失われた右腕と希望の先に

第7章 サーリア

123：そして一つに

　サーリアの建物から脱出してから2時間が経過した頃、熱気球は鬱蒼とした森を抜け、緑の乏しい湖岸を飛んでいた。柊也は眼下を観察し、少しずつ高度を下げながら、着地に適した場所を探す。

　やがて、柊也はなだらかな平地を見つけると高度を下げ、三人は2時間に渡る空の遊覧を終え、熱気球は無事地上へと帰還した。

「シルフ、この周辺には魔物がいるか、教えてくれ」
『はい、マスター。現在地周辺約20km四方には、湖水を含め、大型動物は生息しておりません。最大の動物は、体長50cmの岩蜥蜴となります』

　シルフの回答に柊也は頷き、セレーネに声をかける。

「セレーネ、周囲の様子を見て、テントを張る場所を探してくれるか？」
「あ、はい、わかりました」

　セレーネは柊也の言葉を聞くと頷き、バスケットを降りて周辺の様子を窺う。セレーネの後姿を見届けた柊也はしゃがみ、腰の抜けたシモンの頭を撫でた。

「シモン、ごめんな、怖い思いをさせて。君が空を飛ぶ事にそんなに恐怖を覚えるとは、予想もしなかったよ。これ以上、空を飛ぶようなことはしないから、安心してくれ」
「怖かったよぉ…」

　シモンはバスケットの中でへたり込み、震えながら柊也にしがみ付く。柊也はバスケットに背を預け、シモンと二人でバスケットの中に縮こまる。

「シモンさん、大丈夫ですか？無理しないで下さい」
「ぐす…お姉ちゃぁん…」

　戻ってきたセレーネがバスケットの中を覗きこみ、シモンが涙を浮かべながら顔を上げる。

　こうして三人は暫らくの間、バスケットの周りから動こうとしなかった。



　そのまま1時間が経過し、シモンがようやく立ち上がれるようになると、三人はバスケットから降り、セレーネが見つけた場所へと移動する。そこは、湖岸から少し離れた平地で、湖面まで広くなだらかな砂浜が広がっていた。

「ト、トウヤ、すまない、もう少しだけ手を繋いでいてくれ…」

　口調は元に戻ったものの、未だ完治していないシモンに左手を取られた柊也は、先行するセレーネに声をかける。

「セレーネ、すまん。テントの設営を頼めるか？」
「大丈夫ですよ、トウヤさん、気にしないで下さい。シモンさんをお願いしますね」
「ああ」

　柊也に頼まれたセレーネは快く頷き、柊也が取り出したテントを機嫌良さそうに組み立てていく。そんなセレーネの背中を、柊也とシモンは手を繋いだまま座って眺めていた。



　セレーネがテントを組み立て終わると、柊也はセレーネと交代し、隣にもう一つテントを組み立てて、その中の子供用プールにお湯を汲み入れる。やがて、プールになみなみとお湯が張られると、シモンとセレーネの待つテントへと顔を覗かせた。

「シモン、セレーネ。お風呂ができたぞ、先に入ってこい」
「ああ、ありがとう、トウヤ」
「ありがとうございます、トウヤさん。お先にいただきます」

　二人は手を繋いだまま立ち上がると、お風呂場へと向かう。入れ違いにテントへと戻った柊也は、二人の桃源郷から逃れるために、音楽プレーヤーを取り出してイヤホンをつけた。

　シモンは衣服を脱ぐとバスチェアに座り、体を洗い始める。後から入ってきたセレーネが、シモンの後ろから声をかけた。

「シモンさん、背中流しましょうか？」
「あ、ありがとう、セレーネ。お願いできるか？」
「ええ、任せて下さい」

　そう答えるとセレーネは、スポンジにボディソープをつけ、シモンの背中を洗い出す。シモンの背中に、幾重もの泡の円が描かれていく。

「シモンさん」
「うん？何？セレーネ」

　シモンが前を向いたまま、形良い三角形の耳が動く。シモンの、泡に塗れた艶やかな背中を見ながら、セレーネは背中越しに礼を述べた。

「今日、私を助けてくれて、本当にありがとうございました。私が気を失い、何も抵抗できなかったのにも関わらず、こうして無事でいられるのは、全てシモンさんのお陰です」
「ああ、その事か…。セレーネ、気にするな」

　シモンが横を向き、セレーネに横顔を向ける。シモンはセレーネに背中を預け、視線がセレーネと交差しないまま、努めて平静に言葉を続けた。

「姉が命の危険に晒されているんだ。妹の私が助けに入るのは、当然だろう？」
「シモンさん…」

　セレーネの目の前で、シモンはそっぽを向きながら、彼女らしからぬぶっきらぼうな言い方をする。その秀麗な顔に薄っすらと赤みが射したのを認めたセレーネは、穏やかな笑みを浮かべる。

「…うん、そうだね、シモンさん。けど、だからこそ、妹に愛されている事を知って、お姉ちゃんは嬉しいんだ。ありがとう、シモンさん」
「う…」

　シモンの背中の泡に身を埋める様に、セレーネが体を寄せる。その親愛を肌越しに感じたシモンが、ますます顔を赤くした。

　そして、シモンの背中に身を預けたまま、セレーネは目を閉じ、決定的な告白をする。

「ねぇ、シモンさん…」
「何？」
「…私、トウヤさんの事が好きです」
「え？」

　思わず振り返るシモンに、目を開けたセレーネが重ねて問う。

「お姉ちゃんは、あなたと同じ人が好きです。シモンさん、お姉ちゃんもこのまま、トウヤさんの事、一緒に好きでいてもいい？」
「…」

　視線が至近で交差したまま、二人は暫くの間、動きを止める。テントの外から、湖岸の波打つ音が聞こえて来る。



　やがて、シモンが柔らかい笑みを浮かべ、目を細めながら答える。

「…うん、大丈夫だよ、お姉ちゃん。三人で幸せになろう」
「ありがとう、シモンさん…」

　シモンの答えを聞いたセレーネは嬉しそうに目を閉じ、再びシモンの背中に身を預けた。



　***

　夜が暮れ、闇が周囲を覆い尽くしたテントの中を、ランタンの明かりだけが妖しく照らしている。そのテントの中で柊也は椅子に腰掛けたまま、呆然とした顔で、目の前の光景から目を離せないでいた。

「…はぁ……ぁぁ…」

　柊也はそれまで掴んでいた、芳醇な水を湛えた舌からゆっくりと手を離す。その舌は1年半に渡って使い込まれた結果、完熟した果実の様に赤く捲れ上がり、収穫の時を待ち望むかの如くその身を横たえている。小刻みに震え、未だ臨界には達していない赤い舌から手を離した柊也は、怯える様に手を震わせながら、その手を左に移動させる。

　そこには、柊也が初めて見る新たな舌が、目の前に広がっていた。新たな舌は、これまで掴み慣れた舌とは異なり、小さな蕾のように淡い桃色の光沢を放っていた。未だ誰にも触れられた事のないその舌は、まるで岩場の影に隠れる小魚の様に、恐る恐る口腔から顔を覗かせ、時折口の中へと逃げ込んでいく。しかし、やがて自らを捧げるかのように、再び顔を覗かせ、柊也の目の前にその身を横たえた。

　舌から目を離せなくなった柊也の前で、舌の持ち主が陶然とした顔つきで目を閉じ、言葉を紡ぐ。

「私の全てを、ここに捧げます。マイ・マスター…」
「…セ、レーネ…」

　頭の中が痺れ、チカチカと点滅する中、柊也は上の空で舌の持ち主の名を呼び、ゆっくりと舌を掴む。掴まれた舌は、口の中に逃げ戻ろうとする本能に抗い、セレーネは四つん這いのまま身を震わせる。

「…ぁぁぁ…」

　その小さな声に、柊也は体温を上げながら、舌を摘まんだ親指、人差し指、中指の三指をゆっくりと前後に擦る。桃色の舌は、赤い舌とは異なる理由で体を震わせ、それでも柊也の望むままに身を委ねた。

　こめかみに疼きにも似た拍動を覚え、息が荒くなる柊也の左薬指に赤い舌が伸び、指に絡まる。

「…シ、モン…」

　瞬きもせず、錆びついた頭を動かす柊也の前で、赤い舌の持ち主が柊也を見上げる。そして上気し潤んだ表情で、桃色の舌の持ち主と指を取り合いながら、熱風を送り込んできた。

「…トウヤ、お願い…。これ以上はもう、自分を抑えられない…」



　***

　テントは3日間、その場から動かなかった。

　テントは巨大な坩堝るつぼと化し、その中では三つの物質が溶け合って渦巻いていた。



　男は1年半に渡る儀式によって濃縮され、黒く粘り気のある濃密な液体へと変化していた。そして女は1年半に渡る儀式によって炙られ続けた結果、赤く煮えたぎる灼熱の液体へと変化していた。

　二つの液体は、これまで坩堝の中で互いに襲いかかろうと揺れ動き、両者を阻んでいた理性の衝立は日に日にやせ細り、削り取られていた。そしてこの日、ついに両者の手によって衝立が取り外され消え失せると、二つの液体は互いに相手を征服する勢いで襲いかかった。黒い液体は赤い液体を分断する勢いで分け入り、赤い液体はその黒い液体をそのまま呑み込まんと、口を開く。二つの液体はお互いの求めにその身を散らし、少しずつ混ざり合い、化学反応を起こして熱を帯びていく。

　そして、その二つの液体の渦に、純白の小鳥が飛び込む。赤黒二つの液体は、渦に飛び込んだ小鳥へ容赦なく襲いかかり、その美しい白い羽を次々にむしり取った。小鳥はその身を裂く痛みに身を捩らせながら、自らの存在を二つの液体に知らしめんと、周囲を啄んで自己を主張する。坩堝の赤黒二色の渦の中に小鳥の純白の羽毛と鮮血が浮き上がり、新たに白と紅の斑点で彩られる。

　2日目に入り、黒い液体の動きが鈍くなると、赤い液体は「パパ」と呼んで相手を奮い立たせ、自分がこれまでに目覚めた全ての世界を開いて、相手を歓迎する。黒い液体は、その歓迎を受けると臆面もなく次々に世界に踏み込み、謝礼として赤い舌を掴んで弄んだ。赤い液体は全ての世界を塞がれ、その全てで相手を消化し、赤黒は次第に一つの色へと変化する。

　その変色を続ける渦の中心で、すでに羽ばたく事もできなくなった小鳥が、小さな声で囀りを上げる。それまで穢れのない純白の羽毛で覆われていたその身は、今や赤と黒で滅茶苦茶に塗りたくられ、身を裂く痛みと、体を溶かす熱と、二つの液体に教え込まれた新たな感覚に身を捩らせ、悲鳴にも似た囀りを続けていた。

　3日目。坩堝の中は、赤と黒と小鳥が互いに融合し、ドロドロに混ざり合っていた。そして、三つの物質が混ざり合った結果、坩堝の中で激しい化学反応が起き、液体の温度は次第に上がっていく。やがて、その液体が沸点を迎えると、坩堝の液面には沢山の泡沫が浮かび上がり、次々と破裂して、辺り一面に濃臭と飛沫を撒き散らしていった。