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第4章 北伐

50:王太子来訪

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 ロザリアの第3月に入る頃には、ハーデンブルグは15年ぶりの人と物資で溢れかえっていた。

 すでに街の収容限界を超えており、ハーデンブルグの先に広がる緩衝地帯の草原には即席のバリケードが大きな弧を描き、その内側で1万を超える人族が思い思いに寛ぎ、出発の時を待っている。この後も毎日千人単位での流入が続き、出発を迎える中旬には3万を超える大軍がハーデンブルグに集結する予定だった。

 美香はハーデンブルグの街壁にもたれかけ、上から人族の群れを眺めていた。その顔は明らかに気乗りしない様子で、不貞腐れている様にも見える。

 実際、美香は出立の日が近づくにつれ、だんだんと憂鬱になっていた。いくらこの世界で最強の能力を持ち、唯一S級を撃破できる人間であっても、所詮、中身は齢19の小娘である。血を見るのが好きなわけでもなく、相手を虐げる事に快感を覚える事もない、至って普通の感性の持ち主であり、そういった女性が嬉々として戦場に出ていくわけがなかった。

 オズワルドは以前、美香の事を「母」と評した事があったが、それは決して戦いを好む者を指す言葉ではない。「母」とは、守るべき者を背にした時に限って毅然と戦う者であり、それ以外はむしろ戦いを避ける人種である。美香もその評価に漏れず、避けられる戦いであれば、なるべく戦いたくはなかった。

 しかしこの世界の人々は、美香を傍観者の席には座らせてくれなかった。美香がS級を一撃で下した結果、人々は寄ってたかって美香を神輿の大鳥に括り付けると、そのまま皆で神輿を担いで北伐という新たな祭りへと繰り出そうとしていた。神輿の下では皆が担ぎ手になろうと我先に群がって激しい場所取りが勃発しており、美香は巻き添えを避けるため、神輿から下りる事もできなかった。しかも、担ぎ手は日を追う事に増える一方だった。

 やる気のない美香にカルラが歩み寄り、新たな担ぎ手の来訪を告げた。

「ミカ様、間もなく王太子リヒャルト殿下がお見えになられます。お手数ですが、お部屋までお戻り下さい」



「リヒャルト殿下、このたびは、遠路はるばるハーデンブルグにお越しいただき、誠にありがとうございます。此度の北伐において聡明なる殿下をお迎えした事を知れば、ハーデンブルグの住民は皆、意気軒昂となるでしょう」
「フリッツ、わざわざの出迎え、ご苦労だった。王家としても此度の北伐には、これまでにない期待を寄せている。その意気込みは私も同じでな、わざわざ陛下に北伐への参加をお願いし、結果、名ばかりではあるが北伐の総指揮を仰せつかった。実際の指揮は、コルネリウスが執るがな。貴家の持つ力は、北伐の成功に欠かせないものだ。よろしく頼むぞ」
「勿体ないお言葉です。非才の身ではございますが、北伐の成功のため、全力を尽くさせていただきます」

 アデーレ、マティアス、レティシアが後ろに控える中、フリッツはディークマイアー家を代表して王太子リヒャルトの来訪を歓迎し、リヒャルトは鷹揚に答えた。リヒャルトは、エーデルシュタイン北伐軍の司令官であるコルネリウス・フォン・レンバッハとハインリヒ・バルツァーを伴い、騎士2,500名を率いて、先ほどハーデンブルグに到着したばかりだった。

「後ほど、ささやかではございますが、歓迎の宴を催させていただきます。狭い所ではございますが、殿下におきましては、それまでの間、ごゆるりとお寛ぎください」
「ありがとう。お言葉に甘えさせてもらおう」

 リヒャルトは頷くと、幾分声を落としてフリッツに尋ねる。

「そう言えば、ミカ殿は如何した?こちらに身を寄せて、大分復調されたと聞いているが」
「ええ、ここの水が体に合ったようで、だいぶ持ち直されました。先ほどまで北伐の兵を視察しておりましてな。今こちらにお呼びしているところです」

 ものは言いようである。フリッツは美香の「視察」の仕方をレティシアから聞いていたが、リヒャルトへは伝えず、行動だけを述べた。案の定、リヒャルトは良いように解釈する。

「そうか、それは重畳。流石はミカ殿、ヴェルツブルグにいた時よりその献身さには胸を打たれる思いだったが、『ロザリアの御使い』となって、ついに花開いたようだな。是非その輝かしい力をもって、人族を栄光に導いてもらいたいものだ」

 そう答えたリヒャルトは、傍らにいるハインリヒに目を向けて頷く。ここに来て以降、ずっと厳しい顔をしていたハインリヒだが、この時は険しさが和らぎ、幾分ぎこちない笑みを浮かべてリヒャルトに同意した。

 侍女が入室し、一行に報告する。

「失礼します。ミカ様がお見えになられました」
「構わん。お通ししてくれ」

 リヒャルトの頷きを見て、フリッツが侍女へと伝える。一旦部屋を出た侍女は、再び部屋の扉を開けると扉の脇に立ち、美香の入室を見届けると扉を閉じ退室した。

「おお…」

 思わずリヒャルトが声を上げ、ハインリヒは目を見開いたまま動かなくなった。

 美香はふっくらとした白いシャツを身に着け、同じ白の扇型の襞が波打ち胸元を飾っていた。首元にはカメオのブローチが添えられ、白色の海の中で緑色の台座が際立っている。

 腰回りは黒に見える暗緑色のコルセットで締まり、そこから同色のスカートのギャザーが、鮮やかに花開く。そしてスカートから伸びる細い脚は黒色の靴下と靴に覆われ、しなやかな花柄の様に美香を支えていた。

 そして秀麗ではあったが子供っぽさが前面に出ていた顔立ちはこの9ヶ月の間に大人び、伸ばし続けた不揃いの髪の毛が、卵の様に整った顔の輪郭を弱々しくも飾り始める。その姿は蕾が今まさに花開こうとする、あるいは羽化直後の羽を伸ばし始めた蝶を思わせる、一時的な歪みを伴った姿だった。

 美香は少女らしく小走りに駆け寄ると、両手でスカートの裾を摘まみ、慣れないこちらの礼儀でリヒャルトに挨拶をする。

「ご無沙汰しております、リヒャルト様。ご心配をおかけし、申し訳ございません」
「…あ、ああ。ミカ殿、久しぶりだな。しばらく見ないうちに、見違えるほどお美しくなられた」

 不意打ちを受けたリヒャルトは、一瞬返答に遅れる。そして、それを取り繕うかのように美香の両手を取り、美香の体を気遣った。

「その後、体の調子はどうだ?ヴェルツブルグで辛い思いをされたミカ殿を見て、私はこの国を統べる家の者として、忸怩たる思いだった。此処ハーデンブルグで、かなりお元気になられたと聞いているが」
「お気遣いいただき、ありがとうございます。此処でディークマイアー家の皆様に本当に良くしていただきまして、お陰様で大分元気になりました。ご安心下さい」
「そうか、それは良かった。あなたの笑顔を見る事ができて、私も胸のつかえが取れる思いだ」

 傍で聞いていたフリッツからすれば、ここで王家に快復をアピールする事は美香に何ら益を齎さず、むしろ頭痛の種が増えるだけなのだが、それを顔に出す事はなく、二人の会話を暖かく見守る。美香の裏表のない、誰彼とも分け隔てなく向ける笑顔は彼女の紛れもない長所であり、削ぐべきものではなかった。

 リヒャルトとの挨拶を終えた美香は、名残惜しそうなリヒャルトの手を自然な動作で振りほどくと、ハインリヒの前に立つ。そして、ハインリヒに一礼した。

「お久しぶりです、ハインリヒ様。先だってはヴェルツブルグを出立するにあたりご挨拶もせず、申し訳ありませんでした。…少し、おやつれになられましたか?私のせいでしたら、すみません。お詫び申し上げます」
「…いいえ、いいえ!ミカ殿、よかった。お元気になられて本当に良かった。私の事は気になさらぬよう。私の蟠りは、今ここで霧散しました」

 感情の昂るあまり、ハインリヒも美香の両手を取り、力強く握りしめる。美香は手から伝わる痛みを、ハインリヒの心痛の表れと捉え、甘んじて受け入れ笑顔を浮かべていた。

「『ロザリアの槍』を賜ったミカ殿にお教えする事はもうあまりありませんが、こちらに逗留している少しの間だけでも、講義を行いましょう。…純粋な火の講義を、こちらではお受けできなかったでしょうし」
「ハインリヒ様、ありがとうございます。よろしくお願いします」

 ハインリヒの喜びの声に含まれた僅かな毒に美香は気づかず、純心に礼を述べた。美香はハインリヒに続き、後ろに控えていた壮年の男にも挨拶をする。

「お初にお目にかかります。古城美香と申します。美香が名になりますので、『ミカ』とお呼び下さい」
「ご丁寧な挨拶、痛み入る。私は、コルネリウス・フォン・レンバッハと申す。このたび、総指揮の殿下の名代として、北伐軍の司令官を仰せつかった。ロザリア様の御使いであるミカ殿には、是非ご挨拶をと願っていた。此度の北伐を成功に導くため、ミカ殿が持つお力には大いに期待している。よろしくお願いする」
「…いいえ、御使い様と呼ばれていても、私は未だ力弱き小娘です。そこまで言われてしまうと、委縮してしまいます」
「ご謙遜めさるな。『ロザリアの槍』が齎す力は、すでにエーデルシュタイン中に広まっておる。是非その力を、人族の栄光のために使っていただけるよう期待している」
「…ええと、はい…」

 武人肌のコルネリウスは口ひげをしごきながら、美香への期待を隠す事なく述べる。武人ならではの裏表のない直球を受け、上手く受け流す事ができなかった美香は、躊躇いながらも受け止めてしまった。

 挨拶が一通り終わったところで、フリッツが取り纏める。

「それでは殿下、お部屋の用意ができましたのでご案内いたします。歓待の宴まで、少しの間お休み下さい」



 ***

 宴が終わり、王太子リヒャルトは割り当てられた客室で一人、就寝前の寛ぎの時間を過ごしていた。テーブルにはワインと干し果物やチーズが置かれ、リヒャルトはグラスを傾けながら、窓の外に広がる庭園を眺める。内街壁に囲まれた庭園は水堀に沿うように広がり、人工的な要素を多分に含みながらも美しい情景を浮かび上がらせていた。

「ふう…」

 ひと悶着あったが、ここに来れて良かった。リヒャルトは心の中で安堵の息をついた。今までの気苦労が、美香の美しく成長しつつある姿を見て、報われる思いだった。

 実は北伐が発布されるにあたり、第2王子のクリストフが総指揮に手を挙げたのだ。それを聞いたリヒャルトは急ぎ宮中に手を回し、最終的にリヒャルトが総指揮を拝命されるよう工作したのだった。

 今回の北伐は、今までにない好条件だった。召喚者である美香は人族史上初めて、S級を単独撃破するだけの力を有している。また前回の召喚者も未だ現役で、北伐に参加するべくハーデンブルグへと向かっていた。各国の足並みも揃っており、不安要素はない。「ロザリアの御使い」の名が知れ渡り、兵士達の士気も最高だった。

 その北伐の総指揮に、クリストフが立候補したのだ。この事は、次代の王位継承に大きな影響を及ぼす事になる。現在のところ王太子には長男リヒャルトが就いているが、リヒャルトと次男クリストフの器量はほぼ同じであり、王太子の座は生まれた順番で決まっていた。そのため、ここでもしクリストフが総指揮を執り、北伐軍が「エミリアの森」を奪還に成功すると、次代の王位がクリストフに転がり込む可能性が出てくるのだ。またクリストフが総指揮に就くと、必然的にハーデンブルグにおいて美香と交流を持つ事になる。リヒャルトと同様、クリストフも秀麗眉目であり、リヒャルトとしてはどちらも無視できるものではなかった。

 そのためリヒャルトはクリストフの出陣を潰し、自分が総指揮に就いた。北伐の成功により自身の王太子の座を確固たるものとし、北伐軍の中で美香との交流を深める。軍事的な要素とは別の結果を求め、リヒャルトは自分の進む道の行く末に、大いなる期待を寄せていた。
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