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第6章 束の間の平穏

100:不穏な西と北

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「ミカ殿、わざわざ呼び立てて、すまないな」
「いえ、お気になさらないで下さい、フリッツ様」

 応接で待機していた美香の下に執事の迎えがあがり、美香とレティシアはディークマイアー家の当主であるフリッツの執務室へと入った。社交的な挨拶を終えた美香は、執務室の中央のテーブルを見て、些か驚く。

「アデーレ様、マティアス様もお呼びしたんですか?」
「ああ。この国にとって重大な話だからな。ミカ殿もレティシアも座ってくれ」
「はい」
「はい。お父様」

 フリッツの指示に従い、美香はフリッツから見てテーブルの左側に腰を下ろす。美香の隣にはレティシアが座った。フリッツは、美香とレティシア、そして右側手前に座るアデーレと右奥に座る長子マティアスを一通り見渡した後、口を開く。

「先ほど、ヴェルツブルグより急使が来た。教会が『西誅』を発布し、エーデルシュタイン及びカラディナが、セント=ヌーヴェル及びエルフに対し、討伐軍を進発させたそうだ」


「え…?」
「父上!?」
「ど、どういう事ですの?お父様?」

 マティアスが驚きの声を上げ、美香、レティシアも呆然とする。アデーレだけは声を上げなかったが、納得いかなさそうに眉間に皴を寄せ、フリッツの説明を待っている。4人の視線を受けて、フリッツが説明を続けた。

「今回北伐軍は現地での三国集合に失敗し、空しく引き返してきたわけだが、どうやらセント=ヌーヴェル及びエルフの裏切り行為が原因らしい。現在、カラディナとセント=ヌーヴェルの間で戦闘が起きており、教会の『西誅』発布に伴い、北伐軍がそのまま西誅軍に編入されて進発したとの事だ。ヴェルツブルグからここまでのタイムラグを考えると、そろそろカラディナに入国する頃だろうな」
「父上、裏切り行為というのは、本当にあったのでしょうか?ガリエルの謀略という可能性は、ないのでしょうか?」

 マティアスに問われたフリッツは腕を組み、鼻で息を吐いて見解を述べる。

「此処に入ってくる情報が少なすぎて、判断ができん。ただ、いくつかの情報を総合すると、カラディナとセント=ヌーヴェルの間で戦闘が勃発したのは、事実のようだ。ガリエルに嵌められたのか、行き違いがあったのかは、わからないがな。私としては、カラディナもセント=ヌーヴェルも、そこまで馬鹿ではないと思いたい」
「討伐軍は、どのくらいの規模ですの?」

 アデーレの問いに、フリッツが大きな溜息をつく。

「…エーデルシュタインだけで、40,000だそうだ」
「40,000!?北伐軍より多いではないですか!?」
「カラディナもその規模であれば、70,000に届きますわよ?」
「…教会は、セント=ヌーヴェルを滅ぼすつもりかしら?」

 フリッツの言葉に、マティアスとレティシアは唖然とし、アデーレは苦虫を噛み潰す。

「…どうやら、カラディナやセント=ヌーヴェルよりも、教会や我が国の方が愚かなようですわね」

 アデーレの歯に衣着せぬ物言いに、フリッツは内心で同意するが、言葉には出さない。エーデルシュタインの北辺の重鎮としての立場がある。

「リヒャルト殿下やコルネリウス様が、指揮をされているのでしょうか?」

 美香がおずおずと質問し、フリッツが頷いた。

「殿下が、引き続き総指揮を取られているそうだ。ハインリヒ殿も同行される。一方で、コルネリウス殿は従軍されず、代わって同輩のギュンター・フォン・クルーグハルト殿が司令官に就いたそうだ」
「そうですか…」

 フリッツの言葉を聞いて、美香は沈痛な面持ちを浮かべる。リヒャルトもハインリヒも、この世界に召喚されて以降、美香に何くれと心を砕いてくれており、美香はそんな二人に感謝していた。二人とも、無事に戻って来てほしい。美香は、北伐に続けて大きな戦いに身を投じる二人の身を案じた。

 テーブルに視線を向け動かなくなった美香を見て、フリッツは努めて平静を装ったまま口を開いた。

「…実は、教会からミカ殿に要請が来ている。西誅軍に合流して欲しいとな」



「…え?」
「お父様!?」

 美香が呆然とした表情を浮かべ、レティシアが詰め寄る。マティアスの口が開いたまま動かなくなり、アデーレの眉間の皴が増えた。フリッツの説明が続く。

「当家への参戦要請とあわせて来た。ロザリア様の御使いとして西誅軍の先頭に立ち、ロザリア様の威光をもって、反旗を翻した者達をひれ伏させてほしいとの事だ。戦力と言うより、西誅軍の象徴だな。…ミカ殿、如何する?」
「…」

 フリッツの問いかけとともに、四人の視線が美香に集中する。それに対し、美香は暫くの間沈黙した後、口を開く。

「…お断りして下さい」

 そして、はっきりと断言した。



 フリッツは頷き、美香に問う。

「理由は?」
「私はロザリア様に代わり、人族を守る力を授かりました。私の力は、いわば外敵から子供を守る、母の力です。人族の内輪揉めに加担するための力ではありません。どこの世界に、兄弟喧嘩の片方に一方的に肩入れして、もう一方を傷つける母親がおりましょうか。両者の仲裁に赴く事はあっても、一方に肩入れするつもりは、ありません」

 美香の発言を聞いたフリッツは、その日初めての笑みを浮かべる。

「ミカ殿のご見識には、感服するばかりだ。その考えに、当家は大いに賛同する。当家は、これはガリエルの謀略と考えており、北辺の守りを疎かにするわけにはいかない。ミカ殿の見識と、ミカ殿に北への睨みを利かせてもらう事を理由に、要請を断る事としよう」
「ありがとうございます、フリッツ様。それで、お願いします」

 フリッツの答えに、美香は感謝し、頭を下げた。



 ***

「こんにちわー。オズワルドさん、います…わぷっ!」

 その日、美香はオズワルドに馬術の指南を乞うべく、いつも通りオズワルドの執務室を訪れたが、顔を出した途端、目の前が暗転し、顔を何かで塞がれてしまう。美香の顔を覆った物体は温かく柔軟に変形し、美香が顔を剥がそうとしても、強い力で押し付けられ、容易には剥がせない。息ができず、首を振って藻掻く美香の頭上から、若い女性の声が聞こえてきた。

「ミカ!会いたかったよ!元気にしてたかい!?」
「ぷはぁ!ゲ、ゲルダさん、お久しぶりです」

 何とか顔を上げ、豊満な胸の谷間から脱出した美香の目の前には、ゲルダの人懐っこい笑顔が浮かんでいた。

 ゲルダ・へリング。ディークマイアー家が擁する兵団の第4大隊長である。大柄でオズワルドと遜色のない体格を持つゲルダは、美香の知る唯一の獣人である。虎獣人のゲルダは、頭部から突き出たやや丸みの帯びた耳と縞模様の尻尾を持ち、橙と黒のストライプの髪の毛を後ろで束ねていた。パワー型の種族特性を生かしてハルバードを振り回す猛将であり、日本人の「アマゾネス」のイメージにぴったりと言えよう。

 第4大隊を率いて北伐に参加したゲルダは美香に窮地を救われた一人であり、それ以来、美香に心を砕き、美香との親交を深めていた。ただ、実は美香にとって、ゲルダは些か苦手な相手だった。何故なら、

「しかし、アンタ、小っちゃいまんまだねぇ。ちゃんとご飯食べているのかい?こんなに小っちゃいと、丈夫な子供を産めないよ?」
「いや、ちゃんと食べてますから。だから、お尻揉まないで下さいよ。それとレティシア、あなたは指を咥えない!」

 美香は、お尻に回された手から逃れようと身を捩り、物欲しそうな顔をするレティシアに釘を刺す。しかし、虎獣人の膂力には勝てず、ゲルダの腕の中から逃れる事ができない。

 ゲルダはこの世界で唯一、美香にセクハラをする人物だった。あのヴェイヨでさえ、デリカシーのない発言以外の事は美香にしてこなかったが、ゲルダは美香に抱きつき、体を撫でまわすのが常であった。本人曰くただのスキンシップとの事だが、美香はゲルダの笑顔を見るたびに、いつも思ってしまう。ゲルダさん、何故あなたは、私を見て舌なめずりするの?

 美香を抑え込み、思う存分揉みしだくゲルダを見て、エルマーが溜息をつく。

「ゲルダ隊長、ほどほどにして下さいよ?それをやられると、その日一日ウチの隊長の機嫌が直らないんですから」
「エルマー、余計な事を言うな」

 エルマーの発言を聞いて、オズワルドが仏頂面になる。それを見たゲルダは、口の端を吊り上げた。

「何だい、オズワルド。それならそうと言ってくれよ。そしたら、アンタにも思う存分触らせてあげるのに」
「なぁっ!?何も、俺は別に触りたいとは一言も…」
「ちょ、ちょっと、ゲルダさん!何、勝手に人の体の許可を…」
「…アタシのを」
「…いらん」
「あ、そっち?」

 あからさまにトーンの変わる二人を見て、ゲルダがニヤニヤと笑う。それを見たエルマーが、こめかみに指を当てながら問い質した。

「ゲルダ隊長、わざわざウチの隊長をおちょくりに来たわけじゃないでしょう?ご用件は何ですか?」
「それより、そろそろ手を離し…むぐぅぅぅぅ」

 エルマーに指摘されたゲルダは、笑みを浮かべると、再び美香のお尻に手を伸ばす。美香は抵抗空しく、ゲルダの豊満な谷間に埋もれていく。

「エルマー、よく聞いてくれたよ。…オズワルド、ハヌマーンどもがヨナの川まで進出しているぞ」



「本当ですか!?ハヌマーンが!?」
「ああ」

 日頃の軽薄さをかなぐり捨てて詰め寄って来るエルマーに対し、ゲルダが頷く。オズワルドは黙ったままゲルダを見つめているが、その眉は次第に上がり、深い縦皴が入ってくる。

「まだ単体を見かけただけで、集落はできていない。ただ、北伐であれだけ叩いたのに、もうそこまで南下していたよ。ヨナの川を越えたら、ハーデンブルグまで、わずか5日だ。今年は何とかもつだろう。だが、来年は無理だ」

 ゲルダの報告を聞くオズワルドの口から、歯ぎしりの音が聞こえてくる。

「オズワルド。ここ2年ほどご無沙汰だったが、奴ら、来年はきっと来る。北伐の意趣返しとばかりに、雲霞の如く押し寄せるだろうよ。遊んでいる暇はないぞ」

 オズワルドが額に青筋を浮かべ、目を剥いてゲルダを睨み付けている。ゲルダはそれを見ても動じず、獰猛な笑みを浮かべる。

「おお、怖い怖い。でも、アンタがやる気になってくれて、アタシは嬉しいよ。アンタならできる。アタシをも使いこなして、必ずハーデンブルグを守り切ると信じている。アタシにできる事なら何でも言ってくれよ。ハヌマーンの真っ只中だろうが何だろうが、何処へでも斬り込んでやろう」

 ハーデンブルグの武を代表する二人は、そのまま暫くの間、互いの顔を睨みつけていた。



 やがて、動きを止めた二人に、レティシアがおずおずと声をかけた。

「ゲルダ、一つ質問をしたいのだけど…」
「何だい?レティシア様」

 ゲルダが獰猛な笑みを浮かべたまま、レティシアの方を向く。それを見たレティシアは、ゲルダが纏う肉食獣の雰囲気に息を呑みながらも、毅然とした態度で質問を口にした。



「…あなた、いつまでミカのお尻を揉んでいるつもり?」
「いつまでって、大きくなるまでに決まっているじゃないか」
「すぐに大きくならないから!あなたの胸でミカが窒息してるから!オズワルドの青筋は、そのせいだから!」
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