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第2章 ハンター
21:孤戦
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濃橙から黒に塗りつぶされ始めた原野の中を、立て続けに爆音が鳴り響く。それを追うのは、草木を飛沫のようにまき上げて疾走する闇の巨体。
シモンとケルベロスでは、体格、重量、ともに比較にならない。必然的に逃げるシモン、追うケルベロスの構図が出来上がる。
「汝に命ずる。氷を纏いし蒼白の槍となり、我に従え。空を割く線条となり、彼の者を貫け!…お願い、当たって!当たってよぉぉぉぉっ!」
「汝に命ずる。礫を束ねて岩となり、巴を成せ。我に従って三条の弧を描き、彼の者を打ち据えろ!…クソ、アイツ気にもしやがらない!」
フルールとチックが感情をむき出しにしながら、魔法を詠唱する。
彫像と化した本隊は、止むを得ず支援隊の魔術師を前に出し、攻撃をかけていた。火と風を封じられた今、支援隊の地、水しか有効打がない。しかし、支援隊は所詮C級とD級。魔法の性能はともかく戦闘経験で劣り、高速で走り回るケルベロスに標準が合わない。シモンが時折本隊を横切る形で逃げ、ケルベロスの側面を本隊に晒させるが、ケルベロスも承知したもので、こちら側を向いた顔が常に本隊を注視し続けている。相当老獪な個体であり、ジャベリン系はしっかりと躱すが、ボール、バレット系は撃たれるに任せ、時折ロックバレットの直撃を受けても気にした様子がない。直撃によって体が外側に押し出されるが、「ライトウェイト」によって軽量化されているからであり、ダメージには繋がっていないようだ。コレットの矢はすでに5本も背中に刺さっているが、蚊にでも刺されたかの如く、無視されている。イレーヌはレオに羽交い絞めにされ、ソレーヌの方を向いたままだ。
柊也は早々に詠唱を放棄し、歯を食いしばりながらケルベロスを見つめ、苦悩していた。最初、柊也もロックバレットを放ってみたが、まるでタイミングが合わず、当たらない。自分の魔法技術では、無理。奴を倒すには、火、風以外で、殺傷力があり、しかも油断に繋がるものが必要だ。何か、あるはずだ。何か…。
やがて決意を固めた柊也は、皆の視線から外れるように移動し、石壁の陰に隠れる。そして右腕を伸ばし、20リットル程のポリタンクを取り出した。地面に置き、蓋を開けると、詠唱を開始する。
「汝に命ずる。彼の流体を操り、巴の球を成し、我に従え」
詠唱に応じて、ポリタンクの中の液体が蛇のように顔を出し、柊也の頭上で3つの球体を形作る。無色無臭の、やや粘度の高い透明な液体だ。思った通りだ。向こうの物質でも、魔法の対象になる。予想通りの結果に一安心すると、柊也はポリタンクを岩壁の陰に置き、本隊に戻った。ポリタンクから2m以上離れ、5分後の消失を待つ。
これで武器は整った。後は、タイミングの問題。
一度限りの博打を控え、緊張で体が強張る。柊也は、早く撃って緊張から逃げ出そうとする心を叱咤し、じっと高速で飛び交う2つの影を見続けた。
***
爆音を響かせ、疾走を続けながら、シモンは歯噛みをしていた。どうしても、ケルベロスを振り切れない。
トップスピードだけで言えば、「疾風」の方が勝った。しかし「ライトウェイト」を駆使したケルベロスは、高い身体能力を武器に、しぶとくついてくる。しかも、小回りの点でいうと「ライトウェイト」の方が遥かに有能だった。「疾風」は後方爆発を利用した推進方法なので、方向転換は大回りとなる。体重を無視できる「ライトウェイト」は、トップスピードからの直角とも言える進路変更も可能としており、結果、シモンが方向転換をするたびに、次第にケルベロスに距離を詰められていった。
やがて、進行方向の光景を目にしたシモンは、大きく舌打ちをする。例の洞窟の崖が迫っていた。これまでは、タイミングを読ませない不意な方向転換をしていたが、今度は悟られてしまう。右か左か、二択しかない。
一瞬で覚悟を決めたシモンは、目前の木の幹を盾にする形で、左に舵を切る。進行方向には本隊がいる。また側面を横切って、横撃を期待するしかない。そう判断して「疾風」を発動し、幹から顔を出すシモン。しかし、
「くっ…」
左から押し寄せる黒い影。行動を読んでいたケルベロスが、先回りして滑空で襲い掛かる。
避け切れない。そう判断したシモンは左半身に「防壁」を張り、左腕と左足を上げ、頭と胴を守る。そこへ、大きな鉤爪が襲い掛かった。
「ぐぅぅぅっ!」
ケルベロスの鉤爪は「防壁」を破り、シモンは、左腕から左腿にかけ大きく切り裂かれる。4本の紅い線条が宙を舞う。勢いを殺せなかったシモンは地面を何度も転がり、しかし、何とか崖に打ち付けられるのだけは避けると、すぐに片膝立ちで構える。左半身が赤と濃茶の大きな斑模様に染まるにも構わず、その闘志は衰えず、慣性に引っ張られて流されながらも方向転換をする巨体を睨みつける。
その視界の端に、駆け寄って来る誰かの姿が見えた。
***
二つの影が崖に向かって突進するのを見た柊也は、覚悟を決める。あそこで必ず減速する。距離は約40m。賭けるならここだ。
「あ、おいっ!お前、待て!戻るんだ!」
ジルが呼び止めるのも構わず、柊也は驀進する二つの影の進行方向を予想し、崖に向かって飛び出す。ケルベロスの左側の頭がこちらを見ているが、動きに変化はない。シモンの脅威を優先している。
やがて、シモンがこちらに方向転換をしたところでケルベロスが宙を舞い、ムササビのように滑空して彼女に襲い掛かる。柊也の目前を黒い風が通り過ぎ、シモンが転がるのが見えた。ここだ。
「我に従い三条の弧を描き、彼の者を打ち据えろ」
ケルベロスは地響きをたてて着地し、シモンを見据えたまま方向転換して、尻をこちらに向けている。シモンに襲い掛かるために「ライトウェイト」を直前で切っていたようで、着地の勢いは未だ残り、体が流されたままだ。
その巨体に向かい、3つの「ウォーターボール」が飛翔する。一拍遅れて右の頭が気づいたようだが、避ける様子はなく、3つの「ウォーターボール」はそのまま巨体に直撃した。
***
そのケルベロスは、長い間山野を駆け巡った歴戦の戦士だったが、生まれた時の彼は、同族の中でむしろ劣った存在であった。本来3つの頭が各々の素質を持ち、この素質を活用して厳しい生存競争を勝ち抜いていかなければならないが、彼は3つのうちの2つは何の発動もできず、最後の1つもただ体が軽くなるだけだった。兄弟達がブレスやファイアボールを吐いて獲物を捕らえ、腹を満たす中、彼だけが餓えに苦しむ時もあった。
彼が自分の素質に気付いたのは、兄弟との縄張り争いの時だった。その時、兄弟が放ったブレスを真っ向から浴びた彼は、何ら痛みを感じない事を知る。彼はブレスの直撃を受けたまま相手の元に飛び込むと、その獰猛な牙で喉元に食らいついた。相手が嫌がってブレスを浴びせるのも構わず何度も相手を地面に打ち付け、やがて相手は動かなくなった。
こうして彼は自分の縄張りを持ち、自分の獲物を見定めた。彼が狙うべきは、誰もが狙う弱者ではない。獲物は、歯向かい反抗する、気骨のある方がいい。ライバルが敬遠する者であれば、自分が総取りできる。その信念の元、彼は山野を駆け巡り、彼に対し火を吐き、風を突き付ける相手へ正面から襲い掛かり、腹を満たした。
時折、自分の素質と合わない相手に遭遇すると、彼は何度か手痛いしっぺ返しを受けた。その都度、彼は、痛みという授業料を支払い、少しずつ地と水という属性を学んでいった。地と水で避けるべきもの、一顧だにせずに済むもの、無視し得るもの。彼は何度も「授業」を受け、体の隅々に浸透するまで学習し続けた。
やがて彼は縄張りを飛び出し、新たな新天地を見つける。そこは、火球を吐く狼が群れを為す凶悪な地帯だったが、彼にとってはただの生け簀だった。彼は喜び勇んで群れに突入し、まるで幼児が金魚すくいを行うが如く、縦横無尽に走り回った。
その中で遭遇した、初めて見る動物。何やら二本足で歩く、猿の様な生き物。最初は用心深く様子をうかがっていたが、恐れるに値しない。そう判断した彼は、蹂躙を開始する。彼にとってはほとんど歯牙にもかけない相手だったが、一頭だけ、地属性のすばしっこい面倒な奴がいた。彼は蜂が嫌いだった。だから、彼はこの面倒な奴を敵と見定め、潰すことにした。脇から水のジャベリン系が飛んでくるが、これだけ避ければ、残りは雑作もない。
こうして彼は相手を追い回し、ついにそいつを捕らえた。目の前にいる奴はまだ敵意を持っているが、すでに羽は奪ってある。猿だか狼だか蜂だか彼には区別がつかなかったが、彼はそいつに止めを刺そうとしたところで、右後方から何かが飛んで来るのに気づいた。「ウォーターボール」だ。ちょうどいい。最近水浴びをしていなかった。さっきから背中が痒くてたまらなかった彼は、これ幸いとその「ウォーターボール」をその身に受ける。「ウォーターボール」は彼の背中から右後ろ足にかけて当たると、やや粘りっこい感じで、彼の半身を覆う。
その途端、彼の全身に雷が駆け巡った。
***
「ギャゥッ!ギャゥッ!」
「ガゥッガゥッ!グワァァァゥ!」
「キャインキャイン!」
シモンは片膝立ちで構えたまま、目の前で無様にのたうちまわるケルベロスを、呆然と眺めていた。ケルベロスは、目の前で呆然と動かないシモンの存在さえ忘れ、地面を転げまわり、背中を擦り付けようとする。しかし、体を走る激痛は消えない。その半身からは水蒸気があがり、すでに右後ろ足は爛れ、痙攣を起こして、自分のいう事をきかない。
「あの液体に触れるなよ。体が溶けるぞ」
声をかけられてから初めて気づき、横を向くと、隻腕の男が左手を差し出している。左手を庇って、右手でその手を取り、体を起こしながら、シモンは男に問いかけた。
「あの魔法は?」
「説明は後だ。まずは奴を倒さないと。液体には触れるな。できれば煙も吸うなよ」
「わ、わかった」
男の意見に首肯すると、シモンは気持ちを切り替え、ケルベロスと相対する。すでに機動力は失われたが、短距離であれば「疾風」で飛び込める。シモンがケルベロスの頭部に飛び込んで行くのを見ながら、男は「ロックジャベリン」の詠唱を始めた。
濃硫酸。
柊也がケルベロスに叩き込んだ「ウォーターボール」の正体である。強力な脱水作用を有し、人体に付着すると、激しい反応熱を起こしてその部位が溶解する。日本では劇物として指定される、危険物質である。
ケルベロスの眼前に飛び込んだシモンは、「防壁」を発動すると、自身の傷を顧みず、その拳を右の頭へと叩き込む。ここで決めなければならない。殴るだけでは倒せないと判断すると、左拳で貫手にして、ケルベロスの首に突き込む。嫌な音がして左手指に痛みが走るが、構わずケルベロスの体内で指を動かし、何かの管を引きずり出し、捩じ切る。鮮血が跳ね、返り血を全身に浴びたシモンは、しかし、そのまま右拳を眼窩に突き入れ、今度は眼球を引きずり出した。後ろから飛んできた「ロックジャベリン」が彼女の横を通り過ぎ、ケルベロスの脇腹に突き刺さる。
「ギャンッ!」
この時になって、ついに彼は音を上げた。それまではただ痛みに悶え、七転八倒しているだけだったが、シモンの攻撃により右の頭の生命が失われつつあり、右後ろ足はすでに全く動かない。その中で、遠くから走り寄る多数の足音を聞いた彼は、死の恐怖に初めて怯え、逃れようと最後の力を振り絞って足掻く。残る三肢を振り回し、飛び跳ねる硫酸から免れようとシモンと柊也が後ろに下がった隙をついて何とか起き上がると、すでに瀕死の右の頭を叱咤し、何とか「ライトウェイト」を発動させる。そして、よろよろと走り出した。ここに居ては駄目だ。何とか山に逃げ込まなければ。
「ぐぅっ!」
何としても仕留めようと、シモンが無理矢理「疾風」を連発させるが、左足に力が入らない。2発目で転倒し、シモンは地面を二転する。何とか腕だけで起き上がるが、すでにケルベロスの姿は見えず、ガサガサと揺れ動く藪だけが見えた。死に物狂いのケルベロスの逃避行の前には、ジル達の駆け足では追いつけそうになかった。
「くそっ!」
腹這いのまま地面を叩きつけるシモンに柊也が駆け寄り、もう一度左手を差し伸べる。右手でその手を掴み、ゆっくりと立ち上がったシモンは、柊也を見つめ、礼を言う。
「正直、君に助けられるとは、夢にも思わなかった。大変申し訳なかった。そして、礼を言わせてもらおう。ありがとう、君のお陰で助かった。ええと…」
「トウヤだ。こちらこそ、あなたに礼を言いたい。あなたが孤軍奮闘してくれたからこそ、我々は生き残れたんだ」
「そうか。君にそう言って貰えると、私も救われる思いだ。ありがとう、トウヤ」
右手と左手でぎこちない握手を交わした二人は、周囲を見渡す。ジルと2人の戦士、それとフルールがこちらに駆け寄って来ており、遠くではイレーヌとレオが、ソレーヌの下へと走っている。石壁の下では、コレットとドナ、チックが、倒れ伏した戦士達を看取っていた。
討伐隊15名中、死者はB級3名、C級1名。重傷者はA級1名。一方、ケルベロスの損害は推定、足が1本と首が1つ。初戦は、討伐隊の惨敗で幕を閉じた。
シモンとケルベロスでは、体格、重量、ともに比較にならない。必然的に逃げるシモン、追うケルベロスの構図が出来上がる。
「汝に命ずる。氷を纏いし蒼白の槍となり、我に従え。空を割く線条となり、彼の者を貫け!…お願い、当たって!当たってよぉぉぉぉっ!」
「汝に命ずる。礫を束ねて岩となり、巴を成せ。我に従って三条の弧を描き、彼の者を打ち据えろ!…クソ、アイツ気にもしやがらない!」
フルールとチックが感情をむき出しにしながら、魔法を詠唱する。
彫像と化した本隊は、止むを得ず支援隊の魔術師を前に出し、攻撃をかけていた。火と風を封じられた今、支援隊の地、水しか有効打がない。しかし、支援隊は所詮C級とD級。魔法の性能はともかく戦闘経験で劣り、高速で走り回るケルベロスに標準が合わない。シモンが時折本隊を横切る形で逃げ、ケルベロスの側面を本隊に晒させるが、ケルベロスも承知したもので、こちら側を向いた顔が常に本隊を注視し続けている。相当老獪な個体であり、ジャベリン系はしっかりと躱すが、ボール、バレット系は撃たれるに任せ、時折ロックバレットの直撃を受けても気にした様子がない。直撃によって体が外側に押し出されるが、「ライトウェイト」によって軽量化されているからであり、ダメージには繋がっていないようだ。コレットの矢はすでに5本も背中に刺さっているが、蚊にでも刺されたかの如く、無視されている。イレーヌはレオに羽交い絞めにされ、ソレーヌの方を向いたままだ。
柊也は早々に詠唱を放棄し、歯を食いしばりながらケルベロスを見つめ、苦悩していた。最初、柊也もロックバレットを放ってみたが、まるでタイミングが合わず、当たらない。自分の魔法技術では、無理。奴を倒すには、火、風以外で、殺傷力があり、しかも油断に繋がるものが必要だ。何か、あるはずだ。何か…。
やがて決意を固めた柊也は、皆の視線から外れるように移動し、石壁の陰に隠れる。そして右腕を伸ばし、20リットル程のポリタンクを取り出した。地面に置き、蓋を開けると、詠唱を開始する。
「汝に命ずる。彼の流体を操り、巴の球を成し、我に従え」
詠唱に応じて、ポリタンクの中の液体が蛇のように顔を出し、柊也の頭上で3つの球体を形作る。無色無臭の、やや粘度の高い透明な液体だ。思った通りだ。向こうの物質でも、魔法の対象になる。予想通りの結果に一安心すると、柊也はポリタンクを岩壁の陰に置き、本隊に戻った。ポリタンクから2m以上離れ、5分後の消失を待つ。
これで武器は整った。後は、タイミングの問題。
一度限りの博打を控え、緊張で体が強張る。柊也は、早く撃って緊張から逃げ出そうとする心を叱咤し、じっと高速で飛び交う2つの影を見続けた。
***
爆音を響かせ、疾走を続けながら、シモンは歯噛みをしていた。どうしても、ケルベロスを振り切れない。
トップスピードだけで言えば、「疾風」の方が勝った。しかし「ライトウェイト」を駆使したケルベロスは、高い身体能力を武器に、しぶとくついてくる。しかも、小回りの点でいうと「ライトウェイト」の方が遥かに有能だった。「疾風」は後方爆発を利用した推進方法なので、方向転換は大回りとなる。体重を無視できる「ライトウェイト」は、トップスピードからの直角とも言える進路変更も可能としており、結果、シモンが方向転換をするたびに、次第にケルベロスに距離を詰められていった。
やがて、進行方向の光景を目にしたシモンは、大きく舌打ちをする。例の洞窟の崖が迫っていた。これまでは、タイミングを読ませない不意な方向転換をしていたが、今度は悟られてしまう。右か左か、二択しかない。
一瞬で覚悟を決めたシモンは、目前の木の幹を盾にする形で、左に舵を切る。進行方向には本隊がいる。また側面を横切って、横撃を期待するしかない。そう判断して「疾風」を発動し、幹から顔を出すシモン。しかし、
「くっ…」
左から押し寄せる黒い影。行動を読んでいたケルベロスが、先回りして滑空で襲い掛かる。
避け切れない。そう判断したシモンは左半身に「防壁」を張り、左腕と左足を上げ、頭と胴を守る。そこへ、大きな鉤爪が襲い掛かった。
「ぐぅぅぅっ!」
ケルベロスの鉤爪は「防壁」を破り、シモンは、左腕から左腿にかけ大きく切り裂かれる。4本の紅い線条が宙を舞う。勢いを殺せなかったシモンは地面を何度も転がり、しかし、何とか崖に打ち付けられるのだけは避けると、すぐに片膝立ちで構える。左半身が赤と濃茶の大きな斑模様に染まるにも構わず、その闘志は衰えず、慣性に引っ張られて流されながらも方向転換をする巨体を睨みつける。
その視界の端に、駆け寄って来る誰かの姿が見えた。
***
二つの影が崖に向かって突進するのを見た柊也は、覚悟を決める。あそこで必ず減速する。距離は約40m。賭けるならここだ。
「あ、おいっ!お前、待て!戻るんだ!」
ジルが呼び止めるのも構わず、柊也は驀進する二つの影の進行方向を予想し、崖に向かって飛び出す。ケルベロスの左側の頭がこちらを見ているが、動きに変化はない。シモンの脅威を優先している。
やがて、シモンがこちらに方向転換をしたところでケルベロスが宙を舞い、ムササビのように滑空して彼女に襲い掛かる。柊也の目前を黒い風が通り過ぎ、シモンが転がるのが見えた。ここだ。
「我に従い三条の弧を描き、彼の者を打ち据えろ」
ケルベロスは地響きをたてて着地し、シモンを見据えたまま方向転換して、尻をこちらに向けている。シモンに襲い掛かるために「ライトウェイト」を直前で切っていたようで、着地の勢いは未だ残り、体が流されたままだ。
その巨体に向かい、3つの「ウォーターボール」が飛翔する。一拍遅れて右の頭が気づいたようだが、避ける様子はなく、3つの「ウォーターボール」はそのまま巨体に直撃した。
***
そのケルベロスは、長い間山野を駆け巡った歴戦の戦士だったが、生まれた時の彼は、同族の中でむしろ劣った存在であった。本来3つの頭が各々の素質を持ち、この素質を活用して厳しい生存競争を勝ち抜いていかなければならないが、彼は3つのうちの2つは何の発動もできず、最後の1つもただ体が軽くなるだけだった。兄弟達がブレスやファイアボールを吐いて獲物を捕らえ、腹を満たす中、彼だけが餓えに苦しむ時もあった。
彼が自分の素質に気付いたのは、兄弟との縄張り争いの時だった。その時、兄弟が放ったブレスを真っ向から浴びた彼は、何ら痛みを感じない事を知る。彼はブレスの直撃を受けたまま相手の元に飛び込むと、その獰猛な牙で喉元に食らいついた。相手が嫌がってブレスを浴びせるのも構わず何度も相手を地面に打ち付け、やがて相手は動かなくなった。
こうして彼は自分の縄張りを持ち、自分の獲物を見定めた。彼が狙うべきは、誰もが狙う弱者ではない。獲物は、歯向かい反抗する、気骨のある方がいい。ライバルが敬遠する者であれば、自分が総取りできる。その信念の元、彼は山野を駆け巡り、彼に対し火を吐き、風を突き付ける相手へ正面から襲い掛かり、腹を満たした。
時折、自分の素質と合わない相手に遭遇すると、彼は何度か手痛いしっぺ返しを受けた。その都度、彼は、痛みという授業料を支払い、少しずつ地と水という属性を学んでいった。地と水で避けるべきもの、一顧だにせずに済むもの、無視し得るもの。彼は何度も「授業」を受け、体の隅々に浸透するまで学習し続けた。
やがて彼は縄張りを飛び出し、新たな新天地を見つける。そこは、火球を吐く狼が群れを為す凶悪な地帯だったが、彼にとってはただの生け簀だった。彼は喜び勇んで群れに突入し、まるで幼児が金魚すくいを行うが如く、縦横無尽に走り回った。
その中で遭遇した、初めて見る動物。何やら二本足で歩く、猿の様な生き物。最初は用心深く様子をうかがっていたが、恐れるに値しない。そう判断した彼は、蹂躙を開始する。彼にとってはほとんど歯牙にもかけない相手だったが、一頭だけ、地属性のすばしっこい面倒な奴がいた。彼は蜂が嫌いだった。だから、彼はこの面倒な奴を敵と見定め、潰すことにした。脇から水のジャベリン系が飛んでくるが、これだけ避ければ、残りは雑作もない。
こうして彼は相手を追い回し、ついにそいつを捕らえた。目の前にいる奴はまだ敵意を持っているが、すでに羽は奪ってある。猿だか狼だか蜂だか彼には区別がつかなかったが、彼はそいつに止めを刺そうとしたところで、右後方から何かが飛んで来るのに気づいた。「ウォーターボール」だ。ちょうどいい。最近水浴びをしていなかった。さっきから背中が痒くてたまらなかった彼は、これ幸いとその「ウォーターボール」をその身に受ける。「ウォーターボール」は彼の背中から右後ろ足にかけて当たると、やや粘りっこい感じで、彼の半身を覆う。
その途端、彼の全身に雷が駆け巡った。
***
「ギャゥッ!ギャゥッ!」
「ガゥッガゥッ!グワァァァゥ!」
「キャインキャイン!」
シモンは片膝立ちで構えたまま、目の前で無様にのたうちまわるケルベロスを、呆然と眺めていた。ケルベロスは、目の前で呆然と動かないシモンの存在さえ忘れ、地面を転げまわり、背中を擦り付けようとする。しかし、体を走る激痛は消えない。その半身からは水蒸気があがり、すでに右後ろ足は爛れ、痙攣を起こして、自分のいう事をきかない。
「あの液体に触れるなよ。体が溶けるぞ」
声をかけられてから初めて気づき、横を向くと、隻腕の男が左手を差し出している。左手を庇って、右手でその手を取り、体を起こしながら、シモンは男に問いかけた。
「あの魔法は?」
「説明は後だ。まずは奴を倒さないと。液体には触れるな。できれば煙も吸うなよ」
「わ、わかった」
男の意見に首肯すると、シモンは気持ちを切り替え、ケルベロスと相対する。すでに機動力は失われたが、短距離であれば「疾風」で飛び込める。シモンがケルベロスの頭部に飛び込んで行くのを見ながら、男は「ロックジャベリン」の詠唱を始めた。
濃硫酸。
柊也がケルベロスに叩き込んだ「ウォーターボール」の正体である。強力な脱水作用を有し、人体に付着すると、激しい反応熱を起こしてその部位が溶解する。日本では劇物として指定される、危険物質である。
ケルベロスの眼前に飛び込んだシモンは、「防壁」を発動すると、自身の傷を顧みず、その拳を右の頭へと叩き込む。ここで決めなければならない。殴るだけでは倒せないと判断すると、左拳で貫手にして、ケルベロスの首に突き込む。嫌な音がして左手指に痛みが走るが、構わずケルベロスの体内で指を動かし、何かの管を引きずり出し、捩じ切る。鮮血が跳ね、返り血を全身に浴びたシモンは、しかし、そのまま右拳を眼窩に突き入れ、今度は眼球を引きずり出した。後ろから飛んできた「ロックジャベリン」が彼女の横を通り過ぎ、ケルベロスの脇腹に突き刺さる。
「ギャンッ!」
この時になって、ついに彼は音を上げた。それまではただ痛みに悶え、七転八倒しているだけだったが、シモンの攻撃により右の頭の生命が失われつつあり、右後ろ足はすでに全く動かない。その中で、遠くから走り寄る多数の足音を聞いた彼は、死の恐怖に初めて怯え、逃れようと最後の力を振り絞って足掻く。残る三肢を振り回し、飛び跳ねる硫酸から免れようとシモンと柊也が後ろに下がった隙をついて何とか起き上がると、すでに瀕死の右の頭を叱咤し、何とか「ライトウェイト」を発動させる。そして、よろよろと走り出した。ここに居ては駄目だ。何とか山に逃げ込まなければ。
「ぐぅっ!」
何としても仕留めようと、シモンが無理矢理「疾風」を連発させるが、左足に力が入らない。2発目で転倒し、シモンは地面を二転する。何とか腕だけで起き上がるが、すでにケルベロスの姿は見えず、ガサガサと揺れ動く藪だけが見えた。死に物狂いのケルベロスの逃避行の前には、ジル達の駆け足では追いつけそうになかった。
「くそっ!」
腹這いのまま地面を叩きつけるシモンに柊也が駆け寄り、もう一度左手を差し伸べる。右手でその手を掴み、ゆっくりと立ち上がったシモンは、柊也を見つめ、礼を言う。
「正直、君に助けられるとは、夢にも思わなかった。大変申し訳なかった。そして、礼を言わせてもらおう。ありがとう、君のお陰で助かった。ええと…」
「トウヤだ。こちらこそ、あなたに礼を言いたい。あなたが孤軍奮闘してくれたからこそ、我々は生き残れたんだ」
「そうか。君にそう言って貰えると、私も救われる思いだ。ありがとう、トウヤ」
右手と左手でぎこちない握手を交わした二人は、周囲を見渡す。ジルと2人の戦士、それとフルールがこちらに駆け寄って来ており、遠くではイレーヌとレオが、ソレーヌの下へと走っている。石壁の下では、コレットとドナ、チックが、倒れ伏した戦士達を看取っていた。
討伐隊15名中、死者はB級3名、C級1名。重傷者はA級1名。一方、ケルベロスの損害は推定、足が1本と首が1つ。初戦は、討伐隊の惨敗で幕を閉じた。
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僕はもう我慢の限界を超えてしまった… 早く小百合さんの中に…
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