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第4章 北伐

57:由々しき問題

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 左肩から頬にかけて熱を感じ、美香はぼんやりと考える。

 やべ、また寝ちゃった。私、寝る前に日焼け止めクリーム塗ったっけ?また片面焼きになったら、久美子達に笑われる。裏返して、もう片面も焼かないと。

 そう思って美香は寝返りを打とうとするが、体が動かない。理由が思い至らず、美香はゆっくりと目を開いた。

 辺りが暗く沈み渡る中、目の前で焚火が煌々と揺らめいていた。時折、薪の爆ぜる音が聞こえてくる。

「…あれ?」

 私、キャンプに来てたんだっけ?そう考え込む美香の頭上から、男の声が降り注ぐ。

「ミカ殿、気づかれたか」
「…え?」

 美香が見上げると、精悍な男の顔が、上下逆さまに美香を見下ろしている。その向こうは、満面の星空に覆われていた。

「…オズワルド、さん?」
「ああ」

 あれ?何で私、オズワルドさんとキャンプに来てるの?オズワルドさんて、久美子と知り合いだっけ?

「ミカ殿、体の塩梅はどうだ?動けそうか?」
「…あれ?」

 あれ?何で私、体が動かないんだ?

「あれ?何で私、体が動かないの?」
「…『ロザリアの槍』を詠唱したためだろう。やはり、前回よりダメージが深いようだな」
「…あ…」

 美香の混乱は、「ロザリアの槍」を聞いた途端終息し、思考がクリアになる。それでも、その後しばらくの間、美香はオズワルドを見上げたまま黙り込み、頭の中を整理していた。

「…」

 オズワルドはしばらく美香を見続けていたが、やがて前を向き、焚火に薪をくべる。一瞬、橙色の光が大きく揺らぎ、影が美香から見て上下に揺れた。

「…オズワルドさん」
「何だ?」
「…ロックドラゴン、どうなりました?」
「…わからん」

 オズワルドが美香を見下ろし、言葉を続ける。

「我々は、『ロザリアの槍』の発動とともに吹き飛ばされ、川に落ちた。だから、結果はわからない。だが、きっと上手くいったはずだ」
「…そうですね」

 オズワルドの回答は、全く根拠のないものだ。しかし、美香はオズワルドの気遣いに感謝し、彼の見解に同意した。

「…」

 二人は口を噤み、静寂の中、時折薪の爆ぜる音だけが聞こえてくる。オズワルドは再び顔を上げ、右を向いて何かに手を伸ばした。薪か何かだろうか。美香はオズワルドの行動につられて下を向き、そして動かなくなる。

 焚火が齎す橙色の光が、慎ましい自分の体の表面を明るく照らしている。スクリーンは肌色一色で統一され、胸と足の付け根の2箇所だけが白色の布で覆われているが、布は湿気を含み、内側の色を淡く透かし上げている。その上で橙の光と黒い影が、激しく踊り狂っていた。

「…オズワルドさん」
「何だ?」

 美香が上を向いてオズワルドに問いかけ、オズワルドが再び下を向く。

「…見ました?」
「…」

 オズワルドは顔を上げ、焚火を見つめる。

「…いいや」
「…」

 薪が爆ぜ、光が揺らぐ。

「…オズワルドさん。怒りませんから、正直に話して下さい」

 オズワルドは顔を上げたまま、焚火を見つめる。

「…」
「…」

 ちょっと、何で黙るの?何か喋れ。



 ***

「ミカ殿、食事は取れそうか?」

 暫らく時間が経ち、時効を迎えたと判断したのだろうか、オズワルドが話題を変えてきた。美香は内心色々と追求したかったが、後日の楽しみに取っておく事にする。

「はい。何とか」
「わかった」

 そう答えると、オズワルドは美香を抱え上げ、自分の膝の上に座らせる。そして、右手をゴソゴソと動かし、背中に回した左手に筒を持たせると、右手で固い大きめの葉を添える。そして筒を上下に振ると、葉の上にしっとりとした米粒が出てきた。

「携帯食だ。川の中で濡れてしまったが、その分食べやすくなっているだろう」

 オズワルドはそう説明すると、美香の口元に葉を寄せる。美香が口を開くと、オズワルドは葉を傾け、携帯食を注ぎ込んだ。

「んぐ…」

 美香はゆっくりと携帯食を噛む。携帯食は思ったよりも味が良く、水を含んだ事で冷えた塩おにぎりの様な味がした。美香が携帯食を噛んでいる間にオズワルドは葉に次の携帯食を盛り、美香の口元に寄せ、じっと待っている。そして美香が口を開くと、次の携帯食を注ぎ込んだ。

 やがて美香が口を動かしながら大きく首を縦に振ると、オズワルドは頷き、葉を引っ込める。そして筒を右手に持ち替えると、自分の口に寄せ、上を向いて流し込んだ。
 オズワルドは顎を動かしながら下を向いてもう1本筒を取り出し、美香の口元に寄せた。

「水だ。飲むか?」
「いただきます…」

 美香は雛鳥のように口を開き、オズワルドは筒を傾けた。



 食事が終わると美香は再び横になり、焚火を見つめる。手足は未だに感覚がなく、戻る様子は一向に見られなかった。

「…」
「…」

 焚火が揺らめき、薪が爆ぜる。二人は長い間、焚火を見つめていた。

「…オズワルドさん」
「どうした?」

 やがて美香が上を向き、口を開く。オズワルドが下を見ると、そこには美香の意を決した様な顔があった。

「…非常に大きな問題が…」
「…何があった?」

 美香の発言に不吉さを感じ、オズワルドの顔が険しくなる。オズワルドは美香の続く言葉を、じっと待つ。

「…」
「…何があった?教えてくれ、ミカ殿」

 美香は黙り込んだまま、何度も視線を下へと向ける。オズワルドはそれに気づいていたが、視線につられると見てはいけないものがあるので、ひたすら美香の顔を窺う。

「…はぁ」

 やがて観念した様に美香が目を閉じ、溜息を吐く。そして再び目を開くと、由々しき問題を口にした。

「…トイレに行きたいんです」
「…」

 オズワルドは、上を向く。空には満面の星々が瞬いている。

「…ミカ殿」

 やがて美香の名を呼んだオズワルドは、ゆっくりと下を向く。

「…教えてくれ。私は一体、どうしたらいいんだ?」

 この日、オズワルドは、生まれて初めて途方に暮れた。



 月が明るく周囲を照らす中、上半身裸の男が女を抱え、河原を歩いている。その眉目の整った精悍な男の顔はかつてないほど険しく、まるでこれから厳粛な儀式を執り行うかのように緊張していた。

「オズワルドさん。あそこ、あの左の岩の所へお願いします」
「…わかった」

 美香が首を回して方向を示し、オズワルドが頷く。そこには、川沿いに大きな岩が突き立ち、川を向いてなだらかな斜面を形成していた。

 オズワルドは岩の斜面に背を預ける様にして、美香を下ろす。美香は糸の切れた操り人形の様に、両手を脇に垂らし両足を川に投げ出した様な格好で河原に座り込んだ。お尻が波打ち、冷たい。

「オズワルドさん、下着を下ろして下さい」
「…」

 オズワルドは美香の前に回り、片膝をつく様に腰を下ろすと、両手を美香の腰へと伸ばす。オズワルドは可能な限り顔を背け、力いっぱい目を瞑っている。ねぇ、ちょっと。そんなに嫌なの?

 オズワルドは手探りで美香の下着の両裾を探り当てると、指で摘まみ、ゆっくりと下へ下ろす。やがてオズワルドの手は、美香の柔らかい曲線に沿って移動した後、地面にぶつかって動かなくなった。

「…」
「…」

 目を閉じたまま、オズワルドの顔が強張り、美香は溜息をついた。

「オズワルドさん、体を持ち上げて、下を通して下さい」
「…」

 美香の声を聞いて、オズワルドは目を閉じたまま考え込んだ後、美香の脇の下に頭を通すと肩を引っかけて背を起こし、美香の腰を浮き上がらせる。下着を引き、太腿の中頃までずり下ろす。そして頭を下げ、再び美香を河原に下ろした。

「はい。それで両膝を立てて、もっと足を広げて下さい」
「…」

 オズワルドは目を閉じて顔を背けたまま、手探りで美香の腿を探り当て、ゆっくりと美香の望む姿勢に整える。何この、お触りバー。

「はい、大丈夫です。ありがとうございます」

 やがて準備が整い、美香が礼を言うと、オズワルドは依然目を閉じながら岸へと上がり、美香に背中を向ける。そして両手を振り上げる様にして掌を自分の耳に当てると、仁王立ちしたまま力いっぱい耳を塞いだ。その姿を見届けた美香は前を向き、渓流を眺める。

「…」

 川のせせらぎと、木々のそよぐ音だけが聞こえて来る。

 やがて、一息ついた美香はオズワルドの背中に向かって、声をかけた。

「オズワルドさん、もういいですよ」
「…」
「…オズワルドさん?」

 オズワルドは美香に背を向けたまま、耳を塞いでいる。手足はまだ動かない。

 …私、どうしたらいいんだ?

 問題は山積みだった。



「…ミカ殿、もういいか?」
「はい、大丈夫です」

 もう十分に。たっぷり10分もお尻を波打たれていた美香は、皮肉を込めて返答する。このままでいたら、第二波が来てしまう。拭くのは諦める。オズワルドにそれを頼んだら、二人とも色々な扉を開けてしまいそうだ。

 美香の返答を聞いたオズワルドは再び川へと足を踏み入れ、目を閉じて体の向きを変えると、腰を下ろし、美香の足へ手を伸ばす。オズワルドの手は下着を行きすぎ、太腿の付け根に掌を当てると、そのまま左右に揺れ動いた。ねぇ、これまさぐってるよね?これこそ「まさぐる」って表現が相応しいよね?

 何かもう色々と面倒臭くなった美香は溜息をつき、オズワルドに声をかけた。

「オズワルドさん」
「どうした?」

 オズワルドが、太腿を弄りながら答える。

「もう、見てもいいですよ」
「いや、それは駄目だ」

 これ以上ないくらい、迅速で強固な否定の意思が返ってくる。

「…どうしてですか?」
「それは、色々と問題がある。駄目だ」

 太腿を弄るのは、問題がないんですか?

「…オズワルドさん」
「…なんだ?」
「…私の事、嫌いですか?」
「いや!そんな事はないぞ!」

 オズワルドが強い調子で顔を上げ、目を開いて美香の顔を見つめる。

「…」
「…」

 美香とオズワルドの視線が交差したまま、動かなくなる。川のせせらぎの音が、やけに大きく耳に響く。

 やがて美香が視線を外すように下を向き、それを見たオズワルドは悔やむように唇を噛み、下を向いた。

「…あ」
「…」

 美香は下を向いたまま、上目遣いで様子を窺っている。

 そして二人は、示し合わせた様に、同時に顔を上げた。

「…オズワルドさん」
「…」
「…見ましたよね?」
「…」

 オズワルドは黙ったまま横を向き、目を閉じる。だから黙らないで。何か喋って。



 長い長い河原での二人羽織がようやく終わり、オズワルドが疲れ切った体に鞭打ち、美香を横抱きに抱え上げて岩棚への窪みへと戻ってきた。何かもう、疲れた。オズワルドはこの後の不寝番を想像して彼にしては珍しく気が滅入り、弱音を吐きそうになる。そんな彼の耳に、美香の小さな呟きが聞こえてきた。

「…これでもう一つの方が来たら、私、どうしたらいいんだろう…」
「…」

 この日、オズワルドは、生まれて初めて絶望というものを知った。



 焚火が揺らめき、薪が爆ぜる。美香は、先ほどと同じようにオズワルドに抱きかかえられ、ぼんやりと焚火を見つめていた。

 オズワルドが右手で薪を取り、焚火へくべる。薪を無理矢理捻じ込まれた焚火が抵抗を試み、薪が大きく爆ぜ、火の粉を散らした。

「熱っ…」
「大丈夫か?ミカ殿」

 オズワルドが美香を気遣い、声をかける。美香はしばらくの間黙っていたが、やがて口を開いた。

「…オズワルドさん」
「何だ?」
「…それ、止めて下さい」
「…何を?」



「『ミカ』って、呼んで下さい」
「…」

 薪が爆ぜ、光が揺らぐ。

「…呼ばないと、今日の事、言いふらしますよ?」
「なぁ!?…はぁぁぁ、わかったよ、ミカ」

 オズワルドが盛大な溜息を吐きながら了承したのを見届けた美香は、顔の向きを変え、オズワルドの胸板に鼻を押し付ける。そして、大きく息を吸い込んだ。



 ――― やばい。これ、癖になりそう ―――



 肺の中までオズワルドに満たされた美香は安心し、急激に睡魔に飲み込まれていく。

 由々しき問題の特売日が、終りを告げようとしていた。
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