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第3章 初陣
40:ロザリアの御使い
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「ミカ殿」
心地よいまどろみの中で自分の名前を呼ばれた美香は、薄っすらと目を開く。焼けた光と自分のまつ毛が織りなす淡いカーテンの向こう側に、眉目の整った凛々しい顔つきの男性が、上から自分の顔を注視している。
左肩から背中にかけ、固く、しかし温かい男性の温もりに抱かれていた美香は、汗の匂いと心地よい気怠さの中、満たされた気分の赴くままに笑みを浮かべ、男性の頬に触れようとゆっくりと右手を伸ばした。
「ミカ殿、体の調子はどうだ?よく眠っているところにすまないが、そろそろ今日の野営地に着く。設営の間しばらく騒々しいだろうが、それが済んだらもう一度、今度はゆっくり休んでくれ」
目の前の男性が紡ぎ出す、ロマンスとは全く無縁の事務的な言葉を耳にし、美香は伸ばしかけた手を硬直させ、慌てて意味もなく左右に振る。あああああああああ、ちょっと待て。自分、今何をしようとした?欲求不満じゃないから。男に餓えているわけでもないから!大丈夫だから、ホント。
「ミカ殿?」
「ああああ!大丈夫です、大丈夫です!私は至って健全ですから、はい!」
視線を合わせようとせず、前を向いたまま答える美香のオクターブの外れた声を耳にし、オズワルドは疑問を呈するように眉を上げるが、それ以上の追求はせず視線を前に向ける。目の前には、鬱蒼と茂った森が途切れ、池の様に草原が広がっていた。
設営が完了し、ようやくひと段落着いた一行は、先ほどの離脱の際、応急処置で済ませられなかった治癒や後片付けを再開する。美香とレティシアも、先ほどは火急の治療は不要と判断され、先送りされていた治療を再開した。とはいえ、レティシアは石の破片によるいくつかの打撲が認められたものの症状は軽く、またそれ以外にも大きな外傷は認められなかった。一方、美香については魔力消費による極度の疲労によるものだったので、これまた治癒が不要だった。
治療が終わった二人は、今度は着替えのため、二人のためだけにストーンウォールで拵えた区画に入る。制限のある荷馬車の中に領主の特権として少しだけ持ち込んだ私物から、数少ない着替えを取り出したレティシアが、美香に手渡した。
「はい、ミカ。これに着替えて。お互い泥まみれだからね」
「ありがとう、レティシア」
美香はレティシアに礼を言って着替えを受け取ると、もぞもぞと着替えを始める。ひと眠りした事が功を奏し幾分体力は回復したが、言いようのない倦怠感が未だ体に残り、その動きは緩慢だった。
ゆっくりと時間をかけて着替え終わった美香は、先に着替えが終わった後も美香を眺めていたレティシアに気付いて、声をかける。
「どうしたの?レティシア」
「ミカ…」
声掛けに反応する形でレティシアは美香に近づくと、両腕を美香の背に回し、慎ましい胸に顔をうずめる様に抱きついてくる。
「レティシア?」
「もう一度。もう一度、礼を言いたくて…。ありがとう、ミカ。私を助けてくれて。あなたは、私の命の恩人。そして、あなたは、私のかけがえのない人よ」
そう言って顔を上げたレティシアは、さり気なく顔を寄せると、美香の頬にキスをした。
「レ、レティシア?」
頬に手を当て、素っ頓狂な顔をした美香に対し、レティシアは悪戯が成功したように笑みを浮かべる。
「気にしないで。私が我慢できなかっただけだから。何か、形に示したかったの。…さ、行きましょうか。皆が待っているわ」
美香の心の中をかき回すだけかき回したレティシアは、心の整理がつかない美香の手を取ると、そのまま野営地へ引っ張って行った。
***
結局、ハーデンブルグへの帰投までの間、美香はずっとオズワルドの馬に乗り続けた。
理由は、美香にもよくわからない。翌朝、気づけば、いつの間にか自分からオズワルドの馬の前に歩み寄っていた。
オズワルドは、美香の姿を認めても表情を変えず、そのままの姿で声をかける。
「…ミカ殿、乗るか?」
「…お願いします」
少し間が空いた後に美香が首肯すると、オズワルドは手を伸ばし、美香を引き上げて自分の前に座らせる。美香は、昨日とは異なり馬に跨ると、深く腰掛ける。オズワルドの温かさをお尻に感じながら、美香はオズワルドにも聞こえない声で、独り言ちた。
「…やっぱ、私、餓えてるのかな…」
思えば、この世界に来てもうすぐ半年になる。その間美香は、精神的にはずっと独りだった。もちろん、彼女が孤独だったわけではない。最初は柊也が傍らにいたし、その後はずっとレティシアとカルラが付き添ってくれていた。自分は決して孤立無援ではなく、この3人をはじめとする何人かの人に支えられて、ここまで来た事は知っていた。
それでも、美香は、自分がある一点で孤独であるという認識から逃れられないでいた。それは、「自分の在り方を自分で決しなければいけない」という意味での孤独である。「日本国籍」と「美欧大学法学部政治学科1年生」を失った美香は、独り立ちしなければならなかった。今回の遠征で、自分が何を考え何をしていきたいのか、おぼろげながらも見つける事ができたが、それも突き詰めれば「独りで見つけ立ち上げた」ものであった。
日本にいた時には、両親がいた。そして、大学という制度があった。この二つに美香は寄り掛かり、頼る事ができた。今は、そのいずれもなく、美香は独りで立たなければならない。無条件に甘え、盲目的に頼るものが何一つなかった。
柊也がリーデンドルフへ出立する前の日、美香が柊也に発した「ご褒美」は、もちろん柊也の身を案じての提案でもあったが、美香が柊也に身を託すための儀式でもあった。自分が柊也と結ばれ、彼を愛し、彼の決定に身を委ねる。この世界にただ二人放り込まれた者同士、最も互いに共感し、依存し合える相手。美香は柊也をそう位置付け、彼に身を任せる事で「孤独」から逃れ得ようとしていた。しかし結局、柊也はリーデンドルフから戻らないまま美香と袂を分かち、美香は「孤独」のまま残された。
その後、一人残された美香に対し、レティシアが常に傍らにいて献身的に支え続けてくれていたが、時折、彼女が発する過度の愛情と、意味ありげな発言に、美香は内心揺さぶられ続けていた。美香は、自分はおそらく同性愛者ではないだろうと思っていたが、それでも彼女の誘惑は非常に甘美で、美香は自分が安易に彼女に身を委ねないよう、常に自身を律する必要があった。もし身を委ねるにしても、惰性に流された結果齎される、爛れた関係ではいけない。美香と共にレティシアにも幸せを齎す形で、身を委ねなければならなかった。
そう懊悩する中、美香は偶然にも、オズワルドの腕の中で、久しぶりに心の安らぎを得られた気がした。オズワルドの体は固く引き締まり、決して寝心地が良かったわけではないが、それでも大きな体で温かく彼女を包み込んでいた。美香は未だ男性経験がないため想像するしかないが、本能的にはアレを自分が欲し、身を委ねたいのではないかと、考えていた。
美香はオズワルドに悟られないよう、前を向いたまま、柊也とオズワルドの顔を思い浮かべる。自分が身を委ねようとした柊也は、見た目こそ悪くないが、表情に乏しく、口数が少なかった。一方のオズワルドは、騎士としての引き締まった肉体を持ち、目鼻立ちも整っており、不愛想で口数が少ない。二人を見比べた美香は、評定を下した。
うん、少なくともオズワルドさんの方が、イケメンだわ。
***
ハーデンブルグを出立して5日後、一行はハーデンブルグへと戻ってきた。総勢63名のうち死者が10名にも上る事は大きな痛手であったが、それでも残存する隊員が秩序を持って戻ってこれた事、及び予想外の大きな戦果をあげた事は、人々の心に救いを齎した。
先頭を走るオズワルドの馬上で、美香は目の前の内街門が開くのを見つめる。内街門をくぐると、ディークマイアー家の重厚な建物が眼前に広がっていた。
先触れが伝わっていたせいだろうか、珍しく建物の前に、多数の使用人や家臣とともにフリッツとアデーレ、マティアスが佇んでいた。
一行は、内街門をくぐった所で馬を降り、整列する。その中でオズワルド、美香、レティシア、ニコラウス、エルマーの5名が、フリッツ達の許へ進み出た。オズワルド、ニコラウス、エルマーの3名がフリッツの前で片膝をつき、首を垂れる。
「オズワルド・アイヒベルガー、並びに選抜小隊、ただ今帰還いたしました。被害は、総勢63名のうち10名が死亡、6名が重軽傷。戦果は、オーク及びガルムが多数、及びロックドラゴン1頭を撃破。ただし、ロックドラゴンは選抜小隊の成果ではなく、ミカ殿の単独撃破となります。お預かりした部隊に多大なる損害を齎した事、申し開きもございません。また、一時とはいえ、レティシア様の危機に際し、部隊を優先してレティシア様を見限りました事、これも全て私の責任であります」
言葉を飾らず、現実を突き付ける形で報告するオズワルドを、フリッツは沈痛な面持ちで見やり、やがて口を開く。
「オズワルド、面を上げよ。部隊が直面した事態については、すでに報告を受けている。私は、お主の判断を是とする。何より、レティシアより部隊を優先するよう指示したのは、私だ。また、部隊が全滅せず無事帰還できたのは、お主の力量にもある。お主と部隊の働きを、私は評価する。よく帰って来てくれた。亡くなった者達には、厚く恩賞を与えよう」
「ありがとうございます」
フリッツは、オズワルドを下がらせると、レティシアに声をかける。
「レティシア、来なさい」
「お父様…!」
フリッツの声掛けに応じてレティシアは駆け寄ると、フリッツに抱き付き、声を上げる。
「申し訳ありません、お父様。私のせいで、部隊を危険に晒しました」
「レティシア、よく無事に帰って来てくれた。今回の事は、お前のせいではない。そう思い詰めるな。お前が気を病んでも、亡くなった者達は戻ってこない。お前がすべき事は、自分の行いに責任を持ち、その上で前に進む事だ。今回の事を糧にして、この先において恩を返せ」
「はい…、お父様」
半ば涙声のレティシアから身を離すと、フリッツは美香へ声をかける。
「ミカ殿」
「はい、フリッツ様」
フリッツは美香へ歩み寄ると、美香の両手を取り、頭を下げる。
「自身の身を顧みず、我が娘レティシアの危機を救っていただき、感謝の念に堪えない。当家を代表して、深く御礼申し上げる。この恩に報いるべく、当家はあなたに対し、如何なる助力も惜しまない。当家に望む事は、何でも申してくれ。最大限、協力しよう」
「私からも」
フリッツに続き、アデーレが美香に歩み寄って、美香を抱きしめる。
「レティシアを救ってくれて、本当にありがとう。あなたは、私の娘も同然よ。私にできる事なら、遠慮なく何でも言ってね」
そう言葉を発したアデーレは、美香の耳元に顔を寄せ、小さく呟く。
「レティシアの事、よろしく頼むわね。あの娘を幸せにしてあげてね」
アデーレの言葉を聞いた美香は固まり、口元をひきつらせる。
「ア、アデーレ様、今のは、どういう意味で…?」
「あら、心当たりはないの?あの娘の事だから、もう行動に移していると思うのだけれども」
私の娘だもの。
そう言葉を続けて、アデーレは意味ありげに微笑んだ。
***
この日、美香がロックドラゴンを一撃で撃破した事が伝わると、ハーデンブルグ中が喜びに沸き、お祭り騒ぎとなった。それに呼応するように、ロックドラゴンを撃破した魔法が伝わる。その魔法は「ロザリアの槍」と命名され、御使いのみが使える魔法として広まっていく。そして、美香は次第に「ロザリアの御使い」と呼ばれるようになった。
数日後、美香は一人で修練場にいた。その日は珍しくニコラウスに本当に別の仕事が入って休講となり、またレティシアもフリッツに呼ばれて、席を外していた。
誰も人がいない中で、美香は一人、案山子に向かって魔法を詠唱する。
「汝に命ずる。直径10cmの火球となり、我に従え。秒速10cmで飛翔し、彼の者を打ち据えよ」
美香の詠唱に応じ、直径10cmほどの火球が形成され、ゆるゆると案山子に向かって飛んでいく。
「汝に命ずる。直径1mの火球となり、我に従え。秒速5mで飛翔し、彼の者を打ち据えよ」
美香の詠唱に応じ、今度は美香の身長の2/3にも届こうかという大きな火球が形成され、先ほどの火球に追い付いて飲み込むと、そのまま案山子へと着弾し、案山子が燃え上がる。
「…」
美香には、わからなかった。この世界の魔法詠唱では、日本の度量衡が通用する。何故通用するのか、彼女には全く見当がつかなかった。
心地よいまどろみの中で自分の名前を呼ばれた美香は、薄っすらと目を開く。焼けた光と自分のまつ毛が織りなす淡いカーテンの向こう側に、眉目の整った凛々しい顔つきの男性が、上から自分の顔を注視している。
左肩から背中にかけ、固く、しかし温かい男性の温もりに抱かれていた美香は、汗の匂いと心地よい気怠さの中、満たされた気分の赴くままに笑みを浮かべ、男性の頬に触れようとゆっくりと右手を伸ばした。
「ミカ殿、体の調子はどうだ?よく眠っているところにすまないが、そろそろ今日の野営地に着く。設営の間しばらく騒々しいだろうが、それが済んだらもう一度、今度はゆっくり休んでくれ」
目の前の男性が紡ぎ出す、ロマンスとは全く無縁の事務的な言葉を耳にし、美香は伸ばしかけた手を硬直させ、慌てて意味もなく左右に振る。あああああああああ、ちょっと待て。自分、今何をしようとした?欲求不満じゃないから。男に餓えているわけでもないから!大丈夫だから、ホント。
「ミカ殿?」
「ああああ!大丈夫です、大丈夫です!私は至って健全ですから、はい!」
視線を合わせようとせず、前を向いたまま答える美香のオクターブの外れた声を耳にし、オズワルドは疑問を呈するように眉を上げるが、それ以上の追求はせず視線を前に向ける。目の前には、鬱蒼と茂った森が途切れ、池の様に草原が広がっていた。
設営が完了し、ようやくひと段落着いた一行は、先ほどの離脱の際、応急処置で済ませられなかった治癒や後片付けを再開する。美香とレティシアも、先ほどは火急の治療は不要と判断され、先送りされていた治療を再開した。とはいえ、レティシアは石の破片によるいくつかの打撲が認められたものの症状は軽く、またそれ以外にも大きな外傷は認められなかった。一方、美香については魔力消費による極度の疲労によるものだったので、これまた治癒が不要だった。
治療が終わった二人は、今度は着替えのため、二人のためだけにストーンウォールで拵えた区画に入る。制限のある荷馬車の中に領主の特権として少しだけ持ち込んだ私物から、数少ない着替えを取り出したレティシアが、美香に手渡した。
「はい、ミカ。これに着替えて。お互い泥まみれだからね」
「ありがとう、レティシア」
美香はレティシアに礼を言って着替えを受け取ると、もぞもぞと着替えを始める。ひと眠りした事が功を奏し幾分体力は回復したが、言いようのない倦怠感が未だ体に残り、その動きは緩慢だった。
ゆっくりと時間をかけて着替え終わった美香は、先に着替えが終わった後も美香を眺めていたレティシアに気付いて、声をかける。
「どうしたの?レティシア」
「ミカ…」
声掛けに反応する形でレティシアは美香に近づくと、両腕を美香の背に回し、慎ましい胸に顔をうずめる様に抱きついてくる。
「レティシア?」
「もう一度。もう一度、礼を言いたくて…。ありがとう、ミカ。私を助けてくれて。あなたは、私の命の恩人。そして、あなたは、私のかけがえのない人よ」
そう言って顔を上げたレティシアは、さり気なく顔を寄せると、美香の頬にキスをした。
「レ、レティシア?」
頬に手を当て、素っ頓狂な顔をした美香に対し、レティシアは悪戯が成功したように笑みを浮かべる。
「気にしないで。私が我慢できなかっただけだから。何か、形に示したかったの。…さ、行きましょうか。皆が待っているわ」
美香の心の中をかき回すだけかき回したレティシアは、心の整理がつかない美香の手を取ると、そのまま野営地へ引っ張って行った。
***
結局、ハーデンブルグへの帰投までの間、美香はずっとオズワルドの馬に乗り続けた。
理由は、美香にもよくわからない。翌朝、気づけば、いつの間にか自分からオズワルドの馬の前に歩み寄っていた。
オズワルドは、美香の姿を認めても表情を変えず、そのままの姿で声をかける。
「…ミカ殿、乗るか?」
「…お願いします」
少し間が空いた後に美香が首肯すると、オズワルドは手を伸ばし、美香を引き上げて自分の前に座らせる。美香は、昨日とは異なり馬に跨ると、深く腰掛ける。オズワルドの温かさをお尻に感じながら、美香はオズワルドにも聞こえない声で、独り言ちた。
「…やっぱ、私、餓えてるのかな…」
思えば、この世界に来てもうすぐ半年になる。その間美香は、精神的にはずっと独りだった。もちろん、彼女が孤独だったわけではない。最初は柊也が傍らにいたし、その後はずっとレティシアとカルラが付き添ってくれていた。自分は決して孤立無援ではなく、この3人をはじめとする何人かの人に支えられて、ここまで来た事は知っていた。
それでも、美香は、自分がある一点で孤独であるという認識から逃れられないでいた。それは、「自分の在り方を自分で決しなければいけない」という意味での孤独である。「日本国籍」と「美欧大学法学部政治学科1年生」を失った美香は、独り立ちしなければならなかった。今回の遠征で、自分が何を考え何をしていきたいのか、おぼろげながらも見つける事ができたが、それも突き詰めれば「独りで見つけ立ち上げた」ものであった。
日本にいた時には、両親がいた。そして、大学という制度があった。この二つに美香は寄り掛かり、頼る事ができた。今は、そのいずれもなく、美香は独りで立たなければならない。無条件に甘え、盲目的に頼るものが何一つなかった。
柊也がリーデンドルフへ出立する前の日、美香が柊也に発した「ご褒美」は、もちろん柊也の身を案じての提案でもあったが、美香が柊也に身を託すための儀式でもあった。自分が柊也と結ばれ、彼を愛し、彼の決定に身を委ねる。この世界にただ二人放り込まれた者同士、最も互いに共感し、依存し合える相手。美香は柊也をそう位置付け、彼に身を任せる事で「孤独」から逃れ得ようとしていた。しかし結局、柊也はリーデンドルフから戻らないまま美香と袂を分かち、美香は「孤独」のまま残された。
その後、一人残された美香に対し、レティシアが常に傍らにいて献身的に支え続けてくれていたが、時折、彼女が発する過度の愛情と、意味ありげな発言に、美香は内心揺さぶられ続けていた。美香は、自分はおそらく同性愛者ではないだろうと思っていたが、それでも彼女の誘惑は非常に甘美で、美香は自分が安易に彼女に身を委ねないよう、常に自身を律する必要があった。もし身を委ねるにしても、惰性に流された結果齎される、爛れた関係ではいけない。美香と共にレティシアにも幸せを齎す形で、身を委ねなければならなかった。
そう懊悩する中、美香は偶然にも、オズワルドの腕の中で、久しぶりに心の安らぎを得られた気がした。オズワルドの体は固く引き締まり、決して寝心地が良かったわけではないが、それでも大きな体で温かく彼女を包み込んでいた。美香は未だ男性経験がないため想像するしかないが、本能的にはアレを自分が欲し、身を委ねたいのではないかと、考えていた。
美香はオズワルドに悟られないよう、前を向いたまま、柊也とオズワルドの顔を思い浮かべる。自分が身を委ねようとした柊也は、見た目こそ悪くないが、表情に乏しく、口数が少なかった。一方のオズワルドは、騎士としての引き締まった肉体を持ち、目鼻立ちも整っており、不愛想で口数が少ない。二人を見比べた美香は、評定を下した。
うん、少なくともオズワルドさんの方が、イケメンだわ。
***
ハーデンブルグを出立して5日後、一行はハーデンブルグへと戻ってきた。総勢63名のうち死者が10名にも上る事は大きな痛手であったが、それでも残存する隊員が秩序を持って戻ってこれた事、及び予想外の大きな戦果をあげた事は、人々の心に救いを齎した。
先頭を走るオズワルドの馬上で、美香は目の前の内街門が開くのを見つめる。内街門をくぐると、ディークマイアー家の重厚な建物が眼前に広がっていた。
先触れが伝わっていたせいだろうか、珍しく建物の前に、多数の使用人や家臣とともにフリッツとアデーレ、マティアスが佇んでいた。
一行は、内街門をくぐった所で馬を降り、整列する。その中でオズワルド、美香、レティシア、ニコラウス、エルマーの5名が、フリッツ達の許へ進み出た。オズワルド、ニコラウス、エルマーの3名がフリッツの前で片膝をつき、首を垂れる。
「オズワルド・アイヒベルガー、並びに選抜小隊、ただ今帰還いたしました。被害は、総勢63名のうち10名が死亡、6名が重軽傷。戦果は、オーク及びガルムが多数、及びロックドラゴン1頭を撃破。ただし、ロックドラゴンは選抜小隊の成果ではなく、ミカ殿の単独撃破となります。お預かりした部隊に多大なる損害を齎した事、申し開きもございません。また、一時とはいえ、レティシア様の危機に際し、部隊を優先してレティシア様を見限りました事、これも全て私の責任であります」
言葉を飾らず、現実を突き付ける形で報告するオズワルドを、フリッツは沈痛な面持ちで見やり、やがて口を開く。
「オズワルド、面を上げよ。部隊が直面した事態については、すでに報告を受けている。私は、お主の判断を是とする。何より、レティシアより部隊を優先するよう指示したのは、私だ。また、部隊が全滅せず無事帰還できたのは、お主の力量にもある。お主と部隊の働きを、私は評価する。よく帰って来てくれた。亡くなった者達には、厚く恩賞を与えよう」
「ありがとうございます」
フリッツは、オズワルドを下がらせると、レティシアに声をかける。
「レティシア、来なさい」
「お父様…!」
フリッツの声掛けに応じてレティシアは駆け寄ると、フリッツに抱き付き、声を上げる。
「申し訳ありません、お父様。私のせいで、部隊を危険に晒しました」
「レティシア、よく無事に帰って来てくれた。今回の事は、お前のせいではない。そう思い詰めるな。お前が気を病んでも、亡くなった者達は戻ってこない。お前がすべき事は、自分の行いに責任を持ち、その上で前に進む事だ。今回の事を糧にして、この先において恩を返せ」
「はい…、お父様」
半ば涙声のレティシアから身を離すと、フリッツは美香へ声をかける。
「ミカ殿」
「はい、フリッツ様」
フリッツは美香へ歩み寄ると、美香の両手を取り、頭を下げる。
「自身の身を顧みず、我が娘レティシアの危機を救っていただき、感謝の念に堪えない。当家を代表して、深く御礼申し上げる。この恩に報いるべく、当家はあなたに対し、如何なる助力も惜しまない。当家に望む事は、何でも申してくれ。最大限、協力しよう」
「私からも」
フリッツに続き、アデーレが美香に歩み寄って、美香を抱きしめる。
「レティシアを救ってくれて、本当にありがとう。あなたは、私の娘も同然よ。私にできる事なら、遠慮なく何でも言ってね」
そう言葉を発したアデーレは、美香の耳元に顔を寄せ、小さく呟く。
「レティシアの事、よろしく頼むわね。あの娘を幸せにしてあげてね」
アデーレの言葉を聞いた美香は固まり、口元をひきつらせる。
「ア、アデーレ様、今のは、どういう意味で…?」
「あら、心当たりはないの?あの娘の事だから、もう行動に移していると思うのだけれども」
私の娘だもの。
そう言葉を続けて、アデーレは意味ありげに微笑んだ。
***
この日、美香がロックドラゴンを一撃で撃破した事が伝わると、ハーデンブルグ中が喜びに沸き、お祭り騒ぎとなった。それに呼応するように、ロックドラゴンを撃破した魔法が伝わる。その魔法は「ロザリアの槍」と命名され、御使いのみが使える魔法として広まっていく。そして、美香は次第に「ロザリアの御使い」と呼ばれるようになった。
数日後、美香は一人で修練場にいた。その日は珍しくニコラウスに本当に別の仕事が入って休講となり、またレティシアもフリッツに呼ばれて、席を外していた。
誰も人がいない中で、美香は一人、案山子に向かって魔法を詠唱する。
「汝に命ずる。直径10cmの火球となり、我に従え。秒速10cmで飛翔し、彼の者を打ち据えよ」
美香の詠唱に応じ、直径10cmほどの火球が形成され、ゆるゆると案山子に向かって飛んでいく。
「汝に命ずる。直径1mの火球となり、我に従え。秒速5mで飛翔し、彼の者を打ち据えよ」
美香の詠唱に応じ、今度は美香の身長の2/3にも届こうかという大きな火球が形成され、先ほどの火球に追い付いて飲み込むと、そのまま案山子へと着弾し、案山子が燃え上がる。
「…」
美香には、わからなかった。この世界の魔法詠唱では、日本の度量衡が通用する。何故通用するのか、彼女には全く見当がつかなかった。
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