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第12章 終焉

210:イヴ

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「…え?」

 真上から降り注いだロザリアの言葉に、美香は下を向いてスキャンシートに手を置いたまま、硬直する。美香の視線の先では、掌の下を青い線が三度みたび横切ったが、何の変化も起きなかった。下を向いたまま動きを止める美香の耳に、柊也の声が聞こえて来る。

「お、おい、ロザリア。それは、何かの間違いだ。古城は、俺と一緒に21世紀から連れて来られたんだぞ?その古城が人族のわけがないだろう?」

 美香がシートに手を置いたまま横を向くと、柊也が困惑の表情を浮かべ、上を向いてロザリアに尋ねていた。柊也の視線を追うように美香も上を見上げると、真上に掲げられたパネルが瞬き、ロザリアの発する言葉が美香の下へ滝の様に降り注ぐ。

『いいえ、マスター。間違いではありません。個体名コジョウ・ミカは、人類ではありません。人族です』
「ちょ、ちょっと待ってくれ、ロザリア。何故、古城が人族と判定されるんだ!?ちゃんと説明してくれ!」
『畏まりました、マスター』

 隣に立つ柊也の声が大きくなり、困惑から動揺へと変化する。美香はスキャンシートからゆっくりと手を離し、背後で騒めき始めたレティシア達にも気づかず、言葉の滝に身を打たれたまま、ただ上を向いて立ち尽くす。その美香の真上でパネルが光り輝き、冷たい言葉の刃が絶え間なく降り注ぎ、美香の体に次々と突き刺さった。

『西暦1万6000年代、ナノシステムの誤作動の原因を特定したMAHOの運営組織は、人族のルーツを追うべく、遺伝子調査を実施しました。多くの人族から遺伝子サンプルを入手し、その遺伝子が何処から来たものか、いつ頃発生したのか、その追跡調査を行ったのです。その結果、意外な事実が判明しました。
 ナノシステムの誤作動を引き起こす、幾つかの特徴的な遺伝子。これは、人族の存在がクローズアップされた西暦1万5000年代頃に登場したものでは、ありませんでした。それより遥か昔、MAHOの稼働はおろか、MAHOのコンセプトさえ提唱されていなかった21世紀初頭には、すでに存在していたのです。これらの遺伝子は全て、21世紀初頭、当時東アジアと呼ばれていた地域に生息していた一人の女性に端を発していました』
「…お、おい…まさか…冗談だろ…?」

 柊也の声が動揺から狼狽へと進化し、彼は恐れおののくように後ずさりする。美香は、ロザリアから降り注ぐ言葉の刃に体を切り刻まれ、指一本動かせなくなる。そして、壁に掲げられたパネルが瞬き、パネルから転げ落ちた、氷柱にも似た太く鋭い言葉の槍が、身動きの取れない美香の胸を貫いた。



『――― 個体名コジョウ・ミカ。彼女こそが西暦1万8000年代の人類社会の過半数を占め、西暦8264万4057年現在、世界で2800万まで生息数を減らした、という事になります』



 ***

 光り輝くパネルの前で一人の少女が言葉の槍に貫かれ、縫い付けられたままの姿を、誰もが呆然と眺めていた。彼らの目の前で、少女はその身に刺さった槍を抜こうともせず、まるで生きるのを諦め、博物館に並ぶ標本の如く動きを止め、その後ろ姿を晒している。

 やがて、その標本を眺めていた2人の観客が、力尽きて膝をつき、冷たい床の上に崩れ落ちた。標本と同じ、黒い髪と瞳を持つ大柄な男が唇を震わせて喘ぐように言葉を絞り出し、金色の髪を持つ少女が両手をつき、止まってしまった自分の肺に必死に力を籠める。

「…そ…そんな…」
「…ミ…」

 彼らの目の前で貫かれた少女は、彼らの「母」だった。紛れもなく「母」だった。かつてオズワルドは少女を「母」に例えた事があったが、それは誤りだった。比喩でも何でもなく、皮肉にも、本当に「母」だった。レティシアの、オズワルドの、フリッツの、アデーレの、リヒャルトやクリストフの、この世界に生まれた全ての人族の、「母」だった。

 逆だった。疑うべき点が、逆だった。何故、柊也が素質を得られなかったのか、ではなかった。何故、美香が素質を得られたのかを、疑うべきだった。



 動かない標本を前にして呆然と立ち尽くし、崩れ落ちた彼らの耳に、一人の男の声が聞こえて来る。

「…おい…ロザリア…答えろ。さっき、お前が言っていた、これがタイムスリップではないという根拠…あれは…まさか…」

 柊也が上を見上げたまま、後ずさりしていた。彼は絶えず震え、彼が発する言葉は慄いていたが、その芯には底知れない深淵が顔を覗かせていた。柊也の言葉に反応し、壁のパネルが瞬く。



『はい、マスター。マスター達の転移がタイムスリップではないという根拠。それは、個体名コジョウ・ミカの転移によって引き起こされると予想されていた、、という事を意味します』



「…奴か?」

 誰もが動きを止める中、柊也の口の端に乗って、暗闇が顔を覗かせていた。暗闇は怒りに身を震わせながら、ロザリアを追及する。

「…このプログラムを仕込んだのは、あの男か?…MAHOのトップだった、あの男か!?答えろ!ロザリア!」
『はい、マスター、ご指摘の通りです。この召喚プログラムの組み込みを指示したのは、Ver.162.9リリース当時のトップ、人類至上主義の男です』
「畜生っ!ふざけやがって!この糞野郎がぁ!」

 ロザリアの回答を聞いた柊也は、右腕で取り出した木刀を力一杯床に叩きつけ、喚き散らす。耳障りな音を立てて床を転がる木刀にも構わず怒声を上げる柊也に、ゲルダが恐る恐る尋ねた。

「お、おい、シュウヤ。何が起きたんだい?」

 ゲルダが声を掛けると柊也は動きを止め、やがてゆっくりとゲルダへと振り向く。その柊也の瞳の奥に広がる底なしの闇を前にして、屈強の戦士であるはずのゲルダの背筋が凍る。柊也の口から灼熱の暗闇が顔を覗かせ、ゲルダに語り掛けた。



「――― 俺達をこの世界に連れて来た、ロザリア教の召喚の儀式。あれは、この世界を救うためのものではない。この世界に住む全人族の滅亡を目論んだ、だったんだ」



「…シュ…」

 未だ呼吸ができず、床に手をついたまま喘ぐレティシアの耳に、ロザリアの説明が聞こえて来る。

『西暦1万7000年代末、技術の進歩によって人類はタイムスリップの実験に成功しましたが、未だ実用化にはほど遠く、膨大なエネルギーを消費しながら、過去の時代から任意の物体を引き寄せるだけの限定的なものでした。しかも、その実験結果については、タイムスリップに因るものか、時間軸の異なる並行世界から引き寄せられたものかの結論が、出ておりませんでした。
 Ver.162.9リリース当時のMAHOのトップであった人類至上主義の男は、このタイムスリップ技術をMAHOに組み込み、西暦1万6000年代に判明していたコジョウ・ミカの遺伝子情報をインプットしました。彼はこの実験結果がタイムスリップに因るものであると信じ、召喚プログラムによってコジョウ・ミカを引き寄せてタイム・パラドックスを発生させ、世界の改変によって人族を滅亡させる事を目論んだのです。
 このプログラムの稼働に必要なエネルギーは非常に膨大で、地球規模のエネルギーを運用するMAHOをもってしても十年以上の充填期間が必要でした。そのため、彼はこのプログラムの発動を見る事なくこの世を去りましたが、彼はこのプログラムに限って、人族に操作権限を付与しました。そして、世界大戦が勃発して文明が衰退するとプログラムは人族の手に渡り、救世主を召喚する儀式として発動を繰り返し、その都度コジョウ・ミカの遺伝子に近い人族が、時間軸の異なる並行世界から引き寄せられる事になります』



「…奴は…奴は…、もし古城を召喚できていたら、どうするつもりだったんだ?」

 柊也はロザリアのパネルを見ていなかった。彼は下を向き、肩で大きく息をしながら、床に向かって瘴気を撒き散らすように言葉を吐く。パネルが瞬き、柊也の神経を逆なでする。

『遺された彼のメモによると、コジョウ・ミカに不妊手術を施した後、ナノシステムに対する干渉についての人体実験を行う予定でした』
「糞がぁ!この、ど畜生があああああああああああああああああっ!」

 柊也は再び木刀を取り出し、怒声を上げながら繰り返し床に叩きつけた。最後に木刀を投げつけ、木刀が前方の壁に当たって跳ね返るのを無視し、パネルに向かって怒鳴り付ける。

「ロザリア!管理者権限をもって命ずる!その召喚プログラムを削除しろ!」
『はい、マスター。管理者命令を受諾。召喚プログラムの削除を実行…完了いたしました』

 柊也の声に応じてパネルが光り輝く中、パネルの前で少女を貫き縫い付けていた言葉の槍が溶け、少女が力なく床に崩れ落ちた。



 ***

 何も見えなくなった。何も聞こえなくなった。何も触れられず、何も感じられない。自分の目や耳、手足はあるのかも知れないけれど、そこからは何も得られず、美香は唯一人、誰も居ない暗黒の空間を漂っている。

 全てがいけなかった。全てが誤っていた。美香のこれまで行ってきた行為はおろか、行わなかった行為、あるいはこの先行うであろう行為、全てが誤りだった。彼女は、何をしても、何をしなくても、生まれた事も、存在した事さえも、誤りだった。彼女が生まれ、育ち、やがて結婚し、子を産み育てる。その全てが過ちであったと非難され、糾弾された。彼女が生きた時代から1万6000年を隔てた遥か未来からその存在を否定され、彼女が存在した事によって生じた全ての責任を追及され、地球規模の力を使うほど憎まれた。

「…わ…私…」

 私は、生まれてはいけなかった。私は、存在してはいけなかった。私は、誰かを好きになり、子を育んではいけなかった。私は生まれ存在した事を恥じ、その罪を償い、誰とも関わる事なく、何も遺す事なく、独りで消えるべきだった。彼女は五感を切り離された暗黒の世界を独り漂いながら全てを悔やみ、目に涙を浮かべながら世界に対して懺悔を繰り返す。

 その彼女の許へ、何処からともなく声が漂ってくる。

「…ち…が…」

 彼女は独りぼっちの暗黒の世界で膝を抱えたまま顔を上げ、漂う声を探し求める。来てはいけない。此処には、誰も来てはいけない。けれど、彼女の目は彼女の意思に反し、声の出所を求めて泳ぎ回る。

 暗黒の世界の中に一筋の光が射し、振り返った美香の目の先で、光を浴びた何かが蠢いた。

「…ち…がう…」

 一人の少女が、床に這いつくばったまま、少しずつ美香の許へと近寄っていた。少女は金色の髪を振り乱し、動かなくなった肺を酷使し、苦しそうに喘いで無様に手足を動かし、ゆっくりと美香の許へと近づいて来る。

「…ミ…カ…」
「…レ…」

 金色の少女の手が伸び、美香の頬を撫でる。私に触れてはいけない。私を呼んではいけない。美香の制止の言葉は少女によって払いのけられ、少女の温かな手が美香の頬を優しく包み、美香の目から大粒の涙が流れ落ちる。

「…あなたを、愛している…」

 金色の少女が顔を寄せ、未だ整わない息吹が美香の頬をくすぐる。私を愛してはいけない。私は愛されるべき存在ではない。美香の否定の言葉は少女の息吹に掻き消され、少女の腕が美香の背中へと回り、少女の温もりが美香の体へと染み込んで来る。

「…あなたは、愛されている…。私に、オズワルドに、ゲルダに、お父様やお母様に、そしてハーデンブルグの皆に…あなたは、皆に愛されている…」
「…ぁ…ぁぁ…」

 背中に回された金色の少女の手に力が入り、少女の鼓動と美香の鼓動が混ざり合う。私は、誰かを愛してはいけない。私は、誰かと人生を共にしてはいけない。美香の拒絶の言葉は二つの鼓動の狭間で崩れ去り、美香の視界を覆う暗闇に金色の光が射し込み、晴れ上がる。美香は再び輝く光の中に躍り出て、冷たい床の感触と、暖かい少女の温もりに覆われる。

「…ミカ…あなたに会えて良かった」

 金色の少女が顔を上げ、美香の眼前で涙に濡れた笑みが燦然と光り輝く。私は、此処に居てもいいのだろうか。私は、誰かに愛されてもいいのだろうか。美香の疑問の言葉は、惜しみなく降り注ぐ眩い笑顔の前に霧散し、美香の冷え切った心に火が灯る。

「…あなたと一緒に居られて良かった。あなたを好きになれて良かった。あなたが生まれてくれて良かった」
「…レ…ティシア…」

 少女の唇が珊瑚のように瞬き、紡ぎ出される言葉が美香の心に温もりを届ける。私は、あなたに愛されてもいいのだろうか。私は、あなたを愛してもいいのだろうか。美香の不安の言葉は、少女の唇から紡ぎ出され惜しみなく注ぎ込まれる愛の前に氷解し、美香の心を熱く焦がし、燃え上がらせる。

「ミカ…私は、あなたを誰よりも愛している。私は、いつまでもあなたの傍に居る。…だから…私と…この世界で…一緒に、生きて下さい!」
「レティシア…!」

 少女の言葉に美香は胸を打たれ、少女の背中に両手を回し激しく掻き抱く。この人は、いつも私の傍に居てくれた。この人は、いつも私の事を見ていてくれた。この人はいつも私の事を想い、気遣い、心配してくれた。そして、この人はいつも…私の事を愛してくれた。

 独りじゃなかった。私は、存在してもよかった。私は、生きていてもよかった。私は、愛されてもよかった。そして、その全てを、この人が…私に与えてくれた。

 だから…だから、今度は…私が…!

 美香は少女から体を離し、涙で滲む目の前で珊瑚色に輝く唇に向かい、溢れ出る想いを口にする。

「…レティシア、私もあなたの事を、愛している!」
「っ!…ミカ!…ぁ…ん…!」

 美香は思いの丈とともに少女の唇を塞ぎ、少女の言葉によって燃え上がった想いを少女へと送り返す。少女は美香の想いを余すことなく受け入れ、二人は舌の上で互いの想いを行き交わせる。

 円筒形の壁一面に掲げられたパネルが輝き、瞬きを繰り返す中、「母」と「娘」は床に座り込んだまま、長い間一つに重なっていた。
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