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第12章 終焉

205:残酷な現実

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「…え?」

 背中を向けて立つ隻腕の男に向かって放たれた美香の言葉は、意味をなさなかった。美香の口は持ち主の意思に反して動かなくなったが、脳細胞はその事実に気づけない。

 …え、何?此処、「ちきゅう」って言うの?「ちきゅう」って、何だっけ?

 美香は錆び付いた脳を動かし、目的の言葉を探し回る。しかし、手に取った単語は全て違うものばかりだった。



 地球:太陽系の第三惑星。人類をはじめとする多種多様な生命が生息する星。

 地球:金星の外側、火星の内側の軌道を巡る、豊富な水を湛えた太陽系唯一の星。

 地球:ラテン語でTerra、英語でEarthと表される。現在、生命の存在が確認されている唯一の星。



 違う。私が探している「ちきゅう」は、これじゃない。もっとこう、違う「ちきゅう」があったはず。

 美香の脳細胞は泣きながら記憶の箱を引っ掻き回すが、どうしても違う単語しか出てこない。美香の目は今や大きく見開かれ、何とか「ちきゅう」を見つけ出そうと、あるいは何処かに逃げ込む場所がないか探し回るかの様に、焦点の合わない瞳が宙を泳ぐ。

 違う。違う。違う違う違う!違わないと駄目だ!…だって…だって…違わないと…。

「古城」

 突然穏やかな声で名前を呼ばれ、美香は飛び上がった。いつの間にか、柊也が再び美香の方を向いていた。その顔に浮かんだ表情は、美香を気遣い、憂い、だが決して美香の想いを肯定するつもりのない、突き放そうとするものだった。美香は、先ほどまで噴き出ていた気持ちの悪い汗が一気に引いて蒼白になりながら、まるで巣立ちを促す親鳥に縋る雛の様に、震える手を伸ばす。だが、柊也は美香の期待に応えず、左腕を下に降ろしたまま、怯えた表情を浮かべる美香の目を見て、残酷な答え合わせをする。



「――― 月が、同じなんだ」



「…つ…き…?」

 宙を彷徨う手が止まり、錆び付いて軋みを上げる美香の口から、粘ついた2文字が転げ落ちる。美香の頭の中で記憶の箱へと手が伸び、震えながら一つの単語を掴み取った。



 月:ラテン語でLuna、英語でMoonと表される。地球の衛星。



 この世界に来てから、夜はほとんど出歩いた事がなかった。電気もなく、深夜に開いている店があるわけでもない。ゲームやテレビ、インターネット等、夜更かしできる娯楽もない以上、日が落ちて夜になれば早々に床に就くのが、この世界の常識だった。

 レティシアとのパジャマパーティに花が咲き、時折、夜更けに二人でベランダに出て、身を寄せ合いながら夜空を眺めた事があった。目の前に広がる星々は、日本と違い漆黒に塗りつぶされた地上の上で燦然と輝き、その雄大さに美香は圧倒された。美香は朧げな記憶を頼りに見知った星座を探したが、一つとして見つけ出す事はできなかった。その夜空の中に一つ、月に似た星が漆黒の夜空に丸く浮かび上がり、美香は故郷に似た夜空を眺めて昔を懐かしみ、その月にまつわるこの世界の伝承を思い浮かべていた。

 その月が、地球の月と同じだと言う。美香は恐る恐る後ろへと振り返るが、扉は固く閉ざされ、外に確認しに行く事ができない。確かにあの月は、よく似ていた。漆黒の闇の中で白や薄いクリーム色に輝き、その表面には特徴的な陰影が浮かび上がっていた。でも自分は、その中に月の兎を見つけ出す事ができなかった。兎は居なかったはずだ。

 美香は震えながら、ゆるゆると緩慢な動きで再び前を向く。動悸が早さと激しさを増し、喉がカラカラに乾く。

 美香の生まれた、文明の発達した地球とは全く異なる、魔物が闊歩するファンタジーの様な別世界。しかし馬や牛、人族と言った、地球と酷似した生き物が生息する世界。地球では空想でしかない魔法が存在し、だがその魔法に日本のルールが通じる、奇妙な因果関係。三姉妹の影に浮かび上がる、過去に存在していたと思しき人類の痕跡。1年が365日。そして、一つも星座を見つけ出せない夜空と、そこに浮かぶ月が同じ。

 そこから導き出される結論は、ただ一つ。

「…せ…!」
「ロザリア」

 美香は震える手を伸ばし、柊也を捕まえようとするが、柊也は美香の手を振り払うかのように背を向け、前方のパネルに向かって質問を投げかける。

「今日は、何日だ?西暦に換算してくれ」
「ま、待って!」

 柊也の問いに前方のパネルが瞬き、美香の耳に無慈悲な女性の言葉が響き渡った。



「はい。――― 本日は、西暦8264万4057年4月14日、土曜日です」



「「ミカ!?」」
「ミカ!しっかりして!」

 膝から崩れ落ち、冷たい床の上にへたり込んだ美香にレティシアが駆け寄って肩を掴んだが、美香は呆然としたまま、光り輝く前方のパネルとその手前に立つ隻腕の男の背中を眺めている。やがて、その唇が震えながら、力の無い言葉を紡ぎ出した。

「…なくなっちゃった…帰るトコ…なくなっちゃった…」
「ミカぁ!」

 レティシアが涙を浮かべ、掴んだ肩を激しく揺するが、美香の頭はまるで振り子の様にレティシアの揺さぶりに連動し、前後に揺れ動く。

 確かに、元の世界には戻れないと思っていた。この世界に召喚された直後、フランチェスコから突き付けられた言葉を前にして、そしてその後の3年間の生活を経て、自分はもう元の世界には戻れないのだろうと諦めては、いた。

 でも、たとえ戻れなくても、この宇宙の何処かに元の世界が存在していると思っていた。自分の手の届かない、遠い宇宙の彼方に地球と呼ばれる星があって、そこに父や母、祖父母、久美子達が居て、以前と変わらない生活を送っていると思っていた。いや、美香が居なくなった事で、以前と大きく変わってしまっただろうけれど。美香は心の中で詫び、せめて父母達が一日も早く自分が居なくなった事を受け入れ、落ち着いた生活を取り戻してくれるよう、願っていた。

 だが、そのささやかな願いさえも、打ち砕かれた。他の何処でもない、今美香が居るこの世界が、その地球だった。自分が生まれた世界から遥かに時代の下った、すでにかつての自分達が化石として掘り出される側となってしまうほど、悠久の時を経た未来の地球。父も、母も、祖父母も、久美子達も、全てが灰となり塵と化して微塵も残っていない、未来の地球。そこに美香と柊也、ただ二人だけが時代に取り残され、忘れ物の様に置いてきぼりにされた。



 もう、戻れない。本当に戻れない。だって…ないんだもの。



 ***

「つまり、俺達が巻き込まれたのは、異世界への召喚ではなく、タイムスリップという事だな?」
『より厳密に表現しますと、時間軸の異なる並行世界からの転移であろうと推測されます。マスター達がタイムスリップしていた場合に想定されるタイムパラドックスに伴う世界の改変が、確認されておりません』

 床にへたり込んで青白い顔で呆然と前を向く美香に寄り添い、必死に背中を擦るレティシアの耳に、柊也とロザリアの会話が聞こえて来る。レティシアは背中を擦る手を止め、恐る恐る柊也の方を向いて尋ねた。

「あ、あの…シュウヤ殿。一体、何が起きていますの?」

 レティシアの尋ねに、柊也はロザリアとの会話を中断し、ゆっくり後ろを向く。その、何の表情も浮かんでいない、理性によって塗り固められた目を向けられ、レティシアは思わず息を呑む。柊也が、静かに語り始めた。

「ロザリア教が行った召喚の儀式は、単なる異世界からの転移ではなかったんだ。俺達は、あなた方が生まれる遥か昔に生まれ、すでに死んでいるはずの、過去の人間なんだ」
「…え?」

 目の前に居る美香と柊也が、本来ならすでに死んでいるはずの、過去の存在。レティシアには理解が及ばず、ただ衝動的に質問を重ねる。

「…過去と言うと、どのくらい昔を指しておりますの?」

 レティシアは質問を発しながら、思考を繰り返す。自分が記憶する限り最も古い伝承は、あの三姉妹の神話。その中で登場するエミリアの森がガリエルの手に落ちたのは、7000年前と言われている。ミカ達が生まれたのは、それより前?それとも後?仮に前だとしたら、ミカ達は、あのエミリアの森で生まれ育ったのだろうか?必死に考えを巡らせるレティシアの耳に、柊也から解答が届けられる。

「ざっと、8200万年前」
「…は?」

 レティシアの思考が急停止し、彼女は思わず間の抜けた声を上げる。8200年前?…いや、その後ろに「万」とかいう単位がついてなかった?口を閉じられなくなったレティシアを捨て置き、柊也は再び前方のパネルへと顔を向ける。

「ロザリア、教えてくれ。21世紀から今日こんにちに至るまでの間、地球に何が起こっていたのか。君達は、一体何者なのか。教えてくれ」
『畏まりました、マイ・マスター。ご質問にお答えします』



 前方のパネルが瞬き、この世界のことわりがロザリアによって、ついに明らかになる ―――。
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