失われた右腕と希望の先に

瑪瑙 鼎

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第6章 束の間の平穏

103:海の都へ

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「…潮の香りがしてきましたね」

 馬車の中に流れてきた風を嗅いだカルラが、小さく呟いた。

「え、ホントに?」

 カルラの声を聞いたレティシアが身を起こし、馬車の窓から身を乗り出し、鼻をひくつかせる。

「…カルラ、凄いわね。私には、全くわからないわ」

 やがてレティシアが諦めた様に椅子に座り直し、カルラの嗅覚に感心する。カルラはいつも通り表情を顔に出さず、静かに答えた。

「嗅覚も重要な情報ですから。部屋の汚れや衣服の湿気、料理から主人の体調の異変まで、得られるものは多くあります。侍女たるもの、このくらいできて当然です」
「いや無理ですから、カルラさん」

 さも当然の如く言い切るカルラに対し、ハンターあがりの侍女であるマグダレーナが指摘する。それに対し、カルラは視線だけをマグダレーナに向け、冷静に言い放った。

「教育が足らないようですね。館に戻ったら、あなたに色々と教えて差し上げましょう」
「え?いやいやいや、結構ですから!勘弁して下さい!」

 何かトラウマがあるのだろうか、カルラの視線を受けたマグダレーナが両手を振り、全力で辞退する。そんな二人のやり取りを横目で見ながら、レティシアはもう一度、窓の外へと顔を向けた。

 ハーデンブルグを出立して3日。一行は、昼過ぎにはアンスバッハ伯爵家の領都、ライツハウゼンに到着する予定だった。



 美香とレティシアがライツハウゼンへと向かっているのは、アンスバッハ家から招待されたからだった。

 北伐において、アンスバッハ伯爵家も少数ながら兵を出していた。その生還した兵士達からの異口同音の賞賛を耳にした当主ヴィルヘルム・フォン・アンスバッハが、美香に対し北伐の慰労を兼ねたライツハウゼンへの来訪を提案し、美香が応じた次第である。この辺りは、レティシアの父フリッツの意向も含まれている。北伐が終息した以上、今後美香に対して、王家や教会からの招聘が強まる可能性が高い。である以上、今のうちに美香の味方を増やす必要があった。ディークマイアー家とは唇歯の間柄であり、アンスバッハ家の気質を良く知っているフリッツは、アンスバッハ家が美香の味方に足る家であると、美香に説明していた。

 一行は馬車に乗り、オズワルドが指揮する護衛小隊に守られながら、ライツハウゼンへと向かっている。馬車の中で、カルラが口を開いた。

「ミカ様は、今回の訪問を随分楽しみにしていらっしゃいましたね」

 カルラの発言に、レティシアが首肯する。

「ええ、ミカのいた世界では、魚料理が多かったらしくて。ハーデンブルグでは、あまり食べられないから。ライツハウゼンで水揚げされる魚介類が待ち遠しいらしくてよ」

 そう答えると、レティシアは自分の事の様に嬉しそうに笑みを浮かべた。

 レティシアの言葉通り、ハーデンブルグは内陸にあって海産物が取れず、食事はもっぱら肉がメインとなる。一方、ライツハウゼンは北部一の港町であり、水揚げされる豊富な魚介類が有名である。ハーデンブルグとライツハウゼンは3日程の距離であるが、この世界の輸送事情では生魚の運搬は難しく、もっぱらハーデンブルグへの流入は塩漬けか干し魚となる。水魔法の「フリーズ」と「クリエイトアイス」で冷却して運搬する方法もあるが、その分割高となり、食生活の違いもあって、ハーデンブルグではあまり魚介類が食べられていなかった。

「…だから、こんな事になって」

 レティシアはそう呟くと、自分の左隣を見る。そこには誰もおらず、すでに熱の逃げ切った、冷えた座席だけが残されていた。空席を見つめる三人の耳に、馬車の外から女性の声が聞こえて来る。

「…ちょ、ちょっとゲルダさん、だから胸を揉みしだかないでよ!」
「だから、動くんじゃないって、馬から落ちたら大事だよ。…おや?ミカ、少し胸が大きくなったじゃないかい?お尻も張りが出てきているし、アタシが頑張って手伝った甲斐があったねぇ」
「何故バレたし!?」

 レティシアが窓から顔を出して後ろを見ると、斜め後ろを歩く馬上でゲルダが美香を抱え込み、胸をまさぐっていた。美香はゲルダの手から逃れようと身を捩っているが、馬上で動きが取れず、獣人の膂力に抑え込まれ、為すがままになっている。

「…んん!?こら!尖端を指で挟むな、変態!そこだけ大きくなったら、あんたの事、燃やすかんね!」
「任せておくれよ、尖端だけじゃなくて全体をバランス良く大きくするから」
「そういう意味じゃない!」

 美香は肘打ちをゲルダの脇腹に叩き込むが、ゲルダは堪えた様子もなく、セクハラを続けている。レティシアが前を向くと、馬車の前を進むオズワルドとエルマーの会話が聞こえた。

「…何で隊長、ゲルダ隊長にじゃんけんで勝負するんですか。獣人の動体視力で後出しされるのが、オチじゃないですか」
「…エルマー、黙っていろ」

 そう答えるオズワルドの声は、明らかに不機嫌だった。

 ゲルダが今回の訪問に同行しているのは、完全に成り行きだった。第4大隊の威力偵察が終わり、休暇に入っていたゲルダが、今回の訪問を耳にして強引に割り込んだのだ。今回の護衛小隊は、自国内という事もあって数が少ない。今回はニコラウスも業務の関係で同行しておらず、ゲルダの参加表明は、人数を抑えたまま戦力を上げるのにちょうど良かった。

 そして、出立して3日が経過したところで久しぶりの海が待ち遠しくなった美香がオズワルドの馬に乗せて欲しいと言い出し、そこにゲルダが割り込んですったもんだした挙句、じゃんけんとなった次第である。

 レティシアは再度後ろを向き、馬上でやんややっている二人を見ながら、思う。

 ミカ、何だかんだ言って、ゲルダから逃げないのよねぇ。私も触らせてもらおうかしら。



「わあぁぁぁぁ…」

 高台に仁王立ちした馬の上で、美香は身を乗り出し、感嘆の声を上げる。美香の目の前には、入り江に面したライツハウゼンの美しい街並みが広がっていた。美香の後ろで、セクハラを止めたゲルダが、人懐っこい笑みを浮かべる。

「どうだい、此処からの眺めは。アタシは、ライツハウゼンで一番美しい眺めは、此処だと思うんだよね」
「本当ですね、すごい綺麗…」

 ゲルダの発言に美香は振り返って笑みを浮かべると、再び前を向き、辺りを一望する。そんな美香の顔に、心地よい潮の香と風が漂ってきた。

 ゲルダに散々体をまさぐられている美香だが、実は元の世界の親友である久美子から同じセクハラまがいのスキンシップを受けていたため、意外と耐性がある。しかもゲルダは美香の我慢の限界ギリギリで手を引き、なおかつセクハラさえなければ姐御肌の頼もしい味方だったので、結果的に美香はゲルダの行為を許容してしまっていた。ただ、ゲルダから繰り返しセクハラを受けた結果、美香のフェアラインが段々と広がってしまっている事に、美香は気づいていない。

「本当…。久しぶりに来たけど、こんな綺麗な眺めが見れるスポットがあるなんて、知らなかったわ」

 隣に、オズワルドの馬に乗ったレティシアが並び、前を向いて呟く。風に吹かれてなびく美しいブロンドの髪を見ながら、美香がレティシアに尋ねる。

「久しぶりって、どれくらい?」
「ざっと10年ぶりね。お父様とともに来た事があるの」
「そっか…」

 相槌を打つ美香に、オズワルドが声をかけた。

「ミカ、そろそろ街へと向かおう。今ならまだ、港の水揚げを見る事ができるはずだ」
「え、本当ですか!?行きましょう!」

 そう言うと、2頭の馬は馬首を翻し、一行の下へと戻って行った。



 石畳の脇に連なる桟橋が、繰り返し波打っている。すでにガリエルの季節に入り、素肌に刺さる風は涼しく感じられるが、陽はまだ高く光り輝いており、カモメの様な鳥が気持ちよさそうに宙を舞っている。桟橋では幾人もの漁師が大きな籠を抱え、陸へと運んでいた。

 美香とレティシアは手を繋いで一行の先頭を歩きながら、漁師達が選別している魚を覗き込んでいる。その後ろから、オズワルドとゲルダ、カルラとマグダレーナ、そして3名の騎士達がついて歩いていた。残りの騎士達はエルマーの指揮の下、広場で待機している。

 水揚げされたばかりの魚はどれも新鮮で、籠の中で勢い良く飛び跳ねている。美香は魚の種類について詳しくはなかったが、少なくとも日本で馴染みの青魚は少なく、南洋にいる様なカラフルな魚が多かった。多くの魚に混じって、サザエや二枚貝も揚がっている。

「うわっ!デビルフィッシュだ!いつの間に揚がっていたんだ!」

 突然、少し先の漁師が声を上げ、後ずさりしている。その声に誘われる様に顔を覗き込んだ美香は、馴染みのある生き物の姿に、思わず口ずさんだ。

「あ、蛸だ。美味しそう」
「「え?美味しそう?」」

 美香の感想に、思わずレティシアと漁師が顔を見合わせる。美香の目の前では、大きな蛸が威嚇しながら、籠の中で後ずさりしていた。レティシアが思わず美香に問いただす。

「ミカ、も、もしかして、デビルフィッシュを食べちゃうの?」
「え?うん。蛸って歯ごたえがあって美味しいよ?元の世界では、生のまま刺身にして食べているくらい」
「な、生…!?」
「ミカ…」
「ミカ様…!?」

 レティシアが目を見開き、オズワルドやカルラでさえ唖然とする。ここ中原では、蛸はデビルフィッシュと呼ばれ、ガリエルの海の尖兵として忌み嫌われていた。

「え?みんな食べないの?」

 皆の視線を受けて美香が問い質すも、皆一斉に首を横に振る。嗜好を否定され、孤立無援になりかけた美香だったが、そこに唯一人、味方が現れた。

「お、デビルフィッシュじゃないか。故郷から出て以来だな。ミカの所も食べていたのか?」
「ええ、茹でたり生で食べたり。ゲルダさんの所もですか?」
「さ、流石に生はないけどな。焼いて魚醤かけると、旨いんだ」

 生食発言に、流石のゲルダも引き気味に答える。ゲルダの声を聞きながら、美香が蛸を見て呟く。

「元の世界では茹でて食べるのが多かったです。…でも、こっちじゃ食べないのか。私も捌き方は知らないからなぁ…残念」
「良かったら捌いてやろうか?アタシも久しぶりに食べたいし」
「え!本当ですか!?やったぁ!」
「ミ、ミカ!?」

 ゲルダの発言に美香は跳び上がって喜び、そんな美香の姿にレティシアが慌てて縋りつく。

「おう、任せておけ。オヤジ、こいつどうせ捨てるんだろ?貰って行くぞ?」

 ゲルダは漁師に断りを入れると、無造作に蛸を掴み上げる。蛸は、ゲルダの腕に触手を絡みつかせ、抵抗する。

「元気ですねぇ、この蛸。…あ、吸盤着いた。うわ、面白い」
「ちょ、ちょっと、ミカ!?」
「活きが良いな、こいつ。カルラ、近くの店から網焼きと魚醤を借りてきてくれないかい?ミカは、火を起こしておくれ」
「は、はい、ただ今」
「はーい、任せて下さい!ジャベリン系でいいですか?」
「いや、もっと火力を落としてくれ」

 美香とゲルダは嬉々として蛸に群がり、残りの者達は、そんな二人を呆然と眺めている。

 やがて、ひと時の間、桟橋の隅で、香ばしい魚醤の匂いが漂っていた。
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