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第10章 エミリア

177:救いのない世界

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 サンタ・デ・ロマハから南へ馬車で2日。緑豊かな山あいの一角に、大きな石造りの建物が佇んでいた。

 建物は、のどかな周辺の風景と比べて場違いなほど堅牢で、外界の全てを拒絶するかのように高い石壁から成っている。壁の内側は中庭が敷地の半分を占め、残りの半分に、周囲を覆う石壁に貼り付くかのように、背の低い平屋が佇んでいた。

 南北に1箇所ずつある建物の入り口には小さな小屋が立ち、私兵と思しき数人の男達がいつまでも代わり映えしない風景に退屈した様子で、周囲を見張っている。一方、建物の中に兵士はおらず、数人の女中達が洗濯や掃除などの雑務に勤しんでいた。

 その建物の中で一番広い、豪奢な部屋の中で、一人の男が蒸留酒をグラスへと注いでいた。男は中年でその体は肥え太っており、ランタンの光を照り返すほど脂ぎっている。男は腰に巻いたタオルを除き、その醜悪な体を臆面もなく曝け出したまま、グラスに注がれる蒸留酒を注意深く眺めている。元々、男は毎日強い酒を浴びるように飲む習慣があったが、今年に入ってからは一日に飲む酒の量を一杯と決め、我慢する必要のない立場であるはずの男にしては珍しく、辛抱強くそれを守っていた。

 やがて、グラスの中で琥珀色に輝く液体を景気づけに一気に呷ると、男は体を揺すり、燃料を体の隅々まで行き渡らせる。これまで彼にとって酒は娯楽だったが、念願のモノを手に入れた今では、気持ちを昂らせるための単なる薬に成り下がっていた。いくら美味くても、飲み過ぎて本番で役に立たなくなっては、元もこうもない。

 男はバスローブを羽織るとソファから立ち上がり、テーブルの上に投げ出された鍵束を掴んで部屋を出て行く。本宅であれば執事や女中が男の前を先導し、男は大手を振って歩いていれば良かったが、此処では扉の開け閉めはおろか、施錠も全て自分でしなければならない。だが、それは男自身が決めた事だ。あの完璧なまでの起伏と流線を持つ肢体を他の男達の目に乗せる事等もっての外だし、女中達がアレの戯言に乗せられ、情が移っても困る。事実、女中達がアレの部屋を掃除する時でさえも男は立ち会い、女中達の一挙一動を監視していた。

 男は通路の突き当りにある部屋の前に立つと、鍵穴に鍵を差し込み、中へと入る。部屋は硬い樫の扉で二重に閉ざされており、男は外側の扉を開けると中へ入り、中から鍵をかける。そして、小部屋に隠された箱の中に鍵を仕舞うと内側の扉の閂を外し、部屋の中へと足を踏み入れた。

 部屋の中は広く、剥き出しの石の壁で覆われていたが、設えた調度品は高級な物が並んでいた。天井は開放感が感じられる程度には高く、部屋の中には小窓が幾つか開いており、中庭の風景が目に飛び込んでくる。部屋の中には体を洗う事ができる水場があり、また別の扉を開ければ、トイレと、中庭に出る事ができた。

 部屋の中には一つ、場違いなほどに大きく、豪奢なベッドが置かれ、その上には一人の若い娘が毛布で体を隠し、怯えた表情を男に向けていた。エルフの娘は、男が顔を向けると、震えながら色鮮やかな唇を開く。

「…ご、ご主人様…」

 男は娘の声を聞くと、大きく頷き、娘を安心させようと笑みを浮かべる。

「そうだ、良く言えたな。偉いぞ、リアナ」
「ひぃ…」

 男の渾身の笑みにも関わらず娘は身を竦め、薄い毛布一枚を盾に、男の侵入を拒もうとする。しかし、男はそんな娘の反応にも機嫌を損ねる事なく、鷹揚に受け流した。これでも娘は最近、ようやく自分の事を主人と呼ぶようになったのだ。その単語が齎す興奮と、これから娘が少しずつ自分を受け入れていくであろう、その過程を思えば、一時の拒絶反応など取るに足らない、些末事であった。

「さぁ、リアナ。お前のその美しい躰を、儂に見せておくれ」
「あぁ!お許し下さい、ご主人様!」

 男はゆっくりと娘の許に近づくと、娘が頑なにしがみ付く毛布を掴み、力尽くで引き剥がす。娘は僅かばかりの抵抗を見せるが、繰り返される日常に諦めているのか、毛布はあっさりと男の手に渡った。男は剥ぎ取った毛布をベッドの隅に放り投げながら、自分の下に広がる、眩いばかりの姿態に目を奪われた。

「あぁ、リアナ…今日も綺麗だ…」

 男は手を伸ばし、娘の首元で黒く光る首輪に指をかけ、恍惚とした表情を浮かべる。娘は薄い絹の服を身に纏っていたが、それは娘の躰を隠すためではなく、見る者の劣情を掻き立てるためだけに存在していた。男は息を荒げ、娘の全身を舐める様に見つめながら、優しく声をかける。

「リアナ、お前は儂のものだ。今日も儂を大いに楽しませておくれ」
「お、お願いします!止めて下さい!止め…やぁ…!」

 娘の懇願は男によってかき消され、冷たい石の壁に囲まれた一室で、醜悪な光景が繰り広げられた。



 ***

 陽が落ち、ランタンの光が冷たい石の壁の部屋を淡く照らす中、若いエルフの娘が嗚咽をあげながら、自らの体を繰り返し濯いでいた。

「ぅ…うぅ…えぅ…ぅぐ…」

 娘は、美しく整った顔を涙と鼻水でぐしゃぐしゃに歪めながら、染み一つない艶やかな肌を、繰り返し繰り返し擦り続けている。すでにその肌には何一つ汚れが付いておらず、擦り過ぎて赤くなっていたが、娘は男に触れられた自らの肌そのものを忌み嫌うかのように擦り続け、繰り返し冷たい水をかけて洗い流す。

 やがて娘は痛みと疲労と絶望の前に力尽き、冷たい水が滴る水場に手をついて、荒れた息を繰り返した。

「はぁ…はぁ…はぁ…ぅ…ううぅ…」

 疲労の前にかすれていた悲しみが時間とともに頭をもたげ、娘は再び嗚咽を上げながらフラフラと立ち上がり、毛布を身に纏ってベッドへと倒れ込む。ベッドから舞い上がる、体に纏わりつく不快な臭いから逃れるかのように、娘は手足を折り曲げ、可能な限り身を縮めた。

「…大草原に、帰りたいよぉ…」

 娘は毛布を頭から被り、涙を流しながら、うわ言のように繰り返す。娘の脳裏には、かつての故郷の姿が、煌びやかに映し出されていた。天空を支えるかの様にそびえ立つ、モノの森の大きな木。無骨で飾り気のない、しかし帰って来た娘を温かく出迎える丸太小屋。小鳥の囀りと山羊の泣き声が繰り広げる、賑やかな合唱。子供の頃から繰り返し注意されてきた、あの危険なジョカの葉汁でさえ、今目の前にあったら、喜んで飲み干してしまうかも知れない。

 娘は布団に包まり、ぐずりながら、手の届かない遠い故郷に想いを馳せていた。



 ***

「随分と廃れた感じがするねぇ…」

 馬上で周囲に立ち並ぶ石造りの家々を眺めながら、コレットが呟く。家々のあちらこちらには傷や焼け焦げた跡が数多く残り、一部には崩落したまま放棄された瓦礫もある。前を行くカルロスがその言葉を聞き、肩越しに目を向けて答えた。

「今年の頭に西誅軍に散々荒らされ、その後も半年以上に渡って占領されていたからな。西誅軍撤退の報を聞いて離散していた民が戻り始め、正直なところ、これでようやく復興に手が付けられる、という感じだ」
「結局、割を食うのは全て無辜の民って事か…」

 カルロスの答えを聞いたコレットが、顔を顰める。ミゲルとコレットをはじめとする救出隊は、カルロスの先導の下2週間の旅路を経て、サンタ・デ・ロマハへと足を踏み入れていた。

 一行はサンタ・デ・ロマハへと入ると、真っすぐに王城へと向かう。城門を警備する騎士達が一行を呼び止めると、カルロスが馬から降り、騎士達へと取り次いだ。

「私は、サンタ・デ・ロマハの商人、カルロス・ロペス。この度、大草原から派遣されたエルフの使者の先導を仰せつかった。司令官であるフレデリク・エマニュエル殿への取次ぎをお願いしたい。人族並びにエルフの将来を左右しかねない重大事項と、お伝えしてくれ」
「わかった、カルロス殿。フレデリク様に取り次ぐので、暫くお待ちいただきたい」

 話を聞いたフレデリク麾下の騎士は神妙に頷き、城の中へと駆け出して行く。その様子を後ろで眺めていたミゲルが、コレットの耳元に顔を寄せて囁いた。

「なあ、コレット。俺はこの件について、各族長はおろか親父にさえ何も話してないんだが…」
「いいんだよ、ミゲル。こういう時は格式ばって話を膨らました方が早いんだ。ここはカルロスさんに任せて、アンタは大人しくエルフの使者を堂々と演じていてくれよ」

 コレットは耳元で囁かれ、顔を赤らめながらミゲルを制す。フレデリクとは誼があるものの、今回の件についてはとっかかりがない。であればミゲルが持つ、族長の息子という立場を利用して正面突破するのが、一番手っ取り早かった。



「久しぶりだな、ミゲル殿。貴殿が此処に顔を出すなんて、予想だにしていなかったよ。元気そうで何よりだ」
「あんたこそ元気そうで何よりだ、フレデリク殿。中原に戻って、気も楽になったんじゃないか?」
「とんでもない!此処に戻ってからは、あまりの忙しさに目が回る思いだよ。今となっては、暇さえあれば昼寝していたコネロでの生活が、懐かしい」
「そうか、それは難儀だな。馬乳酒を一本持ってきた。良かったら飲んでくれ」
「おお、それはかたじけない。有難くいただこう」

 応接室へと入室したフレデリクはミゲルに右手を差し出し、二人は固い握手を交わしながら闊達に笑い合った。

 フレデリク・エマニュエルは39歳のカラディナ軍の騎士で、西誅ではダニエル・ラチエールの幕僚を務めていた。どちらかと言うと軍事より行政に強く、そのためリヒャルト達西誅軍首脳部は、故国との戦いにあたり、後方基地となるサンタ・デ・ロマハの維持をフレデリクに託していた。

 笑いを収めるとフレデリクは表情を改め、ソファに座りながら口を開く。

「で、どうしたんだ?ミゲル殿。貴殿がわざわざ此処に来たという事は、よほどの事が起きたのだと思うが…」
「俺にとっては重大事だ。モノの娘が一人、サンタ・デ・ロマハに連れ去られていた事が判明した」
「何?」

 ミゲルの言葉にフレデリクは眉を上げ、表情を険しくする。

「ペドロ・スアレスという商人を覚えているか?」
「…身の安全と引き替えに、我々の大草原への道案内を買って出た奴だな?」
「そうだ。奴がモノ占領後、モノの娘を一人、奴隷として連れ去っている」
「…」

 ミゲルから齎された情報にフレデリクは腕を組み、顔を顰める。ペドロの行動は、奴隷制度の残るこの時代、エルフを敵視していた西誅のさなかであれば問題にはならなかっただろうが、西誅が終わり、人族とエルフが再び融和路線へと転換したこの時点では、エルフの気質も踏まえると、明らかに見過ごせなかった。打開策を考え始めたフレデリクに、カルロスが口添えする。

「閣下、この件に関して、我々友誼派は、彼らに全面的に協力します。閣下にはその支持と、国内の収拾をお願いしたい」
「…貴殿は?」
「カルロス・ロペス。非力ながら、友誼派の取り纏め役を務めております」

 カルロスの言葉を聞いたフレデリクは、即座に方針を固める。フレデリクは、リヒャルトの後背を預かる者として、如何にサンタ・デ・ロマハを平穏に治めるか、腐心していた。自身の兵力は僅か3,000であり、これではサンタ・デ・ロマハの掌握だけで手一杯。そのさなかに発生したこの事態は、リヒャルト陣営に幾つかの益を齎す。モノの娘の救出を支援する事で、エルフとの融和路線をより強固にする事ができる。また、セント=ヌーヴェル国内の二大世論の一派と誼を結ぶ事で、セント=ヌーヴェルも治めやすくなる。リヒャルトが王位争いを勝ち抜いた後、いずれ元の三国協調体制に戻すためにも、なるべく「跡を濁さない」でおく必要があった。フレデリクは頷き、カルロスへ答えた。

「了解した、カルロス殿。友誼派の協力を得る事ができ、私も心強い。新王に働きかけて布告を出してもらい、救出後の使役派と国内の混乱を抑えよう」
「ありがとうございます。私はこれから伝手を頼り、モノの娘の監禁場所を探ります。閣下も何人か使役派に接触していただけますか?」
「了解した。私も幾つか探ってみよう」
「ありがとうございます、閣下」
「フレデリク殿、感謝する」
「気にしないでくれ、ミゲル殿。両種族の融和のためだ」

 その後も一行はフレデリクとの協議を行い、救出に向け準備を進めていった。
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