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第2章 ハンター

25:父と娘

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 え、音って、あの音?私、本当にまた音が聞こえるようになるの?

 地獄に落ちて何日が経過したか、すでに彼女にはわからない。彼女がわかっていたのは、今後二度と光も音も感じる事ができないという事だった。すでに彼女は悪魔の体内から出る事を諦め、「父」と一日でも長く一緒に過ごす事だけを糧にして、今日まで生きていた。

 それなのに、「父」が、音が返ってくると言ってきたのだ。

 その言葉を聞いても未だ信じられない彼女だったが、やがて、彼女の暗闇の中に風が入ってきた。風の音が入ってきた。そして、遠くでの木々の漣と鳥の声が聞こえてきた。それだけで、彼女の居場所は地獄ではなくなった。ただの暗闇になった。

「…ぁぁあ、あぁ…、ああぁ、ああぁぁああぁああああああああぁぁぁぁぁぁぁっ!」

 彼女は下を向き、何も見えないまま目を見開き、眼前に両手を広げて、声を張り上げた。まるで、たった今自分のあげた声を受け止めるように、一言も漏らさず落とすまいとするかのように。

「…聞こえるよぉ…音が聞こえるよぉ…私の声が聞こえてるよぉ…」

 彼女の目から大粒の涙が流れ、両手に降り注ぐ。彼女の手は声を受け止めるのに手いっぱいで、零れ落ちる涙を受け止める余裕はなく、涙は布団に落ちて染みを広げていった。

 彼女は声を挙げて哭いた。それは恐怖や絶望に彩られたものではなく、歓喜に満ちた、自己の存在を声高に主張するための泣き声だった。まるで生まれたばかりの赤ん坊のように、自分がここに居る事を何よりも自分自身に知らしめるための、儀式だった。

「…発作は起きなさそうだな。今日一日、これで様子を見てみよう。痛かったり、違和感が出たら教えてくれ」

 泣いていた彼女の耳に、自分以外の人物の声が聞こえてきた。彼女は泣くのを止め、声のした方を向く。「父」だ。これが「父」の声だ。

「さて、今のうちに歯を治しておきたい。口を開いてくれるか?」

「父」の言われるままに、彼女は口を開いた。彼女は期待に胸を躍らせ、「父」の指を待つ。彼女の歯が彼の指に摘ままれ、彼の呟きが聞こえてくる。

「汝に命ずる。彼の者に生の息吹を与え、安らぎと癒しを齎せ」

 彼の呟きに応じて、彼女の歯が少しずつ元通りになる。彼は、彼女の歯を1本1本摘まみ、順に治していく。彼女はじっと動かず、彼の指の動きを感じながら、今か今かと待ち続けた。次だろうか…次こそは触れてくれるだろうか…と。

 しかし彼は、彼女の期待には応えてくれず、いつまでも歯を治し続けていた。彼の指は、5日前に触れたっきり彼の温もりを感じていない部位には目もくれず、素通りしていった。彼の指を欲しながらも無視され続けた部位は、ついに我慢できなくなり…。

 彼女は舌を伸ばし、彼の指に舌を絡めた。

 すると彼は突然、歯を癒すのを止め、手を引っ込めた。彼を怒らせてしまったと思った彼女は、捨てられたくないと彼に縋りつく。

「待って!私を置いてかないで!行っちゃヤダ!」

 彼女は彼の手を掴んだまま下を向き、きつく目を瞑り懇願する。

「お願い、良い子にしてるから、私と一緒に居て…」

 じっと目を瞑り、「父」の判決を待つ彼女の耳に、「父」の声が届く。

「…大丈夫だ、何処にも行かない。治療を再開しよう」

 判決を聞いた彼女は涙を浮かべて首をすくめながら顔を上げ、媚びと不安の入り混じった声で「父」に謝った。

「うん、ごめんなさい、パパぁ…」



 ***

 歯の治療が終わった後、いつも通り床に就いた彼女だったが、床の中でずっと耳を澄まし、「父」の動きを追っていた。「父」は無口で彼女に大して話しかけて来なかったが、その分、彼女の脇で何かしらの音を立てていた。最初彼女の右側でカチャカチャ音を鳴らしていたが、突然彼女の左側に移動すると、彼女の上の方で何か物を吊り下げるような音を立てた。その後また右側に戻ってきて座ると、やがて、ペラペラと本のページを捲る音が聞こえてきた。

 やがて、背景で聞こえていた鳥の声が止んで虫の声に代わる頃、「父」が本を閉じ、彼女に声をかけた。

「そろそろ食事にしよう。何か食べたい物はあるか?」

「父」に問われ、彼女は布団を鼻まで被ったまま、声の方を向いて答える。

「何でもいい…」
「そうか。歯も治ったから、少し歯ごたえのある物にするか。野菜スープとパン辺りでどうだ?」
「うん…」
「わかった。ちょっと待ってろ。体を起こしておいてくれ」

 そういうと、彼はゴソゴソ、カチャカチャと音を鳴らし、やがてコト、コトと彼女の前に物を順に並べていく。食欲をそそるスープの匂いが、鼻孔をくすぐる。

「よし…と。スープは厳しいかも知れんが、一人で食べられそうか?」

 そう問われた彼女は、首を横に振る。実際は、スープの位置がわかれば何とかなっただろうが、彼女は「父」にもっと甘えたかった。

「ううん。食べさせて…」
「そうか。熱いから気をつけろよ。よく噛んで食べな」

 そう言うと、彼は彼女の口を開かせ、スプーンを口の中に入れてきた。

 スープは、純粋な野菜スープではなく、鶏の風味も加わった深みのある味わいだった。彼女にとって初めて口にした美味しさだった。パンも柔らかく、ふっくらとした香ばしい生地で、日頃固い黒パンばかり食べていた彼女には衝撃的だった。チーズも濃厚で柔らかく、パンとは一緒ではなく、別々に味わいたいほどだった。彼女は、何故こんな贅沢な食べ物が洞窟内で食べられるのか、疑問に思う事もなく、ゆっくりと時間をかけて、味わった。

 食事が終わり、食器を片付けていると思しきカチャカチャという音を聞きながら、彼女は「父」が戻ってくるのを辛抱強く待った。彼女は寝る前にもう一つ、「父」に甘えたかった。戻ってきた彼に対し、彼女は勇気を振り絞って、願い事を口にした。

「パパ…また体を拭いてくれる?」

 ガチャリという音が聞こえたが、どちらの言葉に対する動揺だろうか。彼女の疑問は、やがて本人から回答を得る事ができた。

「…さっきも思ったんだが、いつから俺は、お前の父親になったんだ?」

 父親を否定され、思わず「娘」もムキになってしまう。

「だって、パパはパパだもん!」

 そう言って剥れる「娘」に対し、しばらく沈黙する「父」。やがて、

「…わかった。今だけだぞ。それと、背中だけな」
「髪の毛と尻尾もお願い…」
「わかったわかった」

 そう言って、準備のためにガチャガチャ音を立て始める「父」を耳にし、「娘」は機嫌を良くするのだった。



 ***

 久しぶりの音に体が慣れていないのだろうか。彼女は突然、目を覚ました。

 耳を澄ますと、強い風の音がする。雨は降っていないようだが、荒れ模様の天気だ。遠くで獣の遠吠えが聞こえる。時間的には夜中のように思えた。

 彼女はぶるりと震え、右腕に添えられた手を揺らし、「父」に声をかける。

「ねぇ、パパ…」
「…んー?」

 連日の看病で疲れているのだろうか、彼女が声をかけても「父」は眠りから覚めようとしない。彼女の右腕に手を添えたまま、生返事を返してくる。そんな彼に対し、彼女は質問を続ける。

「ねぇ、パパ。ずっと私と一緒に居てくれる?」
「…」
「ねぇ、パパ。ねぇってば」
「…なん、だぁ…?」
「お願い、パパ。ずっと私と一緒に居てくれる?私、ずっとパパと一緒に居たいの…」
「…あぁ…そぉ…わかったぁ…」
「ホント?ねぇ、約束よ、約束」
「…あぁ…あいよぉ…」

 呂律の回らない発言の後、いびきをかき始める「父」。彼女は、その彼の手を感じながら、このいびきに慣れていこうと心に決めていた。



 ***

 彼女が目を覚ました時、外からは小鳥の囀りが聞こえていた。音のある朝が久しぶりの彼女は、聞こえてくる音を堪能しようと、布団の中でモゾモゾと寝返りを打つ。

「お、起きたか。お早う。もう少し寝てるか?」
「お早う…、んー、もうちょっと…」
「そうか。目が覚めたら言ってくれ。目を治すからな」

 彼女は、すぐに目が覚めた。
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