた。ラディナ湖東岸に広がる平野部の中央に位置し、周囲を穀倉地帯に囲まれたミュンヒハウゼン伯爵領都は、まるで緑の海に浮かぶ白い箱舟を思わせる。美香は、この世界では大きい部類に入るこの街でさえも箱舟のように思えるほど広大な平野に、思わず溜息をついた。

 一行は街門へと到着し、さしたる時間もかからずに通行許可を得ると、街の中へと入って行く。ヴェルツブルグやハーデンブルグと異なり、塔や高い建物が少ないが、その分広大な土地を贅沢に使って建物は横に広がり、その中で多くの人々が作業に勤しんでいる。穀物倉庫が整然と並び、小麦粉を詰めた袋を乗せた荷馬車が、数多く行き交っていた。



「ミカ様、お疲れでございましょう。此処がミュンヒハウゼン伯爵家当主、テオドール・ヨアヒム・フォン・ミュンヒハウゼンの館でございます」
「ありがとうございます、ヘルムート様」

 馬車の扉を開けたヘルムートが手を差し伸べながら紹介し、美香はヘルムートにエスコートされ、馬車を降りる。顔を上げた美香の目の前には、ミュンヒハウゼン伯爵家の壮麗な建物が広がっていた。

 白を基調とした壮麗な館を見上げながら美香が感嘆していると、隣に並んだヴィルヘルムが顎に手を当てて呟く。

「出迎えがないな…。私の時には、此処まで出向いてくれていたのだが…」
「こちらの出方を窺っているのかも知れませんね」

 ヴィルヘルムの言葉に、レティシアが答える。後ろで眉を顰めるオズワルド達に向かって、美香が釘を刺した。

「別に敵対しているわけでもありませんし、こちらがお邪魔するのですから。細かいところで目くじらを立てないで下さいね?」
「…わかったよ、ミカ」
「そういう飾らないところが、アンタの一番の美徳だねぇ」

 美香の言葉にオズワルド達が苦笑し、一行はヘルムートの先導の下、屋敷へと入って行った。



 ***

「いやぁ、ヴィルヘルム殿、申し訳ない!今日はいつもにも増して体が重くって!このソファから体が離れんのですわ、ワハハハハ!」

 美香達が執事に通された部屋では、すでにテオドールがソファに座っていた。彼はまるでソファの上に置かれた甕のようにソファに埋もれ、斜め上を向いたまま闊達な笑い声を上げている。

 オズワルド達が内心で機嫌を急降下させながらも、賢明にも面に出さず背後に起立する中、美香とヴィルヘルム、レティシアの三人がテオドールの向かいのソファに座る。ヘルムートが、テオドールと美香の中間付近で同じく手を後ろに回し起立する中、テオドールが斜め上を向いたまま、下目使いで美香を眺める。

「…で、貴方が巷で『ロザリア様の御使い』と呼ばれている御方ですか?」
「はい。古城美香と申します、テオドール様。お初にお目にかかります」
「ふーん…」

 美香はソファに座ったまま、深々と頭を下げる。それに対しテオドールはソファに身を沈めたまま、下目使いで品定めをするかのように、美香の流れるような黒髪を眺めていた。場を取り持つかのように、ヴィルヘルムが間に割り込む。

「ミカ様は3年前にこの世界に召喚されて以降、一貫してこの国を救い続けた。初めはレティシア嬢の命を救い、次に北伐軍を、そしてハーデンブルグを、ヴェルツブルグを救い出してくれた。王家が権力争いにうつつを抜かし責務を放擲する中、彼女がただ一人、己を犠牲にして、ガリエルの魔の手から私達を守り抜いたのだ。
 我々は今、王家と教会を失い、暗闇の中で路頭に迷っている。このままでは各領主が私利私欲に走り、いずれ内乱へと発展するであろう。今、この国を纏める事ができるのは、ミカ様だけだ。我々が彼女の下で一致団結し、彼女を盛り立ててこの国を建て直す。すでに私が国内各地を巡り、ほとんどの領主の同意を得る事ができた。
 テオドール殿、貴公は昨年の内乱の中で、唯一、ハーデンブルグに兵を送ってくれた。聡明な貴公であれば、内乱が如何に無益で悲惨なものか、お分かりであろう。我々と共にミカ様を奉じ、この国の建て直しに協力いただけまいか。我々は今、人材に事欠いている。国内有数の経済力を持つに至った貴公の手腕を、是非この国の発展に役立てていただきたいのだ」
「テオドール様、お力添えの程、よろしくお願いします」
「…」

 ヴィルヘルムが口を閉ざすと、美香とレティシアが深々と頭を下げる。背後に立つオズワルドとゲルダも姿勢を正し、頭を下げる中、テオドールはソファに身を沈めたまま、黙って美香の頭を眺めていた。



 次第に沈黙が重苦しさを増す中、耐え切れなくなった一人の男が口を開く。

「…テオドール様!」
「…何だ?」

 テオドールが不貞腐れた顔を横に向けると、ヘルムートが焦れた顔で詰め寄っていた。

「テオドール様、一体何が問題なのですか!?常日頃のあなたであれば、計画性はないわ、いい加減だわ、適当に誤魔化すわで、良いところが何一つないですが、それでも判断だけは誤った事がないじゃないですか!何故、今回に限って、そこまで躊躇するのですか!?」
「ヘルムート、お前、客人の前で主君の悪口を並び立てるんじゃないよ…」
「今はあなたから給料をいただいておりませんので!お気になさらず!」

 がなり立てるヘルムートから逃げるようにテオドールが顔を背け、達磨の様な体の重心がずれて傾く。やがて彼は上に向かって噴水のように息を吐くと、正面を向いて口を開いた。

「…ヴィルヘルム殿、少しの間、御使い殿とサシで話をさせてくれないか?」



 ヴィルヘルムの視線を頬に感じながら、美香が首肯する。

「はい、テオドール様、喜んで」

 テオドールは頷き、ヘルムートが不満気な表情を浮かべながらも扉を開け、ヴィルヘルム達を外へと誘導する。レティシア達もヘルムートの後を追い、やがて部屋の中には美香とテオドールの二人だけが残された。

「…御使い殿」
「はい」

 少しの間、膨れ上がった腹の上で両人差し指をくるくると回していたテオドールだったが、拗ねた様な表情で口を開く。

「まずは、御礼を言わせてもらおう。先のハヌマーンの攻撃において、ハーデンブルグ並びに当家の兵士達を救っていただき、感謝の言葉もない。あなたが居なければヘルムートは勿論、私もこの世にいなかったかも知れない。ありがとう」

 そう答えたテオドールは、両腕を勢い良く振ってソファから起き上がると、そのまま前傾姿勢となって頭を下げた。

 頭を下げているというより、これから頭突きをしようと身構えている様にしか見えないテオドールの姿を見て、美香は軽く会釈をする。

「いえ、お気になさらないで下さい、テオドール様。私は、大した事をしているわけでは、ありませんから」
「それだよ、御使い殿」
「え?」

 意外な言葉に美香が顔を上げると、テオドールが前傾姿勢のまま、美香の顔を見つめていた。ソファに尻を預けたまま両膝に手をつき、まるで力士がしこを踏むような格好で、テオドールが尋ねてくる。

「私が腑に落ちないのは、そこなんだ、御使い殿。聞けばあなたは、フリッツ殿からの報奨の申し出を全て断っているというじゃないか。これだけの偉業を達成していながら、あなたは未だに邸宅も持たず、僅かな身の回りの物以外に自分の物を何一つ所持していない。教えてくれ、御使い殿。あなたは一体、何が望みなのだ?」
「…」

 テオドールの、日頃のちゃらんぽらんな態度とはうって変わった真剣な眼差しの先で、美香が視線を合わせたまま、小首を傾げている。やがて彼女は肩の力を抜き、柔らかく微笑んだ。

「…だって私、報奨をいただくような大それた事をしていませんから」
「これだけの人を救っているのにか!?」
「ええ」

 理解に苦しむテオドールの前で、美香が躊躇いもなく頷く。

「だって、私がやっている事と言えば、ついカッとなって、ぶっ放して、次に目が覚めた時には寝たきりなんですよ?何もしてないではないですか。それなのにみんな、手足が動かず、何一つできなくなった私のために四六時中つきっきりで介護してくれて。その上、本来私が御礼を言うべきなのに、逆に私が御礼を言われるんですよ?これ以上、御礼なんて、いただけないじゃないですか」
「…」

 開いた口が塞がらないまま目を白黒させるテオドールの前で、美香の言葉が続く。

「…それに、報奨ならすでに沢山いただいていますから」
「どんな?」

 食い入るように見つめるテオドールの前で、美香が眩いばかりの笑顔を浮かべた。



「――― みんな、私の姿を見ただけで、笑顔になってくれるんですよ?ありがとうって、私に会えて良かったって、喜んでくれるんですよ?」
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