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第5章 西誅
89:地獄の始まり
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翌日。ティグリのエルフ達は一斉に森を捨て、大草原へと繰り出した。
彼らは、全員が馬上の人となっていた。ある者は単騎で、またある者は他の者が操る馬の後ろに二人乗りとなり、また馬が跨げない子供や傷病人、老人等は、荷馬車に乗せられていた。彼らが持つ荷物はほとんどなく、セルピェンの森までの移動と、その後の戦いに必要な食料を除けば、ほとんど着の身着のままと言えた。
すでに1,000の索敵隊と、ヘルマン率いる3,000の別動隊は、本隊と別れて行動を開始している。本隊についても、セルピェンとティグリの森の中間付近で分派し、別行動を取る予定だった。
彼らは皆、何度も後ろを振り返り、刻一刻と小さくなるティグリの森を眺めていた。また戻ってくるとは言え、一時でも自らの故郷を捨てるという自らの行為に忸怩たる思いと、森を敵に委ねる事に対する謝罪を籠め、じっと森を見続けていた。
柊也はシモンが操る馬の後部に跨り、シモンの美しく引き締まった腰にしがみ付いていた。柊也は、ナディアから受け取った革ひもを右肩に取り付け、それをシモンの腰の前に通して左手で掴んでいた。柊也を後ろに乗せたシモンは、巧みに馬を操り、エルフの騎行に全く後れを取っていなかった。セレーネも別の馬に乗り、シモンの隣を並走している。
森を捨てた翌日の朝、セルピェンの森へ向かう女子供達を切り離した本隊4,500は、草原に陣取り、じっと索敵が齎す情報を待ち続けた。そして、その翌々日の昼に第1報が齎される。
「人族は、ほぼ全軍がティグリの森へと向かっています。その数、約5万。一両日中には森に到着すると思われます」
「ご苦労だった。本隊で体を休めてくれ」
グラシアノが、報告を行ったエルフを労わって休息を促し、代わりに別のエルフが索敵に出発する。遠ざかるエルフの後姿を見ながら、グラシアノが溜息をついた。
「こちらに全軍来たか。とりあえず、空振りにならなかっただけでも良かった」
「ええ、お陰で早期に決着がつけられそうですね」
グラシアノの言葉を聞き、柊也が相槌を打った。
ティグリの脱出は、実は西誅軍の動向を確認せずに行われていた。ティグリのエルフには女子供が混じっている。全員馬に乗せているとは言え、足取りは早くない。西誅軍の動向を見てから行動していては、追い付かれる可能性があった。
想定される西誅軍の動きは、三択だった。ラトンに全軍、ティグリに全軍、あるいは軍を二つに分けるか、のいずれか。このうち軍を分ける案は、可能性が低いと考えてられていた。西誅軍はエルフの各氏族の倍以上の数を誇っているが、逆に言えば、倍程度しかいない。軍を分ければ氏族の総人口とそう大差ない数となり、指揮官としては、敵の本拠地を攻撃するには心許なくなる。実際は、女子供の存在や森の無防備さを考えれば、エルフの戦力を過大評価しているのだが、心理的にはやむを得ない。そして、ラトンとティグリでは、モノから徒歩で1日程度ティグリの方が近く、6対4でティグリではないかと予想していた。
「トウヤ殿の言う通り、ティグリの森には遠巻きに索敵を張らせている。敵がティグリの森に入った後の動きは、すぐにわかるはずだ」
「敵が森に入ったら、3日ほどは森に近寄らないでくれ。下手に刺激して、森から出られると困る。遠路はるばるここまで来てくれたんだ、森でゆっくり休んでもらわんとな」
柊也は、グラシアノに返答すると、笑みを浮かべる。その姿に、グラシアノは思わずうすら寒さを覚えた。
***
モノを出立して5日後、王太子リヒャルトの率いる西誅軍51,000は、ティグリの森を望む所まで進軍していた。途中、エルフの偵察と思しき騎馬が、何度も草原の彼方に見えていたが、その場で馬首を翻して地平の彼方へと消え去り、一度も戦いが起きていない。ただ、その偵察は頻繁に現れており、あまりの鬱陶しさにギュンターは討伐の騎馬を差し向けようとしたが、リヒャルトに留められた。
「放っておけ。どうせ敵の拠点は動けないんだ。いずれ奴らは、我々と剣を合わせざるを得なくなる。それに、あの偵察も、場合によってはこちらの騎馬をおびき寄せようとしているのかも知れないからな。エルフの騎馬術は、人族を上回る。敵地で分派行動を行うのは、控えるべきだろう」
「なるほど、それもそうですな。畏まりました」
リヒャルトの見解にギュンターは頷き、前方の彼方に見える森へと目を向けた。
森は、何処までも続く大草原の中にぽっかりと浮かび、51,000を数える西誅軍を飲み込めるほどの、雄大な広がりを見せていた。エルフ達が、生涯をこの森で暮らすだけあり、木々は生い茂っているものの、その大地は適度に開いており、兵士達を拒まず、むしろ迎い入れようとしているようにも思える。それでも、ところどころに藪が生い茂り、エルフ達が隠れているやも知れなかった。
兵士達はモノの時と同様に、戸板や空となった甕を担いで、ゆっくりと森へと向かって行く。しかし、モノの時とは異なり、いつまで経っても森の中から矢の雨は降ってこない。兵士達は顔を見合わせ、様子を窺った。
「…おかしい。攻撃が来ないな」
「森の奥で待ち伏せしているのでしょうか」
リヒャルトとギュンターは顔を見合わせ、森の様子を見る。51,000の西誅軍を前にしても、森は何の反応も見せない。
やがて、リヒャルトは溜息をつき、ギュンターへと伝える。
「仕方ない、相手の手に乗ってみよう。何をする気かわからんが、矢の雨を受けない分、良しとしよう」
「畏まりました」
リヒャルトの意を酌み、ギュンターが全軍に突入を命じた。
西誅軍は戸板や甕を前に掲げたまま、一斉に森へと駆け出して行く。本軍の両脇からは騎馬団が飛び出し、弧を描くようにして一足先に森へと突入して行く。
そして、騎馬団の後を追う様に森の中へと飛び込んだ兵士達は、戸板や甕を投げ捨て、一気に森の奥へと走る。やがて、森の中は適度に開け、いくつもの丸太小屋が見えてきた。
しかし、誰もいない。
小屋の扉は開け放たれ、風に吹かれて軋みをあげている。そして、扉から顔を出したのは、エルフではなく、山羊だった。山羊は食事を邪魔され、非難するような視線で兵士達を眺め、反芻している。
兵士達は山羊に構わず、次々に小屋に押し入り、エルフ達を捜索する。しかし、どこにもエルフの姿は見つからなかった。辺りには様々な生活物が散乱し、鍋や釜が床に転がっている。エルフの主食であろう薄く平べったいパンがテーブルの上に無造作に置かれており、カビが生え始めている。その様子から、エルフ達が慌ただしくこの場から去って行った事が窺えた。
「結局、一人も見つからなかったか…」
リヒャルトは腕を組み、唸り声をあげる。会議に参集した、カラディナ軍司令のダニエルが、リヒャルトに問いかけた。
「殿下、奴らは一体何処に行ったのでしょうか?」
ダニエルの問いに、リヒャルトは組んでいた腕をほどき、口を開く。
「この世から消える事ができない以上、1箇所だけだな。この奥のエルフの森に逃げ込んだのだろうな」
リヒャルトの答えに、ダニエルは顎をしごきながら呟く。
「この奥となると、…確か、セルピェンでしたか。この森を捨てた理由は、何でしょうな」
「ギュンター、どう思う?」
リヒャルトに問いかけられたギュンターは目を瞑っていたが、暫くして目を開け、見解を述べる。
「おそらくは、兵力の集中ではございませぬか?」
「兵力の?」
「ええ、ダニエル殿。我が軍は51,000。対するエルフは、1氏族あたり20,000から25,000の模様です。単独では、我が軍に勝てない。しかし、3氏族が集まれば60,000を越え、我が軍に数で勝ります。おそらく、奴らはセルピェンを決戦場とするために、ティグリを引き払ったのでしょう。同時にセルピェンの更に奥の氏族も、セルピェンに向かっていると推測されます」
「なるほど」
ギュンターの見解にダニエルは頷き、リヒャルトへと向く。
「では、殿下。合流を阻止すべく、至急追撃しますか?」
ダニエルの提案に、リヒャルトは首を横に振る。
「いや、止めておこう。おそらく間に合わない」
「何故ですか?」
ダニエルの質問に、リヒャルトは視線を横に向ける。そこには、テーブルの上に置かれたエルフの薄いパンがあった。
「あのパンを見てみろ。カビが生えている。つまり、それだけ早い段階で、奴らはこの森を捨てたという事だ。今から追ってもおそらく間に合わないだろうな」
「ああ、言われてみれば確かに。さすがは、殿下」
ダニエルの賞賛を受けたリヒャルトは頷き、口を開く。
「間に合わない以上、こちらも時間をかけて十分な体制を整えるだけだ。奴らは、数の上で我が軍を上回ったとしても、そこには非戦闘員も含まれている。この森を捨てた事で、士気も高くないはずだ。今日明日、ここで休息した後、セルピェンへと向かうぞ」
「御意」
司令部からの指示を受けた兵士達は、嬉々として準備に取り掛かる。エルフ達は取る物も取り敢えず森を去った様で、家畜や食料となる木の実が、そのまま転がっていた。幾ばくかの馬乳酒や羊乳酒を見つけた兵士達は喜び、家畜を殺してその肉を焼き始める。また、開けっ放しの家々に押し入ると金目の物を片っ端から奪い取って行った。
輜重の者達は、その間にもせっせと物資の補給を行う。エルフの貯蔵庫から干し肉や木の実等、そのまま食料となり得る物を馬車に載せ、井戸から水を汲み上げると、水の減った甕の中に次々を入れていった。略奪は、森のあちらこちらで行われ、久しぶりに味わう肉と酒に、全軍が酔いしれた。
――― そして、その夜から地獄が始まった。
「あががががが…」
「く、苦しい…、助けてくれ…」
辺りの至るところで兵士が転がり、喉を掻きむしっている。その顔は皆、土気色に染まり、刻一刻と死に近づいている様子が窺えた。一部の者は痙攣が始まっており、すでに助かる見込みはない。その様子を、未だ健全な兵士達が、皆一様に恐怖の眼差しで眺めていた。その惨状は、西誅軍のあちらこちらで起き、恐慌が全軍へと広がっていく。
「くそっ!エルフどもめ!何て悪辣な事を!」
司令部では、リヒャルトがテーブルを叩きつけ、怒りを露わにした。エルフ達は、よりにもよって自らの生活基盤を破壊してまでして、西誅軍を奸計に嵌めたのだ。エルフ達の、自らの将来を閉ざす行動に、リヒャルトは信じられない思いだった。戦いとは、何かを獲得するための行為だ。栄光や名誉や財物等、獲得するための行為だ。エルフ達が行ったような、何も得られない、むしろ全てを失う行為を、リヒャルトは戦いとは認めたくなかった。
「毒の種類は、まだわからんのか!?」
リヒャルトは、従軍する数少ない薬師を問い詰める。人族世界では魔法が浸透しており、外科系はほとんど治癒魔法で処置をしている。特に軍事行動では刀傷等の外科系の被害が際立つので、薬師といった者は、ほとんど従軍していなかった。
リヒャルトに睨みつけられた薬師は首を縮め、小さな声で答えた。
「未だ特定できておりません。おそらくは、中原にはない未知の毒と思われます」
「くそ!」
リヒャルトは椅子を蹴り倒すと、青い顔をしているギュンターとダニエルに指示する。
「この混乱を狙って、エルフどもが攻撃してくる可能性がある。全軍で警戒態勢にあたれ!」
「はっ!」
ギュンターとダニエルは即座に行動に移り、やがて西誅軍は篝火を焚き、エルフ達の攻撃に備える。軍の中では大勢の者がのたうち回っており、その者達を、まだ健康な兵士達が必死に介護していた。しかし、その努力も空しく、一人、また一人、息絶えていく。
西誅軍を覆った緊張と恐怖の帳は、開かれる事なく一晩中続いた。
翌朝。
幸いにもエルフ達の夜襲はなく、兵士達は疲れ切った顔で朝を迎える事ができた。兵士達は目に隈を作りながらも一息つき、腰を下ろす。
すでに呻き声は少なくなり、辺りには物言わぬかつての同僚達が、地面に横たわっている。兵士達は彼らに沈痛の眼差しを向け、せめて安らかに眠れるように、穴を掘り、そこに一人ずつ埋めていった。
夜に比べ若干恐怖が和らいだ西誅軍の中で、ただリヒャルト達司令部の面々だけが、より一層青白い顔をして並んでいた。
「まさか…奴ら、このまま攻めてこないつもりか!?」
「…」
リヒャルトはテーブルに両手をつき、歯を食いしばって呻き声を上げる。その声に、ギュンターとダニエルの二人は、答える事ができなかった。彼らの下には、恐ろしい報告が届いていた。
「…輜重部隊が給水を行ってしまった結果、相当数の甕が毒によって汚染されてしまいました。しかも、どの甕が汚染されているか、判別がつきません。辛うじて飲み水に使える甕と判断できたのは、おそらく全体の2割に満たないかと」
「2割だと!?それではモノに戻るのにも、不十分ではないか!」
リヒャルトがテーブルを殴りつけ、喚いている。そのリヒャルトに対し、ギュンターは沈痛な面持ちで口を開いた。
「殿下。こうなっては致し方ありませぬ。一刻も早くモノへと撤退し、態勢を立て直すべきです」
「…」
リヒャルトは顔を上げてギュンターを睨み付け、暫くの間押し黙る。ギュンターもそれ以上は追求せず、じっとリヒャルトの返答を待つ。
やがてリヒャルトは下を向き、歯ぎしりを交えながら絞り出すように声を上げた。
「…仕方ない。全軍、モノへと撤退する」
その日の昼、西誅軍はティグリに着いて僅か1日で撤退を開始した。西誅軍は去り際に丸太小屋に火を放ち、森は多数の煙に包まれる。その中で、西誅軍はほとんど一睡もしておらず、水分が不足気味の状態のまま、急に重くなった足を動かしてモノへと向かう。軍には箝口令がひかれ、飲料水の決定的な不足は、一部の者にしか知られていなかった。
ティグリでの毒による死者は、約8,000。残り43,000の地獄は、始まったばかりだった。
彼らは、全員が馬上の人となっていた。ある者は単騎で、またある者は他の者が操る馬の後ろに二人乗りとなり、また馬が跨げない子供や傷病人、老人等は、荷馬車に乗せられていた。彼らが持つ荷物はほとんどなく、セルピェンの森までの移動と、その後の戦いに必要な食料を除けば、ほとんど着の身着のままと言えた。
すでに1,000の索敵隊と、ヘルマン率いる3,000の別動隊は、本隊と別れて行動を開始している。本隊についても、セルピェンとティグリの森の中間付近で分派し、別行動を取る予定だった。
彼らは皆、何度も後ろを振り返り、刻一刻と小さくなるティグリの森を眺めていた。また戻ってくるとは言え、一時でも自らの故郷を捨てるという自らの行為に忸怩たる思いと、森を敵に委ねる事に対する謝罪を籠め、じっと森を見続けていた。
柊也はシモンが操る馬の後部に跨り、シモンの美しく引き締まった腰にしがみ付いていた。柊也は、ナディアから受け取った革ひもを右肩に取り付け、それをシモンの腰の前に通して左手で掴んでいた。柊也を後ろに乗せたシモンは、巧みに馬を操り、エルフの騎行に全く後れを取っていなかった。セレーネも別の馬に乗り、シモンの隣を並走している。
森を捨てた翌日の朝、セルピェンの森へ向かう女子供達を切り離した本隊4,500は、草原に陣取り、じっと索敵が齎す情報を待ち続けた。そして、その翌々日の昼に第1報が齎される。
「人族は、ほぼ全軍がティグリの森へと向かっています。その数、約5万。一両日中には森に到着すると思われます」
「ご苦労だった。本隊で体を休めてくれ」
グラシアノが、報告を行ったエルフを労わって休息を促し、代わりに別のエルフが索敵に出発する。遠ざかるエルフの後姿を見ながら、グラシアノが溜息をついた。
「こちらに全軍来たか。とりあえず、空振りにならなかっただけでも良かった」
「ええ、お陰で早期に決着がつけられそうですね」
グラシアノの言葉を聞き、柊也が相槌を打った。
ティグリの脱出は、実は西誅軍の動向を確認せずに行われていた。ティグリのエルフには女子供が混じっている。全員馬に乗せているとは言え、足取りは早くない。西誅軍の動向を見てから行動していては、追い付かれる可能性があった。
想定される西誅軍の動きは、三択だった。ラトンに全軍、ティグリに全軍、あるいは軍を二つに分けるか、のいずれか。このうち軍を分ける案は、可能性が低いと考えてられていた。西誅軍はエルフの各氏族の倍以上の数を誇っているが、逆に言えば、倍程度しかいない。軍を分ければ氏族の総人口とそう大差ない数となり、指揮官としては、敵の本拠地を攻撃するには心許なくなる。実際は、女子供の存在や森の無防備さを考えれば、エルフの戦力を過大評価しているのだが、心理的にはやむを得ない。そして、ラトンとティグリでは、モノから徒歩で1日程度ティグリの方が近く、6対4でティグリではないかと予想していた。
「トウヤ殿の言う通り、ティグリの森には遠巻きに索敵を張らせている。敵がティグリの森に入った後の動きは、すぐにわかるはずだ」
「敵が森に入ったら、3日ほどは森に近寄らないでくれ。下手に刺激して、森から出られると困る。遠路はるばるここまで来てくれたんだ、森でゆっくり休んでもらわんとな」
柊也は、グラシアノに返答すると、笑みを浮かべる。その姿に、グラシアノは思わずうすら寒さを覚えた。
***
モノを出立して5日後、王太子リヒャルトの率いる西誅軍51,000は、ティグリの森を望む所まで進軍していた。途中、エルフの偵察と思しき騎馬が、何度も草原の彼方に見えていたが、その場で馬首を翻して地平の彼方へと消え去り、一度も戦いが起きていない。ただ、その偵察は頻繁に現れており、あまりの鬱陶しさにギュンターは討伐の騎馬を差し向けようとしたが、リヒャルトに留められた。
「放っておけ。どうせ敵の拠点は動けないんだ。いずれ奴らは、我々と剣を合わせざるを得なくなる。それに、あの偵察も、場合によってはこちらの騎馬をおびき寄せようとしているのかも知れないからな。エルフの騎馬術は、人族を上回る。敵地で分派行動を行うのは、控えるべきだろう」
「なるほど、それもそうですな。畏まりました」
リヒャルトの見解にギュンターは頷き、前方の彼方に見える森へと目を向けた。
森は、何処までも続く大草原の中にぽっかりと浮かび、51,000を数える西誅軍を飲み込めるほどの、雄大な広がりを見せていた。エルフ達が、生涯をこの森で暮らすだけあり、木々は生い茂っているものの、その大地は適度に開いており、兵士達を拒まず、むしろ迎い入れようとしているようにも思える。それでも、ところどころに藪が生い茂り、エルフ達が隠れているやも知れなかった。
兵士達はモノの時と同様に、戸板や空となった甕を担いで、ゆっくりと森へと向かって行く。しかし、モノの時とは異なり、いつまで経っても森の中から矢の雨は降ってこない。兵士達は顔を見合わせ、様子を窺った。
「…おかしい。攻撃が来ないな」
「森の奥で待ち伏せしているのでしょうか」
リヒャルトとギュンターは顔を見合わせ、森の様子を見る。51,000の西誅軍を前にしても、森は何の反応も見せない。
やがて、リヒャルトは溜息をつき、ギュンターへと伝える。
「仕方ない、相手の手に乗ってみよう。何をする気かわからんが、矢の雨を受けない分、良しとしよう」
「畏まりました」
リヒャルトの意を酌み、ギュンターが全軍に突入を命じた。
西誅軍は戸板や甕を前に掲げたまま、一斉に森へと駆け出して行く。本軍の両脇からは騎馬団が飛び出し、弧を描くようにして一足先に森へと突入して行く。
そして、騎馬団の後を追う様に森の中へと飛び込んだ兵士達は、戸板や甕を投げ捨て、一気に森の奥へと走る。やがて、森の中は適度に開け、いくつもの丸太小屋が見えてきた。
しかし、誰もいない。
小屋の扉は開け放たれ、風に吹かれて軋みをあげている。そして、扉から顔を出したのは、エルフではなく、山羊だった。山羊は食事を邪魔され、非難するような視線で兵士達を眺め、反芻している。
兵士達は山羊に構わず、次々に小屋に押し入り、エルフ達を捜索する。しかし、どこにもエルフの姿は見つからなかった。辺りには様々な生活物が散乱し、鍋や釜が床に転がっている。エルフの主食であろう薄く平べったいパンがテーブルの上に無造作に置かれており、カビが生え始めている。その様子から、エルフ達が慌ただしくこの場から去って行った事が窺えた。
「結局、一人も見つからなかったか…」
リヒャルトは腕を組み、唸り声をあげる。会議に参集した、カラディナ軍司令のダニエルが、リヒャルトに問いかけた。
「殿下、奴らは一体何処に行ったのでしょうか?」
ダニエルの問いに、リヒャルトは組んでいた腕をほどき、口を開く。
「この世から消える事ができない以上、1箇所だけだな。この奥のエルフの森に逃げ込んだのだろうな」
リヒャルトの答えに、ダニエルは顎をしごきながら呟く。
「この奥となると、…確か、セルピェンでしたか。この森を捨てた理由は、何でしょうな」
「ギュンター、どう思う?」
リヒャルトに問いかけられたギュンターは目を瞑っていたが、暫くして目を開け、見解を述べる。
「おそらくは、兵力の集中ではございませぬか?」
「兵力の?」
「ええ、ダニエル殿。我が軍は51,000。対するエルフは、1氏族あたり20,000から25,000の模様です。単独では、我が軍に勝てない。しかし、3氏族が集まれば60,000を越え、我が軍に数で勝ります。おそらく、奴らはセルピェンを決戦場とするために、ティグリを引き払ったのでしょう。同時にセルピェンの更に奥の氏族も、セルピェンに向かっていると推測されます」
「なるほど」
ギュンターの見解にダニエルは頷き、リヒャルトへと向く。
「では、殿下。合流を阻止すべく、至急追撃しますか?」
ダニエルの提案に、リヒャルトは首を横に振る。
「いや、止めておこう。おそらく間に合わない」
「何故ですか?」
ダニエルの質問に、リヒャルトは視線を横に向ける。そこには、テーブルの上に置かれたエルフの薄いパンがあった。
「あのパンを見てみろ。カビが生えている。つまり、それだけ早い段階で、奴らはこの森を捨てたという事だ。今から追ってもおそらく間に合わないだろうな」
「ああ、言われてみれば確かに。さすがは、殿下」
ダニエルの賞賛を受けたリヒャルトは頷き、口を開く。
「間に合わない以上、こちらも時間をかけて十分な体制を整えるだけだ。奴らは、数の上で我が軍を上回ったとしても、そこには非戦闘員も含まれている。この森を捨てた事で、士気も高くないはずだ。今日明日、ここで休息した後、セルピェンへと向かうぞ」
「御意」
司令部からの指示を受けた兵士達は、嬉々として準備に取り掛かる。エルフ達は取る物も取り敢えず森を去った様で、家畜や食料となる木の実が、そのまま転がっていた。幾ばくかの馬乳酒や羊乳酒を見つけた兵士達は喜び、家畜を殺してその肉を焼き始める。また、開けっ放しの家々に押し入ると金目の物を片っ端から奪い取って行った。
輜重の者達は、その間にもせっせと物資の補給を行う。エルフの貯蔵庫から干し肉や木の実等、そのまま食料となり得る物を馬車に載せ、井戸から水を汲み上げると、水の減った甕の中に次々を入れていった。略奪は、森のあちらこちらで行われ、久しぶりに味わう肉と酒に、全軍が酔いしれた。
――― そして、その夜から地獄が始まった。
「あががががが…」
「く、苦しい…、助けてくれ…」
辺りの至るところで兵士が転がり、喉を掻きむしっている。その顔は皆、土気色に染まり、刻一刻と死に近づいている様子が窺えた。一部の者は痙攣が始まっており、すでに助かる見込みはない。その様子を、未だ健全な兵士達が、皆一様に恐怖の眼差しで眺めていた。その惨状は、西誅軍のあちらこちらで起き、恐慌が全軍へと広がっていく。
「くそっ!エルフどもめ!何て悪辣な事を!」
司令部では、リヒャルトがテーブルを叩きつけ、怒りを露わにした。エルフ達は、よりにもよって自らの生活基盤を破壊してまでして、西誅軍を奸計に嵌めたのだ。エルフ達の、自らの将来を閉ざす行動に、リヒャルトは信じられない思いだった。戦いとは、何かを獲得するための行為だ。栄光や名誉や財物等、獲得するための行為だ。エルフ達が行ったような、何も得られない、むしろ全てを失う行為を、リヒャルトは戦いとは認めたくなかった。
「毒の種類は、まだわからんのか!?」
リヒャルトは、従軍する数少ない薬師を問い詰める。人族世界では魔法が浸透しており、外科系はほとんど治癒魔法で処置をしている。特に軍事行動では刀傷等の外科系の被害が際立つので、薬師といった者は、ほとんど従軍していなかった。
リヒャルトに睨みつけられた薬師は首を縮め、小さな声で答えた。
「未だ特定できておりません。おそらくは、中原にはない未知の毒と思われます」
「くそ!」
リヒャルトは椅子を蹴り倒すと、青い顔をしているギュンターとダニエルに指示する。
「この混乱を狙って、エルフどもが攻撃してくる可能性がある。全軍で警戒態勢にあたれ!」
「はっ!」
ギュンターとダニエルは即座に行動に移り、やがて西誅軍は篝火を焚き、エルフ達の攻撃に備える。軍の中では大勢の者がのたうち回っており、その者達を、まだ健康な兵士達が必死に介護していた。しかし、その努力も空しく、一人、また一人、息絶えていく。
西誅軍を覆った緊張と恐怖の帳は、開かれる事なく一晩中続いた。
翌朝。
幸いにもエルフ達の夜襲はなく、兵士達は疲れ切った顔で朝を迎える事ができた。兵士達は目に隈を作りながらも一息つき、腰を下ろす。
すでに呻き声は少なくなり、辺りには物言わぬかつての同僚達が、地面に横たわっている。兵士達は彼らに沈痛の眼差しを向け、せめて安らかに眠れるように、穴を掘り、そこに一人ずつ埋めていった。
夜に比べ若干恐怖が和らいだ西誅軍の中で、ただリヒャルト達司令部の面々だけが、より一層青白い顔をして並んでいた。
「まさか…奴ら、このまま攻めてこないつもりか!?」
「…」
リヒャルトはテーブルに両手をつき、歯を食いしばって呻き声を上げる。その声に、ギュンターとダニエルの二人は、答える事ができなかった。彼らの下には、恐ろしい報告が届いていた。
「…輜重部隊が給水を行ってしまった結果、相当数の甕が毒によって汚染されてしまいました。しかも、どの甕が汚染されているか、判別がつきません。辛うじて飲み水に使える甕と判断できたのは、おそらく全体の2割に満たないかと」
「2割だと!?それではモノに戻るのにも、不十分ではないか!」
リヒャルトがテーブルを殴りつけ、喚いている。そのリヒャルトに対し、ギュンターは沈痛な面持ちで口を開いた。
「殿下。こうなっては致し方ありませぬ。一刻も早くモノへと撤退し、態勢を立て直すべきです」
「…」
リヒャルトは顔を上げてギュンターを睨み付け、暫くの間押し黙る。ギュンターもそれ以上は追求せず、じっとリヒャルトの返答を待つ。
やがてリヒャルトは下を向き、歯ぎしりを交えながら絞り出すように声を上げた。
「…仕方ない。全軍、モノへと撤退する」
その日の昼、西誅軍はティグリに着いて僅か1日で撤退を開始した。西誅軍は去り際に丸太小屋に火を放ち、森は多数の煙に包まれる。その中で、西誅軍はほとんど一睡もしておらず、水分が不足気味の状態のまま、急に重くなった足を動かしてモノへと向かう。軍には箝口令がひかれ、飲料水の決定的な不足は、一部の者にしか知られていなかった。
ティグリでの毒による死者は、約8,000。残り43,000の地獄は、始まったばかりだった。
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