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第2章 ハンター

28:二人の儀式

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「はあぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」

 葉擦れの音と小鳥の囀りが鳴り響く木々の中、若い女性の声が鳴り響く。

「ふっ!ふっ!はっ!ふっ!ふぅぅぅぅぅぅぅぅぅっ!ふっ!」

 左右の腕が三連突きを繰り出した後、裏拳が入り、その直後にしなやかな脚が大きく円を描く。一拍置いて、一本突き。その動きに淀みはなく、流れる水のように綺麗な一筆書きを描いている。

 彼女は豹のように滑らかでダンスを踊るかのように舞い、彼女が身を翻すたびに銀色の尾が主人の後を追い、綺麗な弧を描く。柊也は椅子に座り、左手で本を開いたまま、ひたすら彼女の演武を眺めていた。

 シモンがリハビリを開始して、1週間が経過していた。二人は毎日、洞窟の前の小さな広場に繰り出し、シモンがリハビリを続ける傍らで柊也が本を読むという生活を続けていた。ちなみに、柊也が本を読んでいるのは、娯楽のためではない。右腕で取り出せるものは、柊也が知っている物だけである。右腕の力では、インターネットを使う事ができない。そのため、柊也は元の世界の様々な本を読み漁り、元の世界に存在する物を少しでも知る必要があった。

 二人は、常に2m以内に寄り添って生活していた。時折、それより遠くに離れる時もあったが、5分以内に必ず戻ってきた。寝る時も、食事の時も、トイレの時でさえ、いつも二人で寄り添っていた。

 洞窟の入口の脇には、崖沿いに三基の石壁が建てられていた。洞窟がある崖と合わせると「Tコ」の形に並べられた石壁は、いわば二人のトイレだった。どちらかがトイレに行く際には、柊也が「サイレンス」を唱え、音を消す。そして簡易トイレを取り出し、「コ」の中にトイレを持ち込んで用を足す。その間、もう一方は壁越しに待機していた。用が済むと一人でその簡易トイレを持ち、2分で行ける所まで行って投棄し、もう一人の下へ戻ってくる。お互いのプライドが膝を突き合わせて話し合った結果誕生した、いわば二人の「初めての共同作業」である。

 シモンの側頭部から伸びる三角形の耳が動き、演武を続けていた彼女が柊也に声をかける。

「トウヤ、来るぞ」

 彼女は、柊也の本名を知った後も、彼を「トウヤ」と呼んでいた。柊也は、セント=ヌーヴェルに逃れた後も、「トウヤ」を名乗るつもりでいた。であれば、偽名で呼び続けた方が、一貫性がある。それに「シュウヤ」の名は彼女にとって、牙の誓いと引き換えに得た宝物だった。宝箱に大事にしまったまま、誰にも聞かせたくなかった。

 彼女の呼びかけに応じ、彼女の視線を追いつつ、柊也が尋ねる。

「何頭だ?」
「1頭だな。私にやらせてくれ。どれだけ回復したか、確認したい」
「わかった。無理はするなよ」
「ああ」

 そう言うと、柊也は「ストーンウォール」を詠唱し、その陰に隠れて様子を伺う。

 やがて、森の中から1頭のヘルハウンドが現れた。ヘルハウンドは、広場の中央に佇むシモンを見つけると唸り声をあげ、口を開いて火球を射出した。

 シモンは火球を見ると「疾風」を発動させ、横に跳ぶ。やはりブランクの影響は大きく、足の踏ん張りが利かない。ブレーキの利きが悪く、以前より1m以上長く引き摺られた事に舌打ちしながら、シモンは火球を回避した。

 シモンが火球を回避したっきり何も動きを取らないのを見たヘルハウンドは、もう1発火球を射出する。今度は、シモンは「疾風」を発動させず、体を反らして火球を回避した。

 直後、シモンは「疾風」を発動させ、ヘルハウンドに詰め寄る。最初の回避で、「疾風」への影響はわかった。その感覚に則ってブレーキをかけ、瞬時にヘルハウンドの背後を取った彼女は、「防壁」を纏った正拳を、ヘルハウンドの後頭部に突き込む。

「ギャゥ!」

 眼球が半ば飛び出し、血の涙を出したヘルハウンドは、鈍い鳴き声を上げるとそのまま前に倒れ込み、痙攣を始めた。

 タイムリミットには、まだ時間がある。歩いて戻ってきたシモンに対し、柊也が声をかけた。

「大したもんだ。その様子なら問題なさそうだな」
「大ありだよ。全く制動が効かない。単騎ならともかく、集団戦は避けた方が良さそうだ。…でもまあ、何とか戦えるな」
「そうか。それじゃあ」
「ああ。そろそろ出発できそうだ」

 ヘルハウンドに灯油を撒いて火をつける柊也に対し、シモンがOKを出した。

 この洞窟を発つ日が来た。



 ***

 出発を明日に控え、二人は洞窟での最後の夜を過ごしていた。洞窟の中は、柊也が持ち込んだランタンで照らされ、二人の足元に長い影を作り出している。二人は布団の上で向かい合うように座り、互いを見つめていた。柊也は片膝を立てて座り、シモンは正座をしたまま、動かない。

「トウヤ、手を…」

 シモンに促され、柊也は左手をシモンへと伸ばす。シモンは、その左手を、両手で押し戴くように受け取った。



 悪魔によって引き剥がされたシモンの殻は、ついに元に戻らなかった。卵の殻はところどころに罅が入り、一箇所、大きな穴が口を開けていた。穴の中では、卵の中身が剥き出しになり、脈打つ黄身が無防備に外気に晒されていた。

 シモンは、その剥き出しとなった無防備な黄身を、常に柊也に曝け出した。柊也がその黄身を、いつでも触れ、弄べるように、無防備なまま柊也の目の前に放置した。そしてシモンは毎日、黄身に潤いを与える儀式を執り行い、柊也に儀式への参加を求めた。



 柊也の左手を受け取ったシモンは、目を閉じて口を開き、左手を自分の口へと導く。シモンに導かれるまま、柊也は左手を伸ばし、やがてシモンの牙を親指と人差し指で掴むと、ゆっくりと上下に動かす。そうして上顎の2本、下顎の2本の牙を、一本ずつ丁寧になぞっていく。

 柊也が4本の牙を全てなぞり終えると、シモンは目を閉じたまま、両手をつき、身を乗り出す。そして、口を開けたまま、艶めかしく薄赤色に光る舌を伸ばし、柊也の眼前で無防備に広げた。

 柊也は牙から手を離すと、まるで洗脳されたかのように左手を動かし、シモンの無防備な舌を掴む。そして3本の指で、瑞々しいまでの舌をなぞり、摘まみ、捻り、思うままに舌を変形させ、弄んだ。その間、シモンの耳はたびたび痙攣し、尾はゆっくりと左右に振れ続けた。

 時間にして1分。やがて柊也が舌から手を離すと、シモンも体を起こし、正座に戻る。そして、潤んだ目で柊也を10秒ほど見つめた後…。

「…おやすみ、トウヤ」

 儀式が終わり、シモンは柊也に背を向けて床に就くと、やがて静かに寝息を立て始めた。

 柊也は、毛布の上からでも明らかな、シモンの美しい曲線をしばらく眺めた後、視線を天井へと向ける。この、毎晩行われるシモンの儀式は、当然ながら柊也の理性を乱打し、彼の理性の鎧は毎日歪に変形していた。柊也は朴念仁でも聖人君子でもないので、シモンが何を望んでいるのかは薄々わかっていたが、それでも彼は、最後の一線を越える事を躊躇していた。ここで一線を越えるのは、自分が、シモンの悪魔憑きという不幸につけ込んでいる様に思えた。彼女は凛々しく、清々しい女性だった。彼女との会話は、裏表を考える必要のない、清涼感溢れる気持ちの良いものだった。彼は、一時の情欲で、この関係をドロドロしたものには変えたくなかった。

 彼は彼なりに、シモンの事を大切にしたいと思っていた。いずれ、彼女との関係に決着をつける必要がある。しかし、それは今のような逃避行のさなかではなく、もっと安全で、安心でき、無邪気に未来を考えられる時にすべきだと、彼は考えていた。柊也は心の中でシモンに謝り、この問題を棚上げする。

「おやすみ、シモン」

 彼女の綺麗な耳が、動いたような気がした。
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