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第2章 ハンター

26:牙の誓い

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 寝起きとは思えない勢いで彼女は体を起こし、目を見開いた。とは言え、何も見えていないのには変わりはないが。呆然と前を向いたまま動かなくなった彼女に、「父」が言葉を続ける。

「あー、一旦目を瞑った方が良いな。久しぶりだから、多分眩しいぞ」

「父」の言葉に従い、彼女は目をぎゅっと閉じる。まるで何かに怯えるかのように、瞼には不要なまでの力が込められていた。

「いくぞ」

 そう答える「父」の声を耳にした直後、彼女の暗黒の世界に色が追加され、黒と橙のまだら模様が広がった。思わず下を向いた彼女は、それでも恐る恐る瞼にかかる力を緩め、ゆっくりと目を開く。

 一本の横線が走り、光が射し込む。彼女は少しの間雨戸を開けるのを止め、あまりの光の眩しさに戸惑っていたが、やがて意を決して、ゆっくりと雨戸を開ける。窓の外に、まるで雨上がりのように雨露に濡れて歪んだ光景が浮かび上がり、やがて雨露が乾いて輪郭がはっきりとしてきた。

 最初に飛び込んできたのは、白い布団だった。皴が寄り、ところどころに染みがついた布団は、くたびれた体を臆面もなく彼女に曝け出し、眼前にだらしなく広がっていた。

 そして視界の両脇には、その布団を押さえつけるかのように縦に伸びる二本の柱。左の柱には、大きな傷と、乱暴に張り付けられている何枚もの紙、そして一本の管が走っていた。彼女が両腕を動かすと、傷が反転して見えなくなり、やがて視界の上から掌が下りてきた。

「あぁぁ…、ああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ。見える、目が見えるよぉ…」

 激しい雨が降ってきた。雨は一瞬にして窓を濡らし、窓越しの光景が大きく歪む。しかし、彼女は窓辺に噛り付き、歪んだ光景を一心不乱に眺め続けた。掌の開閉作業を何度か眺めていた彼女は、やがてゆっくりと顔を上げる。雨に濡れた窓も一緒についてきた。

 正面には、入口から射し込んだ光が歪んだ円を形作り、薄暗い石の部屋の中を照らしていた。部屋の奥行は深く、光は彼女の所まで届く前に力尽き、地面に白い屍を晒していた。彼女はその屍に気を留めもせず、窓を右に向ける。

 雨に濡れた窓の向こうに、歪んだ男が座っていた。歪んだ男が、彼女に話しかけてくる。

「最初に謝っておく。あんたがかかった病気は、光と音が禁忌なんだ。だから、目と耳を塞いだ。治療に必要だったとはいえ、何も説明せずに塞いで、悪かった」

 男が頭を下げながら告げてきた言葉を聞き、彼女は絶句する。男がした事ではなく、悪魔憑きが病気だという事に。

「病気…?悪魔憑きが、病気?」
「ああ。俺のいた世界でも致死率50%に届く、業病だ。正直、あんたを治す事ができたのは、奇跡と言っていい。少なくとも、もう一度やれと言われても、俺にはできない。だから、頼むから、もう二度とかからんでくれ」

 男の懇願に彼女は返答をせず、しばらく呆然としている。と、彼女は突然、弾かれるように男の左手を掴んで引き寄せ、詰め寄った。

「じゃ、じゃぁ、もう悪魔はいないの?私はもう、悪魔に怯えなくてもいいの?」
「あ、ああ。今日一日、目を開いていても発作が起きなければ、多分大丈夫だ」

 窓の向こうで、歪んだ男が頷いた。

 また雨が激しく降ってきた。雨は容赦なく窓を打ち付け、彼女の視界から男の姿が消えた。彼女はそれには気にもせず、生きている証を受け止めんばかりに打ち付ける雨に身を晒し、雨漏りの激しい顔を手で覆う。

「ああ、あぁぁぁ。私、生きていてもいいんだね?わ、私、生きていられるんだね?あぁぁ…、嬉しい、嬉しいよぉ…ぉぉぉ…、ああああぁぁぁ…」

 もう、戻れないと思っていた。すでに心臓を悪魔に捧げ、舌を掴まれていた彼女は、もう生きる事を許されない身だと諦めていた。しかし、悪魔は彼女を返してくれた。彼女に心臓と舌を返してくれた。いや、返してくれたのは悪魔ではなかった。「父」だ。「父」が彼女の心臓と舌を取り返し、悪魔を追い払ってくれたのだ。

 やがて、何とか雨漏りを塞いだ彼女は、窓を拭き、ゆっくりと顔を上げる。また今にも雨が降り出しそうになるのをじっと堪え、目の前に座る男を見据える。

 彼は、頼りなさそうな男だった。彼は彼女よりも背が低く、体付きも決して良くなかった。その顔は疲労の色が濃く、目の下には隈ができており、顎にはゴマのように髭が散在していた。2歳年下と聞いていたが、膝に肘をついて前屈みとなったその姿勢は、まるで中年のように疲れ切っていた。そして右腕が、なかった。

 それが、「父」の姿だった。彼女が夢にまで見た、悪魔を追い払ってくれた「父」の姿だった。

 彼女は「父」の姿を魂に焼き付けるべく、一挙一動逃さず、見つめていた。彼女の口が勝手に開き、何かを紡ぎ出すように開閉するが、彼女は必死にその気持ちを抑え込んだ。彼女の心の中は、彼に対する様々な感情で荒れ狂っていたが、彼女はそれを言葉に出したくなかった。「ありがとう」だなんてありきたりな言葉一つで、この感情を吐き出したくなかった。

 彼女の内心を知ってか知らずか、「父」が彼女に語り掛ける。

「さて、ケルベロスを倒してから後の事を、少し説明した方がいいかな」

 そう前置きをすると、彼は彼女に説明を始める。ケルベロスを倒した頃には、すでに彼女が破傷風を発症していたであろう事。その翌々日の朝、最も危険な症状を迎えた事。他の者達は、悪魔憑きと知って全て逃げ出してしまった事。病気の症状とその後の経過について。彼は一つ一つ、説明を続けた。

 説明を聞いていくうちに、彼女の目に光が戻り、剥ぎ取られていた殻が少しずつ戻ってくる。彼女の剥き出しの黄身は、殻に覆われ、次第に「シモン」を形成していった。途中、彼女の殻の中では、彼女が彼の前でしでかした事を、醜態と羞恥と黒歴史の三者が肩を組んで熱唱し、それを聞いた矜持と誇りと自尊心が七転八倒してのた打ち回っていたが、表面上の彼女は眉を顰め、目は下を向いたまま固く口を閉ざし、頬を染めてじっと我慢していた。もっとも、「父」の放つ流れ矢が彼女に突き刺さるたびに、彼女の頭は揺れ、目が泳ぎまくっていたが。

 その、泳いだ視線の先には、様々な風景が映し出された。彼女の左腕に繋がった管には一瞬生理的嫌悪を覚えたが、彼が治療に必要と判断したからと無理矢理理性でねじ伏せ、そのままにして行き先を目で追った。その管は、彼女の左上に掲げられた透明の袋に繋がっており、透明の袋からは一滴一滴、液体が垂れ落ちていた。

 布団は、見た事もない真っ白で贅沢な素材が使われており、その先から彼女のしなやかな素足が見えていた。彼女は、自分の下半身が何も身に着けていない事に気付いていたが、「あぁ、私は彼に何もかも見られてしまったんだな」と、湧き上がる想いに乙女のごとく身悶え、胸を熱くしていた。

 そして、視線が彼の向こう側を通り過ぎ、洞窟の隅の一点を映し出した時、彼女は動けなくなる。

「っ…」

 そこには、彼女のハードレザーレギンスと下着が洗濯され、乾かされていた。ハードレザーレギンスは竿にだらしなくぶら下がり、仕上げに失敗して型崩れしていた。そして下着はレギンスと一緒に洗濯したせいで色落ちし、薄茶色に変色していた。

 不器用な「父」だった。家事一つ満足にできない「父」だった。それでも片腕で一生懸命洗おうと努力して、その無様な結果を洞窟の隅に晒していた。

 彼女は、喉元にせり上がる感情を抑え込もうとして、失敗した。彼女の理性が喉に蓋をした結果、喉元から溢れ出た感情が頭蓋の中を満たし、双眸から滝のように流れ落ちる。この人は、なんて酷い人なんだろう。何度、私を泣かせば気が済むんだろう。もう、我慢できなかった。彼女は、滝から流れ落ちる飛沫で三度窓を濡らし、歪んでしまった景色をそのままに、「父」を見つめる。「ありがとう」だけでは、済ませたくなかった。でも、もう無理だった。荒れ狂う感情に流されるまま、心ではなく、体が勝手に言葉を絞り出す。

「あり…が、とう…。わ、わ…たしを救…って…くれ、て、本当に、あ、りが…とう…」

 彼女は「父」の方を向き、微笑みながら、絞り出すように言葉を紡ぐ。滂沱の涙を拭こうともせず流れるに任せ、前が霞んで見えないままに、彼を見つめ続けた。すりガラスと化した窓の向こう側で、「父」はこちらを向いたまま、微動だにしない。彼女は「父」に対し、以前投げかけた質問を、もう一度繰り返す。

「もう一度、もう一度、名前を聞かせてくれ…」
「…トウヤ、だ」

 彼女は、「父」の名前を心臓に刻み込む。決して、決して、この名前は忘れない。そして彼女は、喉元を塞いでいた蓋を開き、体から噴き出す感情そのままに、彼に誓いの言葉を贈る。

「トウヤ、あなたに私の全てを捧げる。私の生ある限り、あなたに付き従い、あなたの手足となろう。銀狼の名に懸け、この牙に誓おう」

 牙の誓い。

 消毒用アルコールが充満し、わずかに糞尿の匂いが漂う洞窟の中、獣人族にとって最も神聖な誓いが立てられた瞬間だった。



 そして、3週間に渡った映画が、終幕を迎えた。
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