願わないと決めた

蛇ノ目るじん

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番外2 元留学生の半生

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※兄である元王太子の、「特別」である青年の話です。



 その国を選んだ理由は、特にない。国家としてそれなりに安定していて、幅広く学べる環境であれば、どこでも良かった。
 当時、国として末期に近づきつつあった故郷のごたごたに巻き込まれないのであれば、どこでだって。

 知人が幾つか差し出してきた候補の中からその国を選んだのは、地理的に一番離れていて、治安が良かったからに過ぎない。後、唯一同盟国という繋がりがあったから、というのもある――当時は実質属国だったが――。
 両親は既に亡く、孤児であった自分を引き止めるものはもう故郷には無く、僕は十歳を迎えるよりも早く、生まれた国を捨てた。


 僕の入った学院は初等部・中等部・高等部と三段階に分かれていて、僕はその初等部からだった。
 初めの一年は、割合に平凡で平穏だった。知人から、余所者は下手に孤立すると不味い、といったことを耳にたこが出来るほどに聞かされ、短期講義も受けていたため――合格認定はついぞ貰えなかったが――、十歳にして僕は作り笑いを自然に浮かべる術を確立した。
 生意気だと詰め寄ってきた相手を、知人やさらにその知り合い直伝の技をかけて黙らせた。何故か伸した相手の一部から懐かれた。この一年は、こんな感じで過ぎていった。
 そうでない一部の存在の親から、一時期命を狙われていた、という話を数年後になって知った。割とすぐに鎮圧されたため、教える機会が無かったのだと言われた。

 次いで二年目は、継承権を放棄した王族が編入してきたとかで年度初めはやたら騒がしかった。休日に出かけた学院の外でも、やれ戦争だ、やれ交渉決裂だと物騒な話が飛び交っていた。いつの間にか立ち消えていたが、続くようなら別の国に移動できないか知人に打診していたかもしれない。……今思ったが、僕はこの頃から結構性格が悪いようだ。
 僕が命を狙われなくなった背景には、この王族の編入が関係しているとかいないとか。詳細は聞いた様な気もするが、覚えていない。当時は、命の危機とか関知外だったせいもある。
 その王族とは年が離れているし、第一、初等部と中等部は同じ学園内にあるとは言え、校舎の位置は相当離れている。故にその年、顔を見たのはただ一回。年に一度、秋に学院総出で行われる武術大会での時だけだ。確か魔術部門で優勝していた。今にも倒れそうに青い顔をしているのに、妙な威圧感を持った奴だと感じた。その後、風の噂で表彰式後、しばらく医務室の住人になったらしい事を聞いた。生まれつき体が弱いらしい。無茶しなきゃいいのに。
 ちなみに僕は持久力がないので、初等部内での勝抜き戦の三回戦目で脱落しておいた。自分で決めての行動だったが、それでもちょっと悔しかったので、その後から体力増強に努めるようになった。

 続く三年目。初等部から中等部に上がった。
 年度初めから数ヵ月後、中等部から入学してきた者と、繰り上がりの者の間で対立が起こった。この対立は年を追うに連れ、少なくとも表面上は軟化していったのだが、この一年は目に見えて酷かった。
 武術大会は、一歩間違えば死者が出かねない惨事が随所で頻発した。一回戦なのに。一回戦なのに。僕は二回戦で、中等部三年の先輩に力及ばず負けた。悔しかったけど、先年よりは気分がすっきりしていた。
 対立はどの学年でも多かれ少なかれ有るようだが、僕達の時は十年に一度の酷さだったらしい。年度末の筆記試験の後、実技試験として魔獣がうじゃうじゃしている樹海に学年丸ごと放り込まれた。期間は一週間。
 学園黎明期の頃から行われている伝統ある試験形式だそうだが、近年稀に見る難易度の実技試験お仕置きだったそうだ。……冗談抜きで死ぬかと思った。生きるか死ぬかの瀬戸際を経験し、時には助け合ってやり抜いたからか、対立はここでかなり鎮火した。
 ちなみに、教授陣の必死の尽力により怪我人はいるが死者は出ていないため、僕が帰国するまで毎年決行されていた。今はどうか知らない。

 そして、四年目。僕はこの年、こう形容するのはかなり……いや、ものすごく気恥ずかしいのだが、自分の運命に出会った。
 まず、それまで僕達を担当していた魔術講師が引退した。そして、新たに着任したのは一時期騒ぎになったあの王族だった。高等部に上がり――基本的な事は中等部までで学べるので、高等部に進学する者はより専門的な分野を深める場合が多く、より実践的な活動が多くなる――、講師の真似事はその「実践的な活動」に類するのだそうだ。
 始め、彼は武術大会で見せた覇気を一切感じさせなかったが、彼の二年前の姿を知らない中等部からの入学者が、彼を皮肉ったのだ。彼――サダルスード講師が王妃を母に持つ有力な王位継承者であった事、その病弱さゆえに継承権を放棄した為、王妃の祖国との仲が一時険悪になっていた事は、当時その国ではよく知られた話だった。
 彼は自身については何も反論しなかったが、話が王妃と王太子に及んだところでその顔から穏やかな微笑が砕け散り、標的のみに焦点を絞った雷撃を落としていた。その精度は驚くべきもので、床にも壁にも焦げ目一つ無かった。全身から黒い煙を立ち上らせて気を失っている被害者を、血相を変えて飛んできた用務員に押しつけ、淡々と授業を始めた講師に、逆らってはいけないと一同硬く決意したのは記憶に新しい。ちなみにその生徒は、自ら退学した。
 …………前置きが長くなった。継承権を放棄したサダルスード講師だが、血縁とすっぱり縁を切っていたかというと、そうではなかった。
 ある時、僕は禁帯出の本の貸し出し許可証を貰うべく、サダルスード講師の研究室を訪れた。その時部屋に居たのは講師の他に二人。一人は僕より少し年下らしい子供。そしてもう一人は、屋内だというのにすっぽりと全身を隠していた。
 その時の僕の意識は、全身布で覆われた人物の影に隠れながらも、一丁前に眼を飛ばしてくる生意気な、赤っぽい金茶の頭の子供一人に集約されていた。
 気に入らない。第一印象がそれだったな。その前提は今も覆っていない。むしろ強化されている。何せ僕の運命を掌中に包んでいる相手だ。不本意だけれどね。あの時、彼を守れるとすれば、それは僕じゃなかった。僕では、無理だった。
 その時の話はそれだけだ。僕にとって最悪の敵。それを認識しただけ。多分、向こうも似たような事を思っているだろう。顔を合わせる機会はまぁ、それなりにあったけど、最後まで歩み寄る事なんて無かった。少なくともこっちは最期まで、そのつもりはない。
 研究室での遭遇から、一ヶ月くらい後だったかな。季節が春から夏へと変わる、どんどん気温が上がってくる頃。昼間だったから、休日だったと思う。僕は寮の自室で課題をやってたけど、その日は風もなくてさすがに少し参ってた。で、気分を変えようと思った。学院には割と水場とかあったから、その近くの木陰なんか少しは過ごしやすいだろうと考えたわけだ。食堂でお茶とか貰って、外へ出かけた。
 まぁ、結論から言うと、考える事は皆同じ。どこの木陰も大体先客が居た。
 仕方ないんで、僕はあっちこっち歩き回った。その内、どんどん人気の無い方に来て、まぁ、ここらで良いかと思った。その時、変な音が聞こえた。何だろうと思って音の方へ行ってみたら、知らない人がいた。酸っぱい臭いが辺りには充満していて、吐いていたんだと思った記憶がある。
 そうしていたら、不意にその人がぎらりと殺意を向けてきた。そんな状況じゃないと分かっていたけれど、波打つように濡れた、湖の深い部分の色のような目が、とても美しかった。傍らで静かな水面を湛えている泉よりも、さらに深い色。その目を、近くで見たいと思った。
 その人は俺を視界に入れた後、立ちすくんでいる僕にハッとしたのか殺気を消した。何か言いかけて、また苦しそうに嘔吐えずくから、僕は手に持っていた課題とかをそこらに置いて、思わず駆け寄っていた。その人の周囲は、胃酸の臭いで息が詰まるようだった。こんな空気の中じゃ、誰だって気分が悪くなると思って僕は取りあえず、その人が少し落ち着くのを待って、場を少し移すことにした。
 向かって風下になるように風を吹かせ、少し臭いが薄らぐと、その人も落ち着いたようだった。
 襟元からきっちり着込んでいるのが暑そうだなと思ったけど、その人は少し困ったように笑うだけで、何だか触れてはいけない気がした。実際、名前も素性も知らない人だから聞くのは失礼だと思った。すぐ近くで見たいと思った目は、今度は近くて逆に直視できなかった。
 その後は、吐きそうな感じも無くなって来たから、持ってきていたお茶の水筒だけ押しつけて帰った。水筒は無くしたと言ったら、食堂の人に思いっきり怒られた。
 数日後、何となくその人を見つけた場所に行ってみたら、胃液を吐いた所には盛り土がされていて、ぱっと目を引く枝振りの所に、綺麗に洗った水筒が吊るされていた。中には金貨が一枚入っていて、正直扱いに困った。その国では、普段の生活で金貨をほとんど使わなかったから。
 その人と次に会ったのは、夏の長期休暇の頃だった。僕は故郷が遠いって名目で毎年帰郷せず、寮で生活していた。
 一応、国を挙げての留学生という扱いだから学費は免除されていたけど、それ以外は自力でどうにかする必要があったから、こういう長期の休みの間は食堂の人や用務員の人の仕事を手伝っていた。休みといっても講師達はよく学院にやって来るし、僕みたいに遠国から来て中々帰れない留学生も居る。人の手を入れないと建物はすぐ痛むから、と掃除道具を手に駆けずり回された事もある。
 その人と会ったのは、掃除をしているまさにその時だった。
 ふと視線を感じて顔を上げれば、少し目を丸くしたその人が立っていた。その時も彼は一分の隙も無く服を着込んでいた。それでも何となく顔色が悪かったから、体温調節が上手く出来ない人なのかもしれないと思った。
 ここの生徒ではないのか、とその人が聞いてきたから、生活費は自分で稼ぐんです、といった旨の返事をしたと思う。その辺りは、もうずいぶんと前のことだから少し曖昧だ。
 そうして少し立ち話をしていたら、軽めの足音が駆けてきて、あにうえ、と声変わりも済んでいない甘い声がした。その人はくるりと振り向き、とても穏やかな表情になって駆け寄ってきた子供の、赤っぽい金茶色の頭を撫でる。何だか、少し面白くなかった。先ほどの返答は微妙に覚えていないのに、そういった感情だけはやけに覚えている。
 少し怖い印象の、何と言うか鋭角的になりがちな輪郭の人だけど、表情が緩むと驚くほど優しげな雰囲気になる。あの辺りは、多分わざとやっていた。冷淡な中立と敵の多い人だったから。
 で、その子供は僕と目が合った途端、とてつもなく嫌そうな顔になった。僕も十中八九、似たような顔をしていたと思う。その人は困ったような顔になって僕に短く挨拶し、子供を連れて去っていった。勝ち誇った子供の顔に窓を拭いていた雑巾を叩きつけたい衝動は、どうにか堪えた。その時、全身布で覆っていた姿の下はあの人なんだろう、と何となく理解した。
 その後も、何度か会う機会はあったが状況は似たり寄ったりのまま、その年は過ぎていった。

 五年目。この年は、もし戻れるなら過去の自分を出来うる限り残忍に殺してやりたいぐらいだが、愚痴を連ねたところでどうしようもない。同じような愚行は二度としないつもりだが、戒めのために記す。
 年が明けて新たな学年に進学しても、その人との邂逅はなんとなく続いていた。否、続けられていた。最初の頃は本当に偶然――僕が人気の無い場所を好んでいたのもある――だったが、次第に向こうが合わせるようになっていた。僕も、それとなく足を向ける場所を絞るようになっていた。
 それなりに僕を信用してくれたのだろう。彼の口から直接聞いた事は無いが、少しずつ僕に向ける眼差しが柔らかくなっていっている事には気付いていた。彼は天才的な閃きは無かったけれど、明晰で理知的ながら独自な角度を切り出す視点を持っていて、話していて楽しかった記憶がある。
 あの子供も、それらには気付いていたのだろう。あからさまに僕を睨みつけるのがいつしか習慣となっていた。こちらと会話は、ほとんど交わした事は無い。
 ただ、会う度に面やつれしていくようで、少し心配ではあった。その頃にはサダルスード講師に彼と何度も出くわしている事実は知られていて、二人その事について触れる事もあった。きつい口止めと共に、彼と気に食わないあの子供が講師の腹違いの兄弟であると教えられたのも、同時期だった。確か。
 …………それを知ってしまったのは、奇しくもなのか皮肉なのか、彼と初めて出会った泉の畔だった。
 その日、彼は珍しく一人でじっと、いつかと同じようにさざなみ一つない水面を見つめていた。
 近づき、どうしたのかと尋ねてみれば、水が冷たそうで良いなと思っていた、という内容を遠回しにした言葉が返ってきた。
 良いなと思うなら試してみれば良い、と自分が返せば、彼はその発想は無かったとばかりにきょとんとする。育ちのせいか、彼はそういった即物的な行動には中々思考が及ばない。
 時期はちょうど夏も盛りで、自分も暑かったために靴を脱ぎ、裾を膝上まで捲くり上げ、ざぶざぶと泉に入るのを、彼は唖然と見ていた。
 中央辺りで急に深くなるが、ある程度まではせいぜい膝ほどの深さしかない泉に浸かりながら振り向いた僕は、たまにはちょっと羽目を外したって良い、的な事を言った。彼はそれもそうかと脱いだ靴を丁寧に脇に置き、丁寧に裾を折った足先をそっと水につけ、冷たさにびっくりした後、見るからに恐る恐るといった表情で足を底に付ける。
 悪くないな、と笑った彼の顔が思いのほか幼く、蕩けるように柔らかくて。それに思わず見惚れた自分はうっかり、水の深い部分に足の一方を踏み込んでしまったのだ。あっと思った時にはもう立て直せないほど傾いていて、驚いたように立ち上がる彼の姿がやけに目に焼きついた。
 当然というか、全身濡れ鼠になりながら陸に上がった僕はさすがに情けなくて、火を噴くように熱い顔をずぶ濡れの膝に押しつけ、しばらく顔を上げられなかった。
 少し躊躇っていた様子の彼が僕の前に膝をつき、そのままふわりとした感触が頭に掛けられ、ぎこちないが丁寧に濡れそぼった髪を拭かれる感触。空気を介して時々鼻を掠める彼の匂いが、常になく強く香った。
 頭に手は乗っているが押さえられているではないため、するりと顔を上げれば、先ほどまで着ていたはずの上着を脱ぎ、仕立ての良い白い中衣を纏った彼が少し困ったように笑っていた。
 脱ぐのはさすがに抵抗があるかと思ってな、と伸びた彼の腕が、僕の頭からずり落ちそうになった物をそっと押さえる。彼が身に着けていた上着だと気付くのに、普段の倍以上の時間がかかった。
 他はあいにく手持ちが無いと言い訳じみた彼の言葉も、その時ばかりは右から左。僕は、自分でも原因の分からない心臓のざわめきで手一杯だった。
 脱がなきゃせっかく乾いてるのが意味無い、みたいな生意気な口を叩いたような気がする。彼が、一枚でも服を脱いでいる姿など始めて見たせいか、自分でも戸惑うほどに動揺していた。
 わりに白いと思っていた顔に輪を掛けて白い手首や、首筋。女の柔らかさなんてどこにもない、もう既に比較的完成された男の硬さに興奮する自分が信じられなくて、少し視線を逸らそうとしたところで、それが目に入った。入ってきてしまった。
 きちりと整えられた襟元から伸びるしっかりとした首筋に、まるで絵の具を垂らしたように点々と赤黒い痕。服でほとんど隠れてはいるが、少し動くと見えてしまう程度には浅い位置に付いたそれら。
 僕の視線を怪訝そうに彼が追い、そしてその顔が、音を立てそうな勢いで青ざめた。そうして首に残る痕を覆った手のその先にも、ぞっとするほどくっきりと浮かび上がる細長い痣が、袖の下からちらりと見えていた。病的な執着すら感じさせるそれは、指の痕だ。
 僕もその頃、そろそろ異性が気になる年頃であったから、色事のあれこれを密かに取り沙汰して、偏ってはいるが多少の知識は持っていた。だから、手首の方は確信は無かったが、首筋の方は何であるかは分かった。
 その瞬間、僕を支配したものが何であったのか。未だ以って正確には言い表せない。
 ただ明らかなのは、その時の僕は一番汲み取りやすかった怒りと、この状況を信じたくないという拒絶で、自分が思いつく限り、もっとも酷い罵りを浴びせた事実。
 そして、仮面を貼りつけたように無表情な彼へ、頭から被せられていた上着をひどく汚い物であるかのように叩きつけ、走り去ったという、言い訳の余地など皆無の愚かさだ。
 その後は徹底的に彼を避け、ちらとでも見かけた時はあからさまに顔を逸らし、何やら殺気立っているサダルスード講師とも何となくしっくり来ないまま、次の年度を迎えた。その講師の部屋の前で追い出されたらしいまた別の兄弟――実は、あの二人以外にも親しくしている存在は居たのだ――が、あんまりにも寂しそうにしてるのを何度も見かけ、見るに見かねて途中から世話を焼いたりもした。多分、この頃から割と近しい存在限定だが、困ってる相手を放っておけない性質になっていった気がする。
 あぁ、僕の故郷が革命により倒れ、知人を中心に新たに再出発を果たしたのも確かこの年だったな。





 ぽい、とペンを放り投げ、セイリオスは所々指先などで擦って滲んでいる文章を無感動に見下ろした。
 書き損じた書類の内、別に機密事項などの記載は無い物を選んで束ねた即席の冊子。その数枚を費やして書き連ねた内容を、読むでもなくぺらぺらと捲る。インクが乾ききるのも待たずに次へ次へと書き進めたので、それ以前の頁はそこかしことても読みにくい状態になっているが、別に誰に読ませるつもりで書いたわけでもないから別に良いだろう。
「六、七、八、九、十、十一。と、十二……なんだ。まだ半分も行ってないのか。あぁ、いや。六は、そうだな」
 放ったペンを拾い上げ、最後の行の下に少し隙間を置くと、「六年目、サダルスード講師が、新たに発見された古代遺跡の調査に参加。その助手として引きずって行かれる。そこで古代兵器に関心を持ち、専攻とする。彼との関係は先年と変わりなし、一方的な拒絶を続ける。が、」とだけ記す。そこからペンが、進まない。
「あーーーー、やっぱ勢いで此処まで書き切っとくべきだったかな」
 頬の辺りが熱い。照れ隠しに末尾を二、三度ペン先で小突いて、立ち上がった。


 細々と物を重ね、あるいは一まとめに突き込み、それでいて日常生活も送るに支障なく家財の配置された室内を横切り、セイリオスは蔓で編まれた細長い篭に幾つも差し込まれた丸めた紙の中から、迷う事もなく一つを抜き出した。無造作にその場に腰を下ろし、紙を開かないように止めている綴じ紐を解く。

 広げられた紙の上一面に記されているのは、この大陸の地図だ。
 セイリオス達が生きるこの大地はかつて、ただの一国によって尽く支配されていた時期がある。だから、大陸全土の地図を手に入れる事は、さほど難しくない。ただ、その内に在る国の興亡や領土の増減は即座に分かるものではないので、多少曖昧な部分もある。
 セイリオスが持っている地図も、適宜修正が加えられているために、そこかしこ修正跡が見受けられる代物だ。
 巨大な魚がゆっくりと旋回しようとしている風に見える大陸には、ヒレのように突き出している半島が幾つかある。その内の一つを中心として成っているのが、セイリオス達の国だ。その領土は、以前は半島内で収まっていたが、最近他国との小競り合いを制して鉱山権や水利権を獲得し、それに応じて領土も拡大したのだった。
 セイリオスが広げている地図にも、元の領土線がうっすらと残っている。しかし、セイリオスの目的は自国ではなかった。

 地図は割と大きな物で、セイリオスが両腕を思いきり広げたくらいの横幅と、片腕をぴんと伸ばした程度の縦幅を、八割ほど埋める形で大陸が描かれている。残りの二割は海や大陸の周囲に点在する島だ。
 セイリオス達の国は幾つかある半島の中で、いわゆる「胸ビレ」にあたる。
 セイリオスが視線を落としているのは、ゆるやかに弧を描いている大陸の、「尾」の一部にあたる部分だ。陸沿いに行こうとすれば二番目か三番目ほどに距離のある、しかし船を用立てれば、その半分以下の時間で辿り着ける国。留学生として、後には研究者として彼が十二年近くを過ごした国。骨を埋める覚悟さえ固めていた、第二の故郷。
 憎らしくて恨めしくて、それでも結局は嫌えなかった愛しい相手が守ろうと心身を砕いて捧げた国。
「クレスレイド……クー」
 地図の上で手を握りしめ、セイリオスは愛しい名を呼ぶ。

 彼の願いを、覚悟を、無碍にする事は、しなかった。
 だから、本当は自国に連れて帰りたかったのを、しなかった。
 最終的にあの国を統べるのが誰になるか、薄々勘付いていた上で、帰った。
 あの男が先王と同じように道を外れたなら、外から制する事が出来る立場を、採った。
 生涯、あの男が道を踏み外さないなら、それはそれで良いと心底から、思っていた。

「何故だろう。多分僕は、あんたなしでもいずれ幸せを見つけれる気がするよ。クー……僕は、薄情なのかな? なのに、あんた無しでは生きたくないと思う自分は、矛盾してるのかな?」
 燃え盛る炎の中で、より強靭な刃へ生まれ変わらんとする金属に似た瞳から、一粒だけ雫が落ちる。
「セリー」
 ほぼ同時だった。穏やかだが、どこか有無を言わせぬ響きが、呼んだのは。
 ぎらり、とひどく物騒な色が煉の瞳に過ぎり、弾かれるように上向く。
「それ、止めてください」
「そう言うな。中々良い愛称じゃないか。セリー」
「それで私を呼んでいいのは一人だけ、で……」
 威勢よく顔を上げたセイリオスは、いつの間にか入室していた相手が手にしているそれに、思わず言葉を途切れさせた。書き損じの書類を、紐で綴じた束。
「それ、は……」
 ほぼ自室に近い執務室とはいえ気を抜きすぎたと歯噛みするセイリオスに、柔和な顔立ちをした男――セイリオスに留学を勧めた知人であり、現在は一国の主として辣腕を振るう人物は、なんとも楽しそうに冊子を捲っていた。
「なんだなんだ。お前も普通に子供らしい事をしてたんじゃないか。ちょっと安心したぞ。留学に送り出す前のお前は本っ当、可愛げの欠片もなかったからな」
「そうですね、それは否定しませんが……ていうか、返してください」
「つれない事を言うな。しかし何だ、お前、自分の運め……ぶっ、運命っておまっ」
 腹を抱えん勢いで笑いこける男に、セイリオスは地図をくるくると丸めながらぶすりと顔を顰める。
「私だって人間なんですから。誰かを愛しぐらいします。悪いですか」
「いや、良い。お前にそうも人間らしい表情をさせる。そんなお人がお前を好いてくださった事も、お前が人間らしくなった事も」
 笑いすぎて目尻に滲んだ涙を拭いながら男は立ち上がったセイリオスの、胸の下まで伸びた亜麻色をちらと見やった。
「そうやって伸ばしてる髪を、お前がきちんと手入れしている事もな」
 先ほどの馬鹿笑いとは違う静かな笑みを浮かべて、男は広げたままの冊子をそっと手でなぞる。
 セイリオスはむすりとしたまま、首の付け根の辺りでまとめ、胸の前に垂らしてある髪に触れた。そこに巻きつけてある、粒ほどに小さい青い石を連ねた装身具を辿る。その石には微妙に濃淡があり、ゆらゆらと揺らめき趣を変える水面のようであった。

「お前があっちに居たのは十一……十二年か。お前この後、どうやってこのお人を落とした? この後は書かないのか?」
「ッ……書きますけど、陛下には絶対に! 読ませませんからね!」
 地図を戻した蔓篭からまた別の物を抜き、セイリオスは男につかつかと歩み寄る。そしてべりっと音がしそうな勢いで男の手にしていた冊子を奪い、脇にきっちり手挟むと、手にした地図を広げた。


 そうして子供じみていた表情をがらりと改め、怜悧な参謀の顔で地図を示す。先ほど広げていたものではなく、セイリオス達の国と、周辺数国の地理などを詳細に書き込んだものだ。自国に隣接した、山脈を国境の一部としている国を二、三度指で叩く。
「私としては、こちらを本命にしたいのです」
 侵攻の噂を周辺国に掴ませている先とは、また別の国。この辺りでは最も古く、力のある、そして厄介者の国家。
「そこか。攻略に時間を掛ければ、他国から攻められかねんぞ。いや、我らの現状、最大目標ではあるがな。寧ろ、もう少し先の話だと思っていたが」
「これ以上引き延ばしたら、恐らく向こうの属国も動かされますよ。我々も相応に大きくなりつつはあるので。その点はご心配なく。我が一隊にて、一晩で陥としてご覧に入れます。詳しい事はまた明日の軍議でお話しますが、本隊はこちらを同時に攻めていただきたい。同時に刈り取ります」
 すっと指を滑らせ、両国に楔を打ち込むような形で存在している一国で止め、にぃ、と嗜虐的な笑みを浮かべたセイリオスに、男は得心したような様子で頷く。
「あぁ、『エリシェベ山脈の南側の採掘権を求めての使者』か」
 小さく喉で笑ったセイリオスに、男は浮かべていた王の表情をがらりと悪童のそれに戻した。ただ、その瞳だけは冷徹な為政者のものだ。
「それで、お前はどうしたい」
「先人が居るのです。再度この大陸を制するのも、夢語りでは無いでしょう……と言っておきます。私はあなたの参謀ですから」
 どこか人を食ったような物言いに男は呆れたように嘆息し、ようやく眼光を普段のものに戻した。


「成功しても、しばらくは内部の安定で忙しくなる。まだ先の話だな……あぁ、そういや半年後だな。オモルフォの王の即位記念式典。こっちの方には律儀に顔を出して貰ってんのに、こっちは一年目二年目と戦中、戦後処理と連続で私はすっぽかしたからな。今年は流石に行かにゃまずい。私が」
「……えぇ。そうですね」
「使節の中にはお前も入れとけよ? いつもの通りに。何せ今までは、お前が名代だったんだ。頭がすげ替わるだけだ」
 オモルフォの単語に、丸めた地図を蔓篭に戻していたセイリオスが明らかに表情を強張らせる。それを見てみぬ振りで、男は釘を刺した。
 苦虫をそうと知らず噛み潰したような表情で、セイリオスは紙束を抱えた脇に力を込める。
「承知、しました」
「そんなに会いたくないか。会えてないのに」
「……オモルフォの王とは、気が合わないだけです。直接対峙する役割から解放されるなら、正直あまり関わりにはなりたくありません」
 むっとした様子のセイリオスに、男は彼が抱えた束に、ふむ、と目を細めた。
「『僕にとって最悪の敵』、か」
 文章の一部を諳んじて見せた主に、セイリオスはふっと鼻で笑う。
「生涯きっと、変わらないのでしょうね。恐らく互いに、この世で一番殺したい相手だと思いますよ」
「の、割には平静に見えるぞ。お互い」
「当たり前じゃないですか。あれ・ ・は玉座に最も近かった存在から薫陶を受けた者。――必要な時、必要に応じて冷静に判断し、行動出来なければ互いに首は掻けない。生涯掻けない事も視野に置き、殺意を飼い馴らさなければならない。そんな事も出来ない者が彼の傍に在るなど、思い上がりも甚だしい」

 くつくつと何とも不穏な笑いを漏らす腹心に、王は引くでもなく、心底興味を引かれた様子で首を捻る。
「……その手記、完成したらやっぱり読んでみたいんだが。六年目の「が」、の後、何がどうしてそうなった」
「嫌ですよ」
 セイリオスは、手記と言うにはあまりにぞんざいに記された少年時代を慈しむように抱え直し、この上なく楽しそうに微笑んだ。
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