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第5章 西誅

88:業

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「ティグリの森を、捨てるだとぉ!?」
「トウヤ殿!?本気か!?」
「トウヤさん!?」
「トウヤ!?」

 グラシアノをはじめとするティグリのエルフ達は勿論、柊也の両脇に座るシモンとセレーネさえも仰天し、柊也を見やる。集会場の全ての視線を一身に受けても柊也は動じず、頷く。

「そんな!戦わずして、この森を明け渡すなどと…!」
「待ってくれ、話を最後まで聞いてくれ」

 溜まりかねた一人のエルフが声を張り上げ、腰を上げるが、それを柊也は左手を上げてそれを制し、言葉を続けた。

「この森を捨てるのは、何も相手に明け渡すためではない。…先ほども言ったろ?あなた達は、狩りの時、前回手も足も出ず、コテンパンにされた獲物を相手にして、同じ手法で仕留めようとするのか?」
「何!?」

 機先を制され鼻白んだエルフが、責めるように柊也を睨み付けた。だが柊也は構わず、淡々と、まるで底なしの穴の底から外界に語り掛けるように、説明する。

「…ジョカの葉汁」
「ジョカの葉汁がどうした!?」



「ティグリの森の全ての井戸に投げ込み、汚染しろ」



「「「…」」」

 集会場にいる者達は、誰一人、声を発しなかった。人々の顔色はおろか、空気さえも青白く変わる中で、柊也だけが穴の底から語り掛ける。

「奴らにとって水の確保は至上命題で、なおかつ全てが手探りだ。謀略に気を回す余裕などない。この大草原には川も水場も存在せず、エルフの森が唯一の給水所だ。奴らは森に入れば、必ず水を求める。そこで仕留める」
「…し、しかし…」
「セレーネから聞いている。ジョカの葉汁は、ジョカの実の粉末で中和できると。それは、エルフの常識だと。違うか?」
「…いや、ち、違わない」
「グラシアノ殿」
「な、何だ」

 柊也に名前を呼ばれ、グラシアノが気圧されながら返事をする。

「汚染された井戸は、ジョカの実を入れれば中和できるな?」
「…あ、ああ。ジョカの実を入れれば、これまで通り生活に使える」
「そうか。それとここの気候だが、今は乾季で、雨もほとんど降らないのではないか?」
「そ、そうだ。何故、それを知っている!?」

 柊也の質問に、グラシアノが驚きをもって答えた。

 柊也は、大草原がいわゆるサバンナではないかと推測していた。そして、サバンナであれば、冬は乾季に当たる。グラシアノから推測通りの答えを得て、柊也は口の端を吊り上げる。

「少し心当たりがあってね、予想通りで何よりだ。それと、ジョカの実の残量は?全ての井戸を中和できるか?」
「それは問題ない。例年、ガリエルの第1月頃に実がなり、収穫済みだ。その在庫が十分にある」
「それは好都合。この時期、自然界ではジョカの実は得られないという事だな?」
「その通りだ。我々エルフが持つ在庫が全てだ」

 グラシアノから新たな情報を得た柊也は、満足そうな笑みを浮かべる。その笑顔に、グラシアノは思わず背筋を寒くする。

 柊也は、ティグリのエルフ達に、焦土戦を提示したのだ。

 柊也の脳裏に浮かぶのは、すでに遠い過去の出来事となった、美欧大学史学科の数々の講義。その中で見聞きした、地球における数々の戦争。太平洋戦争でおきた、ガダルカナル島をはじめとする南洋での消耗戦。日中戦争における泥沼の戦い。ナポレオンのロシア遠征が齎した、無残な結果。そして、独ソ戦と呼ばれる、4年に渡ってユーラシア大陸の西半分を席巻した地獄。いずれもが、守備側でさえも守るべき土地を荒廃させ、ボロボロになって掴んだ勝利。この世界の戦いとは比較にならないほど、残虐で凄惨な戦い。

 大草原の懐は深い。懐の深さは、それ自体が大きな武器である。その懐の深さを利用して、焦土戦を展開する。攻撃側の補給を圧迫し、剣も弓も弾薬も兵も用いずに攻め立てる。その代わり守備側は、自ら守るべきものを全て失う。勝者も敗者も全てを失う、全く救いのない戦い。ただ一つを得るために、全てを失う、まさしく究極の取捨選択に相応しい。

「我々は、兵を殺す必要はない。輜重を殺せ。輜重が死ねば、兵も死ぬ」

 柊也は笑いを収めると、グラシアノを覗き込むように身を乗り出し、決断を促す。

「グラシアノ殿、決断してくれ。森と財物と誇りを捨て、民を救うか、否か。ティグリのエルフの意思を聞かせてくれ」
「…」

 柊也の研ぎ澄まされた、激烈な取捨選択の切っ先が、グラシアノに突きつけられる。

 グラシアノは、暫く目を閉じた後、目を開き、集会場に座るエルフ達を見渡した。その一人一人の目と目を合わせ、そして次へと移っていく。その誰もが言葉を発さず、何人かが軽く顎を引く他、ただ黙っていた。

 グラシアノは一同を見渡すと、セレーネへと視線を向ける。セレーネも押し黙ったまま、静かに顎を引く。ただ、唾を飲み込んで喉を鳴らした事だけが、違っていた。

 グラシアノは最後にシモンを見た後、柊也へと顔を向け、口を開く。

「トウヤ殿、その案を提示してくれた事、心より感謝する。このティグリのグラシアノ、最悪の選択の中で汚名を被り、迷わず民を選ぼう」



 ***

「急げ!ありったけの馬を掻き集めろ!」
「セルピェンの森に早馬を出せ!女子供の受け入れを要請しろ!」
「家畜や家財は捨て置け!その代わり、ジョカの実の粉は残さず持て!」
「手の空いている者は、森の周囲からジョカの葉を摘んで来るんだ!」

 グラシアノの決定を受け、ティグリの森中が蜂の巣をつついたような大騒ぎになる中、柊也がグラシアノに声をかけた。

「グラシアノ殿、セルピェンのエルフに伝えてくれ。場合によっては、彼らにも森を捨ててもらう」
「何だと!?」

 愕然とした顔をしたグラシアノに対し、柊也は淡々と言葉を紡ぐ。

「奴らの水の備蓄は最大で半月程度と見ている。万が一策に気づいた場合は、給水せずにセルピェンに押し寄せる可能性も残っている。その時は、我慢比べだ」
「わ、わかった」

 何処までも冷徹な判断を下す柊也に、グラシアノは気圧されつつ、伝令を呼んで趣旨を伝える。そして柊也の策は、それでは終わらない。

「グラシアノ殿、ティグリの持つ兵力を教えてくれ」
「男だけなら9,000。女もかき集めれば、13,000だ」
「馬は?」
「13,000人分揃う」
「全員騎馬で行けるという事だな?それは僥倖」

 柊也は、歯を剥き出しにして笑みを浮かべる。

「グラシアノ殿、9,000で本隊を構成してくれ。俺とシモンも同行する。半数は、ティグリとセルピェンの中間点で待機、敵の動向を窺う。もう半数は、セルピェンへの避難を介助し、その後本隊と合流だ」
「わかった」
「1,000は索敵に出してくれ。交代で敵に張り付き、動向を逐次本隊に報告するんだ。戦う必要はない、追われたら迷わず逃げろ。それと、その際は必ずティグリの森を通過しろ。ティグリの森におびき寄せるんだ」
「あ、ああ」

 矢継ぎ早に出される指示に、グラシアノはおろか、シモンとセレーネも目を丸くする。周りの視線を意に介さず、柊也はヘルマンへと顔を向ける。

「ヘルマン殿は3,000を率い、迂回してモノへ向かい、敵の駐留軍の様子を窺ってくれ」
「わかった。隙あらば、奪還しろという事か?」

 ヘルマンは期待を込めて問うが、柊也は首を横に振る。

「いや、奪還できるならして構わないが、それは本命ではない」
「というと?」

 問いかけられた柊也は、黒い、まるで穴の底の様な瞳でヘルマンを見ながら、躊躇いもなく言い切った。

「モノの井戸も全て汚染するんだ。退路を塞ぐ」
「な!?」

 グラシアノもヘルマンも、そしてシモンもセレーネも、呆然とした顔で柊也を見る。

「奪還できたら、虜囚とジョカの実だけ持ち出し、撤退してくれ。後は放置して構わん」
「そ、そこまでして…」

 ヘルマンは、呼吸困難に陥ったかのように、口を開閉させる。柊也の、穴の底からの声掛けが続く。

「日和るなよ?ヘルマン殿。民を、エルフを守りたいのなら、誇りは捨てろ。何処までも徹底して、汚く、無慈悲に行動しろ。後でいくらでも後悔していい。だが、今は自ら率先して泥をかぶり、配下の者への規範となれ。…それが、指導者というものだ」
「…了解した。必ずや任務を達成させてみせよう」



 慌ただしい一日が終わり、暗闇が森を支配すると、人々は一旦家路に着く。23,000全員の避難となると、一朝一夕でできるものではなかった。それでも何とか全ての準備を整え、明日には避難が開始できる算段が立ちそうだった。

 柊也とグラシアノ、そしてヘルマンの三人は、グラシアノの家で遅くまで詰めの協議を行っている。傍らにはシモンとセレーネが貼り付き、ナディアも持ち出す荷物の準備の合間に飲み物を注ぎに来て、そのまま三人の様子を見守っていた。

「…よし。こんなところだな。これなら、明日昼前には出立できそうだな」
「私も明日、別動隊を率いて出立します」
「ヘルマン殿、気を付けて」
「ヘルマン、モノを頼むぞ」
「わかりました」

 自らの準備を整えるためヘルマンが席を立ち、家路に着くのをナディアが見送る。部屋から出るヘルマンを見送った四人は、明日に備え、散会する。

「ではトウヤ殿、また明日。それと改めて礼を言わせてもらおう。この恩は、一生忘れない」
「礼を受けるのは、まだ早いです、グラシアノ殿。それは全てが終わってからにしましょう」

 柊也の指摘に、グラシアノが溜息をついた。

「そうだな…、まだ戦いは始まってすらもいないな。失礼した」
「ええ、これからが正念場です」

 グラシアノが席を立ちながら左手を差し出すと、柊也がそれに応じ、二人は固い握手を交わした。

「では、グラシアノ殿、セレーネ、また明日」
「ああ、トウヤ殿、シモン殿、お休み」
「お休みなさい、トウヤさん、シモンさん」
「ああ、お休み、グラシアノ殿、セレーネ」



 グラシアノ達と別れた柊也とシモンは、割り当てられた部屋へと入る。柊也が先に部屋へと入り、シモンが扉を閉め、鍵をかけた。

「…」

 すると、シモンは柊也に駆け寄り、立ったままの柊也の左手を引き寄せ、そのまま身を倒して二人ともベッドへと倒れ込む。シモンは両手を柊也の背中に回し、柊也の頭を自分の豊かな胸元に埋めさせる。

「…トウヤ」

 ベッドの上に美しい銀色の髪が広がり、シモンの甘い匂いが舞い上がる。シモンは柊也の下敷きになったまま柊也の頭と背中を抱え込み、二人はそのまま動かない。

 傍から見れば、恋人同士の甘く切ないひととき。しかし、やがて柊也の口から出た言葉は、色香に溺れる男の声ではなく、血にまみれた魂の慟哭だった。

「…目を背けるな、認めろ。お前が、お前が、5万の人々を殺すんだ。…笠間木柊也、お前が殺すんだ。…糞ぉ!俺は、謝らん!決して、決して謝らんぞぉ!」
「トウヤ!」
「笠間木柊也!お前が2万のエルフの手を汚させ、5万人を殺すんだ!受け入れろ!業を抱えろ!そして、手を汚した者達のために、異郷の地で屍を晒す者達のために、決して謝るな!…畜生おおおおおおおお!」

 柔らかな胸の谷間に顔を埋めながら、柊也は涙を浮かべ、歯を食いしばり、叫び声を上げる。

 謝罪とは、自分への贖罪であるとともに、その行動の否定である。柊也は、2万のエルフと5万の人族、その人生を翻弄する自分を、謝罪一つで解放するつもりはなかった。それをしたら、7万の人々を襲った運命を否定する事になる。血を吐こうとも7万の運命を決めた責任を抱えて、生きていかなければならない。

 そんな柊也を、シモンは涙を流しながら固く抱きしめる。

「トウヤ!トウヤ!私は離れない!あなたが何をしようとも、私は決して離れない!例え全世界があなたの敵に回ったとしても、私だけは、あなたの味方だ!だから、だから!…私にだけは全てを吐き出してくれ!」
「があああああああああああ!」

 激情のあまり、柊也はシモンの豊かな胸に噛み付いて歯を立てる。シモンは、その痛みに身を委ね、柊也の体をより一層強く抱きしめる。

 中原から遠く離れた大草原の片隅で、今やお互いの存在が全てとなった男女が、互いの魂を啜り合って生き藻掻いていた。
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