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第11章 劫火

194:逃避行

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「急げ、古城。時間がない」
「はい、先輩!」

 柊也は美香の腕を取って引き、ボクサーへと迎え入れる。通路を空け、美香とすれ違った柊也の耳に、彼の名を呼ぶ声が聞こえて来る。

「シュウヤ殿!お願いです!私も一緒に連れて行って下さい!」
「…レティシア様?」

 柊也が背後を振り返ると、後部ハッチに手をついたレティシアが、悲壮な覚悟を浮かべ柊也を見上げていた。柊也は頷き、レティシアに手を伸ばす。

「ええ、どうぞ、レティシア様。急いで下さい」
「ありがとう、シュウヤ殿!」

 柊也の言葉を聞いたレティシアの顔に一瞬花が咲いたが、慌てて表情を引き締めて柊也の手を取り、初めて見るボクサーに臆す事なく果敢に乗り込む。腕に力を入れ、レティシアを引き上げる柊也に、続けざまに呼び声がかけられた。

「君、すまない!私も連れて行ってくれ!」
「アンタ、アタシも連れて行っておくれよ!必ず、アンタの役に立ってみせるよ!」

 柊也と同じ、この世界では珍しい黒い髪と目を持つ大柄な男と、その男よりも体の大きな虎獣人の女が柊也の許に駆け寄って来ていた。ボクサーの収容人数は、最大で11名。まだ余裕はある。

「ああ、構わない。急いでくれ」
「恩に着る」
「ありがとよ、アンタ!」

 大柄な男女二人は次々に礼を述べ、ボクサーへと乗り込んで行く。柊也は、脇に寄って二人が中に入るのを待ちながら後ろを向き、背後に佇む一人の女性に声をかけた。

「カルラさん、あなたはどうしますか?」
「…いえ、私は此処に残ります」

 柊也に問い掛けられたカルラは首を横に振り、何かを堪えるように唇を噛んだ後、口を開く。

「私は家事しか能がない、単なる召使い。ミカ様とシュウヤ様が選ばれた逃避行では、私はきっと足手まといになるでしょう。…シュウヤ様、ミカ様の事をよろしくお願いします」
「…わかりました、カルラさん」

 カルラの答えを聞き、柊也は頷く。何にせよ、時間がない。自分で結論が出ているのであれば、蒸し返す必要はなかった。カルラがボクサーに駆け寄り、美香とレティシアに別れの挨拶を始めたのを余所に柊也は顔を上げ、フリッツに目を向ける。

「閣下、そういうわけで、彼女は私が攫って行きます。すみませんが、後は適当に話を合わせて下さい」
「…わかった。シュウヤ殿、娘達を頼む」

 正直、柊也を捕まえて山ほど問い詰めたいフリッツだったが、そんな暇がない事はわかっている。苦い薬を無理矢理飲み込むかの様に、言いたい事を喉元に押し込んでフリッツが後を託すと、柊也は頷き、何もない空間から拳銃を取り出す。そして、フリッツに銃口を向け、いきなり発砲した。

「ぐっ!?」
「あなた!?」
「貴様!何を!?」

 フリッツの肩口に真っ赤な花が咲き、アデーレが悲鳴を上げ、マティアスが剣の柄に手をかける。しかし、

「アデーレ、マティアス、待て!」
「あなた?」
「父上?」

 体に傷を負ったはずのフリッツから放たれた、明瞭な制止の声に、アデーレとマティアスが急停止する。フリッツは両脇の二人を無視し、柊也を詰問した。

「シュウヤ殿、これは一体、何の真似だ?」
「ペイント弾。単なる染料です。これで閣下は私に襲われ、負傷した事にして下さい。その染料は、5分後に消えます。申し訳ありませんが、それまでに自傷でもして下さい」
「…いいだろう。だが今回の件は、いずれしっかりと説明してもらうぞ?」
「ええ。それでは、閣下もお元気で。…古城、行くぞ。カルラさん、離れて下さい」
「はい、先輩。それじゃカルラさん、また」
「私も必ず後を追います。ミカ様、レティシア様、それまでお元気で…」

 慌ただしい別離の挨拶を済ませ、カルラがボクサーから離れると、柊也はスイッチを入れ、後部ハッチがゆっくりと閉まる。閉じゆく視界の向こう側では、苦虫の不味さに閉口したまま、口の端を釣り上げるフリッツが、柊也を見つめていた。



 ***

 ボクサーに乗り込んだ美香が目にした光景は、飾り気のない無骨なボクサーの内装と、そこに座る一人の女性だった。内装を見渡して宙を泳いでいた美香の視線はその女性へと吸い込まれ、思わず息を呑む。

 …何て、綺麗な人なんだろう…。

 女性は座席に腰掛けたまま、美香の事をじっと見つめていた。オズワルドに匹敵するほど長身で、肩口で切り揃えられた飾り気のない白い上着と濃茶のレザーレギンスに身を包んだだけの姿は、あまりにも魅力的で目が離せなくなる。長く美しい銀の髪を後で結い上げた頭部からは形良い三角形の耳が突き出ており、レギンスに包まれ煽情的な曲線を描く腰の脇から、毛並みの良い銀色の尻尾が揺らいで見える。白磁にも似た肌は、左腕に走る2本の大きな裂傷を除き染み一つなく、その美貌は思わず呼吸を忘れて見惚れてしまうほど。そして、切れ長の瞳に宿る光は、まるで太陽の様に灼熱の輝きを帯び、その視線を真っ向から受けた美香は、蛇に睨まれた蛙の様に動けなくなった。

 な、何でこの人、私をこんなに警戒しているの…?

「…あ、あの、私、古城美香と言います。お邪魔します」
「…シモン・ルクレール。よろしく」

 美香もレティシアも十分に美しい顔立ちをしているが、相手の女性は突き抜けている。その雰囲気に呑まれ、美香がおどおどとした調子で自己紹介をすると、女性は美香を真っすぐ見つめたままシモンと名乗り、笑みを浮かべた。その優美な笑みには、親愛の念より勝ち誇った雰囲気が漂っている様に思え、何故か癪に障る。美香は肚に力を入れ、シモンに疑問をぶつけた。

「あの、私、何か気に障る事をしましたか?」
「…いや」

 美香が相手の目を真っすぐ見て質問すると、シモンは静かに目を閉じる。そして再び目を開くと、そこには先ほどの様な癪に障る光はなく、ただ太陽の様な灼熱の輝きだけが残されていた。際立った美貌に相応しい、グラスを弾く様な透き通る声が響き渡る。

「気にしないでくれ、単なる自己満足だ」

 その言葉に、美香に対する悪感情は含まれていない。シモンの凛々しい姿に、レティシアが思わず溜息をついたところで、カルラの呼び声が聞こえて来た。

「ミカ様!」
「カルラさん?」

 美香は、ボクサーへと駆け寄るカルラの姿を認め、後部ハッチの隅にしゃがみ込んだ。駆け寄ったカルラは、美香の手を取って両手で包み、神に祈りを捧げるような姿勢で美香を仰ぎ見る。

「ミカ様、シュウヤ様との旅路は厳しく、私はきっと足手まといになるでしょう。私は此処に残り、ミカ様の吉報をお待ちします」
「カルラさん…」

 美香は自分の手を包むカルラの両手の震えを通じ、彼女の葛藤を知る。誰も彼も時間がなく、この一瞬で決断しなければならないのだ。美香はカルラの決断を尊重し、感謝の笑みを浮かべた。

「カルラさん、3年間ずっと私のお世話をしてくれて、ありがとうございました。カルラさんは、この世界で最初にできた、私の大事な家族です。お別れは、言いません。落ち着いたら、またずっと私の傍に居て下さい」
「ミカさ…」

 美香に家族と呼ばれ、感極まったカルラは片手を離して口を覆う。美香は、目を潤ませるカルラに慈しみの笑みを浮かべ頷いていたが、頭上から乾いた音が聞こえ、顔を上げるとフリッツの肩に赤い花が咲いていた。驚愕の表情を浮かべる美香に、柊也の声が聞こえて来る。

「ペイント弾。単なる染料です。これで閣下は私に襲われ、負傷した事にして下さい」

 ああ、そういう事か。柊也の説明を聞きながら、美香は安堵の表情を浮かべる。まったく、この人は、何事も一人で勝手に進めてしまう。

「古城、行くぞ。カルラさん、離れて下さい」
「はい、先輩。それじゃカルラさん、また」
「私も必ず後を追います。ミカ様、レティシア様、それまでお元気で…」

 2年半前の事を思い出してぷりぷりしてきた美香に柊也が声をかけ、美香は慌ててカルラの手を離す。しゃがんでいた美香の前にハッチの扉がせり上がり、美香の視界から大切な家族の姿が消えた。



 後部ハッチが閉まると、柊也は操縦席に向かって歩き出し、怒鳴り声を上げた。

「セレーネ、ボクサーを出せ!」
「はい!わかりました!」

 操縦席から若い女性の声が聞こえ、ボクサーが動き出す。柊也は上部ハッチに手をかけながら後ろを向き、美香達に声をかける。

「古城、隣のハッチから顔を出してくれ。残りの皆は、その辺の座席に座って大人しくしていてくれ」
「え?…あ、はい、わかりました、先輩」

 柊也の言葉に従ってレティシアやオズワルド、ゲルダが座席に座る中、美香は柊也の許へと歩み寄り、隣の上部ハッチから顔を出す。ボクサーはすでに速度を増し、この世界では考えられないほどのスピードで疾駆していた。ボクサーは中央軍を中心にして時計回りに迂回しようとしており、美香の視線の先では、中央軍がようやく我に返り、ボクサーに対して慌ただしく動き出している。

 横を見ると、一足先に上部ハッチから身を乗り出した柊也が何処から取り出したのか、拡声器を手にしていた。いや、「手にしていた」とは、比喩的表現。拡声器を持つ手は存在せず、拡声器が宙に浮いている。

「…先輩…それ、どういう原理で…」

 説明のつかない事態に美香が困惑しながら尋ねるが、柊也は美香に構わず、拡声器を掲げ、中央軍に向かって怒鳴りつけた。

『兵士諸君!私の名はジョーカーだ!貴様らが手に入れようとしていたロザリアの御使いは、この私がいただいた!悔しければ、この私を捕まえてみるがいい!クハハハハハハハハ!』
「ぶっ!ちょっと、先輩!何て事を言い出すんですか!」

 柊也の狙いに気づいた美香は思わず噴き出し、笑いながら柊也に詰め寄る。その美香に向かって柊也は意地の悪い笑みを浮かべ、宙に浮いている拡声器を手渡す。

「ほらよ、古城。連中に向けて、上手く悲劇のヒロインを演じてくれよ」
「もう、先輩ったら!私が大根役者だっていうの、知ってるでしょ!?」

 美香は頬を膨らませながら柊也から拡声器を受け取ると、髪の毛をなびかせながら中央軍に向かって声を張り上げた。

『皆さん!助けて下さい!私、悪い人に捕まって、このままでは…あああぁぁぁれぇぇぇ!』
「うっわ、ダッサ!」
「ダサい言うな!」

 台詞を聞いた柊也が心底嫌そうに顔を歪め、美香が笑いながら空いた手を叩きつける。

 もうヤダ、この人。

 上部ハッチから身を乗り出してはしゃぐ二人を乗せてボクサーは疾走し、中央軍は慌てて雪崩を打ち、後を追い始めた。



 ***

「…まったく、好き勝手かき回しおって…」
「父上?」

 フリッツは、土煙を撒き上げ急速に小さくなる鉄の馬車を眺めながら苦虫を噛み潰し、その場に座り込む。後ろを振り返ったマティアスに対し、フリッツが命じた。

「何をしている。マティアス、早いところ、肩口に傷を付けろ。私はこのまま倒れるから、この場を上手くまとめるんだ」
「…は、はい。父上、御免」
「ぐっ…!」

 フリッツの命令にマティアスが慌てて駆け寄り、フリッツを介抱する素振りを見せながら、フリッツの肩に短剣を突き立てる。フリッツが痛みに顔を歪め、アデーレとカルラがフリッツを介抱しながら短剣に付いた血を拭う。

 あまりにも突然の事で茶番としか思えないが、ここまでひっかき回された以上、便乗するしかない。それに、このまま柊也に全てを押し付ければ、美香の嫁入りは回避され、ハーデンブルグも追及から逃れられる。

「…シュウヤ、ミカを頼むぞ…」

 フリッツは大の字に寝転がり、肩の痛みに顔を顰めながら、青空を流れる足の早い雲に向かって呟いていた。
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