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第9章 孤立する北

161:黙祷

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 日が傾き、次第に辺り一面が橙色に染まり始める頃、ハーデンブルグの中央に坐するディークマイアー辺境伯の館の一室に、多くの人が詰めかけていた。

 その部屋には今朝まで多くの調度品が整然と並べられ、落ち着きのある洗練された雰囲気が漂っていたが、今やその調度品はそこかしこで倒れて中身が散乱し、廃屋の様に乱雑になっていた。そして、部屋の一面を貫いていた、中庭に面した窓ガラスは全て砕け散り、採光と通風のために開けられた一部を除き、板や革で乱暴に目張りされていた。

 複数の女性騎士達が散乱した調度品を片付け、少しでも部屋の中を整えようと勤しむ中、部屋の主は部屋の中央の寝台に横たえ、まるで人形の様に身じろぎもしない。少女は仰向けのまま目を閉じ、唯一人形ではない事を証明するその呼吸は、布団の重みに負けて今にも止まりそうな危うさを漂わせていた。

 少女の周りには複数の男女が佇み、身じろぎもしない少女をひたすら見つめている。少女の両手はレティシアとカルラに掴まれ、二人は涙をボロボロと流しながら少女が天に召されないよう、両手を押さえつけていた。

「ミカぁ…お願い…目を覚ましてよぉ…お願いだからぁ…」

 少女の手を掴み、泣きながらうわ言のように繰り返すレティシアの手の上に、隣に座るアデーレの手が添えられる。アデーレは、滲み出る涙を流すまいと目を細め、唇を噛みながら少女の寝顔を見つめている。反対側に座るカルラは、年下の主人の名を繰り返し呟きながら、少しでも血流を良くしようと、ひたすら少女の手の甲を擦っていた。



 部屋の扉が控えめにノックされ、執事が静かに入室して来た。執事は、アデーレの肩に手を置いたままじっと少女の寝顔を眺めるフリッツへと近づくと、耳打ちする。

「旦那様。誠に恐れ入りますが、オズワルドが街壁までお越しいただきたいと…」
「…わかった」

 少女の寝顔を見つめたままフリッツが頷き、アデーレに声をかける。

「アデーレ、ミカを頼む」
「畏まりました」

 少女を見つめたままのアデーレの頭が動き、フリッツは未練を振り払う様に身を翻すと、執事に先導され、静かに部屋を出て行った。



 護衛の騎士達とともに、やけに歪んだ石段を上ったフリッツは、街壁上に辿り着くと同時に硬直する。フリッツの目には、自分の記憶とはかけ離れた情景が映し出されていた。

 フリッツの記憶にある街壁は直線で区切られ、重厚さと無骨さで彩られた、軟弱とは無縁の代物だった。それが、今やまるで熱で溶けた飴細工の様に歪み、撓み、あちらこちらで崩落している。そして、ハーデンブルグの両脇で天空を支えていた2本の石柱が、中央からぽっきりと折れている。フリッツは、見る影もなくなった風景を見渡しながら、幼児が積み木を積み上げたような凹凸を繰り返す通路を、慎重に進んでいく。

 やがて、通常の倍以上の時間をかけてガリエル側の二重の街壁の内列に到達したフリッツの前に、オズワルドとイザークが歩み寄り、跪いた。

「フリッツ様、わざわざご足労いただき、誠にありがとうございます」
「いや、構わん。早速報告を聞こう」
「はっ」

 フリッツの声に二人は立ち上がり、オズワルドが報告する。

「来襲したハヌマーンは、35,000乃至ないし40,000。それと、ロックドラゴンが7頭」
「何!?ロックドラゴンが7頭!?」
「はい」

 オズワルドの報告にフリッツは驚愕し、思わず辺りを見渡す。だが、フリッツの目に求める姿は一切見当たらず、ただ草原だったはずの荒野の向こうに横たわったまま動かない、1頭のロックドラゴンだけが面影を残している。

「…まさか…」
「はい」

 目を剥き、口を開けたまま振り向いたフリッツに対し、オズワルドが沈痛な面持ちで首肯する。

「全て、彼女が、一掃しました」
「…」

 フリッツは表情を固めたまま、前方を見渡す。オズワルドの説明が続く。

「戦果は、推定でハヌマーン30,000以上、ロックドラゴンを全頭撃破。ただ、あまりの破壊力にほとんどが消失してしまい、確認のしようがありません。損害は、死者392名、重軽傷者1,557名。その多くが街壁上の兵士達で、ミカの魔法の余波に因るものです。また、これとは別に、市民にも多くの死傷者が出ております」
「…」
「ガリエル側の街壁は、第一列が崩壊寸前。一旦放棄せざるを得ません。第二列についても相当な被害を受けており、早急な修復が必要です。その他、市街地でも多くの家屋が倒壊しており、復旧には多くの困難が伴うでしょう」
「…」

 フリッツは呆然としたまま、再びオズワルドに振り返る。オズワルドが力強く頷いた。

「ですが、40,000のハヌマーン、7頭のロックドラゴンを相手に、この程度の損害で済みました。…ハーデンブルグは、守られたのです」
「…彼女一人にか…」
「はい」

 フリッツはオズワルドの声を聞きながら、三度前方へと向き直る。そのフリッツの視線の先には、崩落した第一列の隙間から、巨大な「皿」の縁が顔を覗かせている。

「…オズワルド」
「はい」

 フリッツが前方を向いたまま、静かに呟く。

「…これはもう、借金返済は無理だな」
「はい」

 オズワルドは、フリッツの背中に頷き、前方に横たわる第一列のなれの果てを見つめる。

 そのまま暫くの間、男達は、昨日までと様変わりした夕焼けを眺めていた。



 ***

 激烈な戦いから一夜明け、人々は一昨日までの日常を取り戻そうと、復旧作業に汗を流した。家の中に散乱した家財を片付け、街中に逃げ出した家畜を追いかける。押し潰された家屋の残骸を撤去し、亡くなった市民を埋葬する。兵達も亡くなった同僚を埋葬しつつ、傷ついた第二列の街壁の建て直しに奔走し、ハヌマーンの再度の来襲に備えた。

 人々は作業の合間に顔を上げ、吹き出る汗を拭きながら、時折街の中央に佇む領主の館を眺めている。人々は館の中で未だ目を覚まさない一人の少女を想い、胸元で印を切って少女の回復を願った。手の空いた女達や子供達は、街の後方に広がる田園地帯に足を運び、たわわに実った果実や綺麗な花を摘み、領主の館へと足を運ぶ。そして、館を守る騎士達に果実や花を進呈すると、館に向かって深々とお辞儀をしていった。騎士達は、これまで見た事のない市民達の行動に胸を打たれ、祈りを捧げる相手はすぐに回復するであろうと安請け合いをした。市民の列は絶える事がなく、何人もの女中達が市民達の贈り物を手に、館と騎士の詰所の間を駆けずり回った。

 日が傾き、街壁の修復に勤しんでいた兵士達が街に戻ってくると、彼らは家に直行する事なく、わざわざ領主の館の前を通り、詰所の騎士に少女の塩梅を尋ねて行く。そして、騎士から待ち望む結果が得られないとわかると、館に向かって印を切り、少女の回復を願って家路に着いた。そのあまりの数に詰所の騎士はついに音を上げ、その日のうちに詰所の脇に一本の立て札が立った。



 翌日も、同じ光景が繰り返された。そして、人々が得られる情報も、同じだった。



 ***

「…ねぇ、ミカ。覚えてる?私と初めて会った時の事、覚えてる?」

 刻一刻と人形へと近づく少女の枕元で、レティシアは少女の手を取り、憔悴しきった顔で語り掛ける。

「…私、あなたを初めて見た時、唖然としたのよ。だって、あなた、私よりちんちくりんなんだもの。そりゃぁ私だって、人様に比べて決して育ちが良いとは言えないわよ?けど、世界の救世主なんて御大層な肩書を持った相手が、まさか私より年下の娘とは思わないじゃない?しかも、あなた見た目が幼いし、悪いけど12歳くらいかと思ったわよ」

 レティシアは、隈に彩られ、真っ赤に充血した目を細め、精一杯の笑みを浮かべる。

「けど、あなたは、とても眩しかった。初めて見るこの世界に戸惑い、不安を抱えていたはずなのに、それをおくびにも出さず、ただひたすら前を向いて歩いていた。明るく、屈託のない笑顔を見せ、些細な失敗に大げさに驚いて、素直に謝っていた。その一つ一つが純真で、とても輝いていた」

 レティシアは、動かない少女の手に顔を寄せ、目を閉じて頬ずりをする。

「ねぇミカ、あなた、知ってた?私、あなたに命を救われる前から、あなたに惹かれていたのよ?可愛らしくて、あどけなくて、それでいて『しん・ごじら』だなんて巨龍の倒し方を知っていながら、私みたいな宮中作法しか知らない箱入り娘に心を開いてくれて。あなたと初めてパジャマパーティした時なんて、殿方と二人っきりの時と比較にならないくらい、どきどきしたわ。あの時から私、ずっとあなたしか見てなかったわ…」

 そして、レティシアは目を開き、声を震わせる。

「…だから、ねぇ…もう一度、目を覚まして?その愛らしい声で、私の名を呼んで?その美しい手で、私を触って?…やなのぉ…もっと…ぅ…あなたと…い、一緒に…居…た…、一緒に居てよぉぉぉ!うわああああああ!」

 レティシアの悲痛な叫びも届かず、少女は日に日に痩せ細る体を横たえたまま、動きを止めている。

 少女が意識を失ってから3日目に入り、その間少女は何も口にしていなかった。医療の発達した日本と違い、点滴の存在しないこの世界では、意識不明は死に直結する。すでに少女の体内の燃料は、尽きかけていた。

 少女の寝台の周りには多くの人達が集まっていたが、皆一様に俯き、体の中からせり上がる感情を必死に堪えていた。レティシアとカルラが涙混じりの声をかける以外、誰も語らず、時折鼻の啜る音だけが、部屋の中を木霊する。レティシアとカルラは、すでに幽鬼の如く髪を乱し、ただひたすら少女を見つめている。アデーレもレティシアの脇に腰掛け、レティシアを固く抱きしめながら、じっと少女を見つめている。豪胆なはずのフリッツとオズワルドは、迫り来る恐怖に内心で泣き喚きながら、ゲルダは日頃の屈託さをかなぐり捨て、ただじっと己の感情を抑えるかのように唇を噛み、少女を見つめている。ニコラウスは、まるで少女をこの世界に召喚した責任を一手に引き受けるかのように自分を苛み、エミールとヘルムートは、何もできない無力感に苛まれながら、少女を見つめている。

 一同の想いを嘲笑うかの様に、少女は動かず、ただ闇の帳が刻一刻と重くのしかかり、冷気を伴った恐怖が少しずつ人々の隙間に忍び寄る。



 そして、中原暦6625年ガリエルの第2月24日、午前0時52分。

「ミカぁ!ミカぁ!あああああああああああああああああああああああああああ!」

 重苦しい闇を切り裂くかの様に、レティシアの金切り声が、館の中を駆け巡っていった。
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